7-6 聖騎士は《竜殺しの聖女》に求婚する
聖ヨルゴス教会の信徒は白い服を身に纏っている。
白は敬虔と清廉と勤勉の象徴だからだ。
都もまた見渡すかぎり、白に塗りかためられていた。
白い壁に白い塔、白い屋根。純白の石畳が敷きつめられた道に白亜で築かれた凱旋門。端から端まで穢れのない純白だというのに、なぜか、メリュの瞳にはくすんで映った。垂れこめた曇天のせいかともおもったが、もっと内側から浸みだすような濁りがあった。
清濁という言葉が頭によぎる。不都合なものを、覆い隠すような。
事実、壁をかためた漆喰を剥がせば、なかには数えきれないほどの銃弾の痕と血痕がある。現在でこそ、白薔薇の聖都と謳われているが、昔は幾たびもの戦争と内戦を経験してきた要塞の都だった。その事実を壁のなかに葬り、輝かしい威光だけを誇って、聖都は続いている。
凱旋のとき、祝福を、繁栄を、勝利を、と騒ぎ続ける白い群衆のなかにひとつ、艶やかな黒があるのをメリュは確かにみていた。黒はすぐに満ち潮みたいな雑踏にまぎれてしまい、はっきりとその姿を確かめることはできなかったけれど。
「……聖女さま」
あれは、彼だったのだろうか。
そんなはずはないと考えながらも、どうしてもそのことが彼女の頭からは離れなかった。
「聖女さま、聞いておられますか」
何度か呼び掛けられて、メリュはわれにかえる。
ぱちぱちと瞬きを繰りかえし、彼女はようやっと、会食に招かれていたことを思いだす。竜の依頼をもってきたヌヴェル男爵と食事を取りながら事の経緯や詳細を聞いていたのだった。円卓には贅のかぎりをつくした料理の数々がならべられているが、ほとんど減っていない。
「……すみません」
「お疲れなのですね」
ミカウスは彼女をいたわり、責めることはせずに男爵の話を復唱した。
事の発端はひと月前の満月の晩だ。
ヌヴェル男爵の暮らす邸の塔に竜がとまっていたというのだ。
聖都ではこれまでにも月の美しい晩に空を翔ける竜の姿をみたというものがおり、町の者は恐怖に曝され続けてきたという。特に敬虔な信徒は竜をおそれるあまり、満月があがると扉に鍵を掛け、窓の幕までしっかりと締めきり、震えながら朝まで過ごすのだとか。
竜を見掛けたという声は男爵の邸周辺に集中しており、邸の塔には男爵の娘の寝室がある。
「竜はわが娘をさらおうとしているに違いないのです。親の私がいうのもなんですが、ほんとうに美しい娘でして。まもなく子爵のもとに嫁ぐことが決まっているのですが」
男爵はそう訴えた。
「竜が、そのようなことをするでしょうか」
例え、嘆きに蝕まれていたとしても、竜がひとりの娘に執着してつけ狙うとは考えにくい。ほんとうに誘拐しようとしていたとすれば、いったいなぜなのか。なにかわけがあるのではないか。メリュはすかさずそういったが、痩せたねずみのような男爵は大げさに悲しんでみせる。
「なんと、敬虔な信徒であるわたしをお疑いですか」
「いえ、そういうわけではないのですが」
「悪しき竜は令嬢や姫君をさらおうとするものでしょう。どの地方の童話にもそう綴られております。ああ、なんとおそろしいことでしょうか」
ひとの母親をもたないメリュは童話など読んだことはない。されども、童話か。
可愛らしい細工のされた革表紙の真新しい頁。幼いこどもに物語を語る母親の穏やかな声。そんなところにもすでに、ひとを愛し、ひとに愛された竜の姿はないのか。これからおとなになる子どもたちは竜をおそろしい怪物だと信じきって、新たな時代を造っていくのだ。
メリュが絶句してしまったのをみて、ミカウスがあいだを取りなす。
「ええ、ええ、ヌヴェル男爵の仰るとおりです。竜はおそろしい。聖ヨルゴス教会の信徒と神聖なる都をおびやかす竜は、残らず掃滅せねばなりませんね。おまかせください。我々聖騎士隊が神の御名において、かならずや竜を裁いてみせましょう」
「おお、なんと頼もしく有難いお言葉だ……感謝いたします」
ヌヴェル男爵が畏まり、頭を垂れた。
「竜が現れるのは決まって、満月の晩です。どうか娘をお護りください、聖騎士さま」
聖騎士隊は教会直属の組織である。
聖都に暮らすものは貴族であれ、貧しきものであれ、神の教徒である。教会の権威に勝るものはなく、まして聖騎士隊は神の御名のもとに裁きを執行する、いわば神の軍隊である。男爵が恐縮するのも無理はない。だが聖騎士隊を統括するミカウス隊長には媚びつつも、その側につき従っている素性のわからぬ娘には疑いの視線をむけていた。ミカウスは彼女を隊の精鋭にして隊長補佐だと紹介したが、剣をもって戦う騎士には到底みえなかったに違いない。
「その……ひとつ、お尋ねしたいのですが、聖騎士さまはそのように若い娘がお好みなのですか。実はうちにも十五歳になったばかりの娘がいるのです。わが娘ながら驚くほどに可愛らしいのですが、まだ婚約も決まっておらず。その、ですね、聖騎士さまがよろしければ」
下卑た提案にミカウスは微かに眉の端を持ちあげる。男爵は場違いな娘のことを騎士隊長の情婦だと勘違いしている。
「それは、隊長補佐たる彼女にたいする侮辱ですか」
「い、いえ、そんなつもりでは」
「貴殿が御自身の娘を、家を繁栄させるための貢ぎ物となさっているのは、われわれには係わりのないことです。ええ、神も宣っておられますからね。汝、繁栄せよと。欲望に忠実なのは悪いことではありません。ですが、教会のものを取りこむにはいささか、策がないといいますか。いえ、そうですねぇ」
ミカウスは顎に指をかけ、せせら笑うように瞳を細めて。
「品格と知性がたりないのではありませんか」
普段となにひとつ変わらない穏やかな物腰だったが、関心のないものをばっさりと斬り棄てる、それこそ剣をもってほんとうにその首を斬るような酷薄さがあった。
食事を終え、ミカウスの邸に帰る。
聖堂にほど近い壁には、教会に勤務する騎士や聖職者、貴族の邸がならんでいた。
邸といっても、壁のなかに建築されていることに違いはないのだが、邸と邸のあいだには馬車がすれ違える程度の路地と門が設けられている。白い壁には神の彫刻や楽園を模った浮彫細工などが施され、要塞の壁というよりは、神聖な壁画のなかに高貴なひとびとが暮らしているように感じられる。
ミカウスの邸の壁には教会の旗を掲げ、竜を踏みつける女神の彫像があった。メリュはこの像を振り仰ぐと、毎度身のうちに流れる血潮が急激に凍りついていくような心地になる。
竜を殺すべくして殺す。それは、彼女の望むところではない。
されどもこの旗のもとに竜を殺すということはそういうことだ。
そうして、彼女は想うのだ。
竜を愛そうとも、竜を憎もうとも、竜を殺すことには変わらない。
愛するものを護るためにやむなくひとを殺しても、みずからの欲望を満たすためだけにひとを殺しても。他者を殺すことが平等に罪であるように。
しょせんは等しく、竜殺しなのだ。
後悔を振りきるように娘は扉をくぐる。
無駄にきらびやかな貴族の豪邸とは違い、ミカウスの邸宅は白と黒に統一され、落ちついたふんいきを漂わせていた。触れるだけでも質のよさがつたわってくる机に猫脚の椅子。白い背表紙の聖典ばかりがいれられた黒い書棚や銀刺繍の織りこまれた絨毯。調度品の数々からも彼の趣味のよさがつたわってきた。
「ちょっとだけ、やすませてください」
メリュは椅子に腰かけた。
朝から胸から喉にかけてが熱い。竜の紋様が静まりきっていないのだろうか。
ミカウスが側に寄り添ってくる。彼はためらいもなく絨毯に膝をついた。
「お詫びしなければなりませんね。貴女のことはまだ、きちんと公表できていないのです。そのせいで男爵のもとでは、実に不愉快な思いをさせてしまいました」
彼は項垂れるように頭をさげた。金の絹糸のような髪が耳の縁からすべる。
「神は宣いました。朝の後に昼が巡るように何事も順序があると。貴女のことは時がくれば、広報いたします。それまでは私の側近ということでご容赦いただけますか」
「役職なんかあってもなくても、わたしは構いません。構わないことです。なにもかも」
メリュは動じずに、細い喉を震わせる。
「私の情婦かと疑われたことも、ですか」
「それは」
色事には疎いメリュでも情婦ということくらいはわかる。
「不愉快だとすれば、わたしではなく、あなたではありませんか。あなたの恥になります」
ミカウスは驚いたように眉を持ちあげ、続けてふっと相好を崩す。
「なぜですか。貴女はこんなにも美しく有能だ。誇りにはなっても恥になどなりようがない」
娘の脚を取り、靴を脱がせると彼はそのつまさきに唇を寄せた。桜貝のような爪に縁どられた指の先端をまるめてメリュは拒絶するが、品のある動作の割には強いちからで手繰り寄せられ、逃れることができなかった。
「あのような誤解がふたたびにないよう、私と婚約してはいただけないでしょうか」
つまさきに接吻を落とされた。
「愛しているのです。聖女さま」
驚くほどに熱烈で丁寧な求婚だった。愛など説かれたのははじめてのことだ。メリュは視線を彷徨わせて戸惑い、ほとんど無意識のうちに尋ねかけていた。
「……あなたは、わたしを憐れだとおもいますか」
問われた意味が解らないとばかりにミカウスは眉の根を曇らせ、いいえといった。
「貴女のどこが憐れでしょうか。貴女ほど誇らしく、強く、美しき御方はおられません」
ああと、メリュは息をついた。
落胆と失望と。
納得が、胸のうちに落ちてきた。熱をともなって。
彼だけだ。彼だけが竜を殺す娘を憐れんでくれた。憐れまれたいと望んだことはなかったけれども。それでも嫌ではなかった。嫌ではなかったのだ。彼は、彼女が傷だらけだったから、愛するものを殺さねばならなかったから、憐れんだのではなかった。
あれは理解だった。竜のありようを愛し、それに殉ずる彼女にたいする。
理解と、肯定だったのだ。
メリュはあらためて、跪き、愛を語る聖騎士に視線を落とす。
「繁栄せよ、ですか」
彼は青い瞳をすうと、細めた。彼女がなにに気がつき、なにを言わんとしているのか、察しているだろうに釈明しようとはしなかった。
「わたしは、あなたを繁栄させることはありませんよ。破滅させることはあっても」
艶やかに微笑んで、メリュは脚をつかんでいた指を振りほどいた。ふらつきながらも立ちあがり、裸足のままで男の側を通り抜けていく。
男の唇にも微笑がともっていた。
「あなたはやはり敏いですねぇ」
くつくつと喉を震わせる笑い声を背に感じながらも、メリュは振りかえらなかった。
廊下に掛けられた鏡をのぞきこみ、彼女は胸もとの紐を解く。
焼けつく胸には微かだが、竜の斑紋が残っていた。血潮に浸る時間が短かったのか。それとも、竜を連続して殺しているせいで治癒が追いつかないのか。
あるいは報いか。
報いならば、享けいれよう。竜の血潮を啜って諍い続けてきたけれど、もう、いいようなきもちになっていた。あとはそれまでにどれだけの竜を終わらせられるかだ。
鏡に映る彼女はひどく、疲れ果てた瞳をしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きは26日20時になります。
単なる竜殺しとなりさがってしまったメリュの命運は如何になるのか……
引き続き、更新を続けて参りますので応援していただければ幸いです。