7-5 あわれ彼女は《竜殺し》
「金貨五枚、確かに」
華やかな貴婦人にかこまれて、青年は端整な貌にあからさまな愛想笑いを浮かべ、薬を売りさばいていた。取り扱っているのはどれもまじないの薬だ。
貴族のあいだではきもちが落ちつく薬や怒りを静める薬、惚れ薬などに需要が集まっていた。
外套を脱いだ彼の類まれな美貌もあってか、都の噴水ちかくにたたずんでいるだけでも、薬は津波にでもさらわれるようになくなっていく。
ひと月程前まで一緒に旅をしていた相棒には遂にみせることのなかった、みせたくもない愛想を振りまき、ラグスは路銀を稼いでいく。
「ねえ、竜を遠ざけるような薬はないのかしら」
ラグスはまたかと唇の端を微かに震わせる。
喋りかけてきた貴族の胸もとには純金製の逆三角形が揺れていた。彼女だけではない。都をいくものはみな、聖ヨルゴス教会の信者の証を身につけている。
さすがは聖都だ。
すぐに表情を取り繕い、ラグスは貴婦人にむかって頷いた。
「取りそろえていますよ。竜がどのような害をなすかにもよりますが」
「息子が画家になるとか言いだして、勉学をさぼるのよ。昔は親のいうことにきちんと従う、まじめなこだったのに。この頃は聖都にも竜が現れるというじゃない。竜はひとが怠惰になるように誘惑するとか。息子があんなふうになってしまったのも竜の仕業に違いないわ」
ラグスは内心辟易する。そんなものは竜のせいでもなんでもない。お子さんが碌でもない親の洗脳から抜けだせてよかったですね、といってやりたいきもちをなんとか押しこめて、てきとうに集中力の増す薬を選んで差しだす。信仰心があれば竜の誘惑を断ちきれますよ、と微笑みかければ、貴婦人は喜んで金貨を弾んでくれた。
「そういえば、ご存知かしら」
貴婦人は弾むような口調で喋りかけてきた。
「ミカウス隊長の率いる聖騎士隊が大陸のあちらこちらに遠征して、竜を退治してくださっているとか。まだ教会からの発表がないから、噂にすぎないのだけれど」
ラグスが呼吸をつまらせる。
彼女だ。とおもった。疑いようもなく。
「竜は殺せないと昔からいわれてきたけれど、聖ヨルゴス教会には神さまがついておられるから。きっと悪しきものを倒すちからも、神が授けてくださるに違いないわ」
嬉々と喋り続ける貴婦人の声が遠くなる。濃い紅の乗った唇だけが視界の端で動きまわった。
「ねえ、あなた、噂はほんとうだと……」
貴婦人が一瞬、言葉を絶する。ラグスがあまりにも、昏い双眸をしていたからだ。
結晶が罅割れるように真紅は濁り、焔がごうと燃えた。貴婦人はなにかおそろしいものをみてしまったようにかたまっている。彼はすうと口の端を持ちあげ、微笑みかけた。
「素晴らしい偉業ですね。まるで英雄だ」
「そ、そうよね」
安堵したように喋りだす貴婦人をさえぎるように、彼は斬り棄てる。
「僕は、興味がないけれど」
竜殺しの英雄譚など、聴きたくもない。
彼がこころを寄せるのはただひとつだ。教会に組みこまれ、敵にかこまれながら、こころをそぎ落として槍を振るい続けているであろう竜殺しの娘。祝別もなく竜に殉ずる娘。彼女のことだけが、ラグスの胸のなかに毒の棘のように刺さっていた。
貴婦人は彼から不穏なものを感じ取ったのか、そそくさと離れていった。
薬はあっというまになくなり、かわりに硬貨が積みあがる。
これだけあれば、数カ月は悠々と旅が続けられるはずだ。
「聖都アルビオベルクか」
ラグスは愛想笑いをやめ、いまいましげに純白の壁に造りあげられた聖なる都を振り仰ぐ。
共和国の首都から程近いところにあるこの都は、聖ヨルゴス教会が統べる信仰の都だった。
壁の要塞に護られた都市ならばどこにでもあるが、この都は幾重にも連なった円形の壁のなかに建物が埋めこまれるようなかたちになっている。壁のなかの区劃された空間が住宅となり店舗となり、貴族の邸となっているのだ。
壁は外側ほど低く、内側にいくにつれて階層が増えていく。外側から順に貧民の暮らす地区、水路を挿んで繁華街、平民の住宅地区、現在ラグスのいる貴族の居住地区にわかれていた。都の中央には大聖堂があり、町のどこから仰いでもとがった時計塔がみえる。
かつては中央の貴族や教会を護るための、円形の要塞都市であった。
薔薇のはなびらのようなかたちから、現在は白薔薇の聖都とも称されている。
だが貧富の差を浮き彫りにし、身分制度を強く意識させる都の構造はまさに竜なき時代を表しているようだと、ラグスは激しい嫌悪をおぼえていた。身につけた飾り物だけ華やかな貴族の群を遠巻きに睨む。彼らの提げた信仰の証は、黄金でできているのだ。
加えて聖都だけあって、ここに暮らしているものは例外なく聖ヨルゴス教会の敬虔な信者だ。信者は竜を嫌っている。みたこともない竜を憎悪し、なにかよからぬことがあれば竜の所為だと騒ぐ。竜に憑りつかれた、竜に誘惑されたとまるで悪魔扱いだ。
「まったく不愉快きわまりないね」
されどその矛盾と欺瞞のただなかに、いまあの娘はたたずんでいるのだ。
捜しもののついでと誰にともなく言い訳をしながら、ラグスがこの不愉快な聖都に寄ったのはメリュがこの都のどこかにいるのではないかと思ったからだ。だが聖騎士隊が遠征にまわっているということは、彼女もここにはいないということだ。
彼女とふたたび逢えることはないのかもしれないと彼は考える。それならばそれでも構わないはずだと。けれどもどうしようもなく、胸がかきむしられる。
「まったくもって、いまいましいよ」
最後に振りむいたときの、あのむごたらしいほどに綺麗な微笑が、目蓋の裏に焼きついて離れなかった。
彼女は気がついていないのだ。
竜を殺すたびにみずからがどれほど、魂をそぎ落としているか。からだの傷は塞がっても、彼女のこころは絶えず、血を滴らせている。焼けつくような激痛をともないながら。
荊のかんむりを被り、焼けた鉄の靴を履いて、凍える地獄を進み続けるように。
彼女は、竜にすべてを捧げていた。
故に彼女は竜の意を重んじる。竜が許すかぎり、彼女は恨まなかった。人類のあらゆる欲望を、不条理を、身勝手を、傲慢を、残虐を。恨まずに嘆いた。その絶望を、激痛を、喪失を、戦争を、飢渇を。
せめても等しく、嘆いたのだ。
これほどむごいことがあるだろうか。
彼女は、ひとだ。竜ではなく、ひとなのだ。
幾ばくの嘆きを募らせても、彼女は竜のように壊れることはない。だが、傷だらけだ。壊れることもできずに傷ばかりが増えている。綺麗な傷だった。他者を傷つけることもなく、他者に押しつけることもなく、彼女だけがひき享けた傷。
彼女は、綺麗だった。憐れなほどに綺麗だったのだ。
ふと、彼の耳に騒がしい声が飛びこんできた。
「騎士隊が都に帰還されたそうよ」
「それじゃあ、いま凱旋門にむかえば、ミカウス隊長にお逢いできるかもしれないのね」
ラグスはそれを聴くなり、踵をかえし、凱旋門にむかって歩きはじめていた。
壁に設けられた細い路地のような門を潜って、都の外側に移動する。壁を抜けるごとに町の風景が華やかな都会から、寂れた質素な町並みに移りかわる。そこに暮らすものの身なりからも貧富の違いがうかがえる。
凱旋門のまわりには人だかりができていた。
群衆を掻きわけると、ようやっと騎士隊の姿が見て取れた。
純白の鎧を身につけた騎士が馬に乗って列をなしている。先頭に視線をむければ、ミカウス。彼は洗練された笑顔を振りまき、信者の声援と賛美に手を振っていた。その後ろには。
「メリュ……」
竜殺しの娘が、いた。
婚礼にむかう花嫁を連想させる服を着ていた。煉獄に嫁いだ娘の風姿だ。
誰も彼もがそろって白を纏っているのに、彼女の純白だけが異様なほどにあざやかだった。
ラグスを取り巻くあらゆる喧噪が、かげろうのように移ろった。
白い馬に跨ったメリュは信者たちの賛美の嵐に馴染めないのか、困惑するようにまわりを見まわしている。ミカウスが馬を寄せて、そんな彼女になにごとかを囁きかけた。おそらくは「私がきたからにだいじょうぶだと、竜におびえる信徒を励まして差しあげてください」と。
メリュは群衆にむかい、微笑みかけた。慈愛を振りまくように。
無様に傷ついたさまをみせられるよりも、誰かにうながされて繕われた微笑みにこそ、彼女の憔悴が如実に表れていた。彼女がいま、どのように竜を殺しているのかが、ラグスには一瞬にして理解できた。その押し潰した、悲哀までも。
「無様だね」
思わずかたちのよい唇の端がゆがむ。
いつだったか、彼女はいった。あなたの嘲笑もたいがい、さみしげですよ――と。
彼はそれを否定できなかった。彼もまた嘲笑を湛えることによって、膨れあがる憎しみや不満を韜晦してきたからだ。みとめなければならない。彼女の微笑みが神経に障るのは、そこにじぶんの影を重ねるからだ。
だからこそ、あの微笑は刺さった。
失望なんてなまぬるいものではない。
そんなふうにたやすく棄てられるような、熱ではなかった。
「おまえがそんなにも嘆くならば、僕が――」
ふたりの距離は遠く、あいまでは怒涛のように群衆が騒いでいる。
段々と騎士隊が離れていく。彼は縫いとめるように、遠ざかる娘だけを睨み続けている。純白の後ろ姿を映すその双眸は、執着じみた激情を湛えて、毒々しく燃えていた。
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