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8-1 男爵令嬢は竜を《ともだち》と呼んだ

 青ざめた満月が、時計塔の頂にかかった。

 竜が聖都に現れるという満月の晩だ。

 メリュはヌヴェル男爵の邸の屋根に、正確には屋敷にあたる壁の上部にあがり、男爵令嬢を恐怖に陥れているという竜の出現を待ち続けていた。

 都を幾重にも取りかこむ壁はもとが要塞だったのもあり、砲門などを備えた通路になっている。いまはそこに、聖騎士隊の弓隊がならんでいた。

 メリュはいつにも増して神経を張りつめていた。

 胸から喉までが痺れるように焼けついていた。それにともなって感覚が鈍っている。


「聖女さま、申しあげるまでもないことでしょうが、決して竜を取り逃がしてはなりませんよ」


 背後に拡がる都を指すようにミカウスは腕を拡げた。

 夜の都は黄金で飾りたてたようにきらびやかだ。

 昔は日暮れとともにひとは家路をたどった。暖炉を燃やして、或いは蝋燭を燈して家族と穏やかな時を楽しんでから、朝まで静かに眠りについた。夜はひとの領域ではなかったからだ。だがひとは竜から離れることで、夜をも征服したのだ。


 故に眠らない都は、繁栄の象徴だった。


「聖都には幾千、幾万のひとびとが暮らしています。竜が暴走すれば、どれだけの犠牲がでるのか、貴女には想像がつくはずです」

「肝に銘じています」


 失態はゆるされない。ひと息で決着をつけなければ。

 どれくらい待ったか。遠くから竜の羽搏きが響いてきた。来る。とメリュはぎゅっと強く、槍を握り締める。

 月を背に、竜の影がせまってきた。

 鳥の翼を携えた竜だった。翼は緑を基調としている。翼だけが月を覆うほどに大きく、頭から胴体までは若馬ほど。翼だけではなく、全身が細かな羽根に覆われていた。ところどころに巻いて跳ねたような青や黄の飾り羽根がまざり、乱菊のように華やかだ。雲を想わせる純白の綿毛が胸もとを飾りつけている。どことなく愛嬌のある姿かたちだ。

 重ねて、これまで戦ってきた竜とは比べ物にならないほどにちいさな竜だった。

 まだ、若いのだろうか。竜は寿命を終えると、新たな幼竜に産まれ変わる。ほんとうに転生があるのかどうかわからないが、そう伝承されてきた。

 緑の双翼を羽搏かせ、竜は男爵の邸にむかってきた。

 予想していたことだが、竜を攻撃するには壁からでは遠すぎる。壁から張りだした塔の屋根に跳び移り、メリュは竜との距離を測る。竜がもっとも接近したところで、彼女は槍をしならせて竜に跳びかかった。

 槍を回転させ、竜の背に突きたてる。羽毛の根もとを覆った鱗にはばまれ、それほど深くは刺さらない。だが竜を地に落とすにはじゅうぶんだった。

 竜はメリュを背に乗せたままで、塔のバルコニーに勢いよく墜下する。

 衝撃は凄まじかった。気絶しそうになりながらも、メリュはなんとか意識を繋ぎとめた。竜を殺さなければならない、という強い意志だけが、いまメリュを動かしている。

 竜が暴走する前に、とどめを刺さねば。

 メリュは竜の様子を確かめることもなく、槍を振りあげる。


「やめてッ、竜を殺さないでちょうだいッ」


 背後から絶叫があがった。


 メリュがはっと動きをとめ、振りかえる。

 ヌヴェル男爵の令嬢だった。衛兵の腕を掻い潜り、塔から飛びだしてきた令嬢は上質な絹の夜着をたくしあげて靴も履かずに走る。背に槍を刺された竜をみて、彼女は悲鳴をあげかけた。だが取り乱しそうになるのをこらえ、泣きながら懸命に訴える。


「その竜はわたくしのともだちなのですッ……殺さないでください、どうか」


 いったい、どういうことなのか。

 メリュが動揺した隙をついて、竜が激しく翼を動かす。

 逆巻く風に弾きとばされ、メリュは地を転がった。壁に衝突して塔から落ちることはまぬがれる。ふらつきながらも態勢を持ちなおして、メリュは舞いあがった竜を振り仰いだ。


 意識をとぎ澄ます。確かにこの竜は嘆いていない。嘆いていなかったのに。

 斬りかかってしまった。


「わた、しは」


 竜を殺さなければならないとおもった。

 竜の望みがどうであれ。


 メリュはがく然と立ち竦む。槍を握り締めているのがやっとだった。メリュが動けずにいるあいだにも令嬢はバルコニーの端に寄り、上空を旋廻する竜にむかって叫び続けていた。


「逃げてちょうだい! ねえ、ここにきてはだめよッ……殺されてしまうわ!」


 令嬢の護衛とおぼしき衛兵たちが集まってくる。

 令嬢を捕らえんと、衛兵は彼女を取りかこみながら、距離を縮めてきた。


「お嬢さま、お戻りください。竜の誘惑に乗り、旦那さまの言いつけを破るおつもりですか」


 衛兵にうながされ、令嬢は細い肩を震わせたが、金糸雀のような緩い巻き髪を振りみだして拒絶する。彼女は垂れたまなじりをきゅっと持ちあげて、声を張りあげた。


「いいえ、お父さまの言いなりにはならないわ! これだけは譲れないのです! それでもお父さまが竜を殺すというのならば、わたくしはいのちを絶ちます!」


 令嬢は果物を切りわけるための刃物を取りだす。綺麗な細工のはいったそれを喉にあてる。


「わたくしはほんきです!」


 どこを斬ればひとが息絶えるのかも知らない手つきで、それでもちからいっぱいに、刺しこめば致命傷となるところを択ぶ。果敢なげな風貌からは想像もつかないほどの苛烈さだった。


「あの竜はわたくしのかけがえのないともだちなのです! 妾の娘だとお母さまに嫌われて姉妹からも遠ざけられ、塔に幽閉され続けてきたわたくしに竜だけが優しくしてくれた! 言葉はつうじなくても、その羽根で抱き締めて涙をぬぐってくれたのです」


 そんなことをしてくれたのは竜だけだったと、令嬢はいった。打算もなく欲望もなく、差別もなかった。ただ慈愛と善意だけがあふれるほどにあったのだと。

 竜をかばい続ける令嬢をみて、メリュは戸惑っている暇などないのだとみずからを叱責する。絶望するのも、失望するのもすべてが終わった後だ。

 彼女は令嬢と衛兵のあいだに進みでる。


「いまの話は、ほんとうですか」


 令嬢がメリュに視線をむけた。令嬢の瞳はなみだに覆われていたが、強い光があった。


「わたしはヌヴェル男爵から依頼されて、あなたを誘拐せんとする竜を斥けにきたのです」

「誤解です。連れさらってと竜に頼んだのはわたくしなのです。子爵のもとに嫁ぐのがつらくて、貢ぎ物のように扱われるくらいならば、いっそ命を絶ってしまいたいと嘆いていたら、竜は月の綺麗な晩にわたくしを迎えにくると約束してくれたのですわ。けれどもそれが、まさかこんなことになるだなんて……ああ、わたしのせいだわ!」


 令嬢はついに泣き崩れ、メリュに縋りついてきた。


「どうか殺さないで……あの竜は教会の教えるような邪悪なるものではありません! とても、とてもやさしい、わたくしのともだちなのよ!」

「わかりました」


 竜を殺しましょうと、頷くことはあっても。

 竜を護りましょうといったことは遂になかったけれども。


 いまがそのときだと、メリュはおもった。


 護らなければならない。竜を殺め続けてきた、罪深い槍を携えて。


「あなたの竜を護りましょう」


 騒動を聴きつけたのか、ミカウスがバルコニーからやってきた。

 泣き続ける令嬢とメリュ、あざやかな尾羽をひいて旋廻する竜をみて、(おおよ)その事態は理解したであろうに、彼はわざわざメリュに尋ねかけてきた。


「如何なさったのですか、聖女さま」

「騎士隊をさげてください! あの竜は嘆いてはいません。この地域を護っているだけです」


 ふむと紺碧の瞳をすがめて、彼は顎に指をかけた。


「いったはずです。わたしは……!」

「嘆きに焼かれ、暴れだした竜だけを殺す。嘆いていない竜は殺さない――存じておりますとも。それが貴女の信条でしたよね」


 ミカウスは従順に頷きながらも根が張ったように動かない。

 わざとらしく眉の端を垂らして、悲しみの表情を模る。


「ですが、嘆かわしいことに、竜というものはかんたんに壊れるのですよ。ましてあのようにひとにこころを移してしまった竜ならば、なおのこと」

「っ……なにが、いいたいのですか」


 おぞましいほどに残忍な微笑を湛えて、ミカウスは銃を取りだす。


「賭けましょうか、聖女さま。竜が壊れるかどうか」


 なんの構えもなしに銃が吼えた。メリュの真横を通り抜けた銃弾は、あろうことか、令嬢の胸を撃ち抜いていた。


「え」


 高級な絹の夜着に血潮が滲んだ。

 潤んだ瞳が見張られる。か細いからだはゆらりと傾き、突風にあおられて低い手すりを乗りあげると、塔の最上階から真っ逆さまに落ちていく。

 メリュが腕を伸ばすが、到底届かない。


 竜の咆哮が響いた。

 緑の翼がバルコニーの端をかすめる。竜は令嬢を助けようと壁ぞいに急降下していった。捉えどころのない動きを続けていた竜が直線をたどったのをみて、弓隊が毀竜の矢を放つ。

 拡げられた翼にひとつ、またひとつと矢が刺さる。

 竜の翼がびくんと強張り、直後項垂れた。

 毒だ。痺れた翼では羽搏けず、竜は令嬢とともに噴水のある聖アルビオ広場に落ちた。

 がく然とそれをみていたメリュは、悠然と近寄ってきた革靴の音にはっと息を飲み、振りかえりざまに槍を薙いだ。ミカウスの頬に触れるか触れないかの距離を、槍の先端がすり抜けたが、彼は表情も変えない。


「あなたはッ……ひとの命をなんだと、おもっているのですか」

「ひと、ですか。ふむ、竜の誘惑に落ちた異教徒は、教会の戒律において人権はありませんので、なんとも。それよりもよいのですか、聖女さま」


 ミカウスはにわかに騒ぎだす夜更けの町を指す。


「竜が暴れだせば、聖都はどうなるでしょうね。幾百、幾千ものひとが竜に殺され、街が破壊されて――いやはや、どれほどの被害になるのか、想像がつきませんね」


 メリュはぞっとする。彼がなにを考えているのか、理解できない。確かなことはひとつ、彼にはなにを訴えても無駄だということだ。


「さあ、聖女さま、どうぞ竜を殺してください」


 背に掛けられた命令を蹴りつけて、メリュは走りだした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

続きは27日20時に投稿させていただきます。

まもなくクライマックスです。引き続き、よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] さすがミカウスという場面ですね。人間の怖さがよく出ている場面でとても良かったと思います。経緯はわかりませんが、固く竜を滅すると決意し、そのために手を汚すことも厭わないのですね。竜を殺すこと…
[良い点] 昨日今日と、ここまで一気に読みました。とても面白いです!人間を愛する竜と、竜を「過去の遺物」として発展を遂げていく人間、ひとと竜のはざまに留まるメリュ、そして竜を愛しひとを憎むラグス。さま…
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