7-3《つきぬ水脈の竜》
月と星に照らされてもなお、黒い砂漠だった。
大地がなくなってしまったのではないかと錯覚するほどに、黒い。
純黒の砂を巻きあげながら、砂漠を縦断する竜がいた。鯨のかたちを模した地竜だ。そのからだには、青い光を帯びた幾何学模様があった。その模様のために、竜が砂に潜っていてもどこにいるのかわかる。
ひと振りの槍を携えた娘が果敢にも竜にむかっていく。
娘は胡蝶のようにちいさく、竜は途方もなく大きい。
竜の翼が勢いよく、娘をはじき落とす。砂を掻くための翼だ。砂漠に埋もれかけて、傷だらけになりながらも彼女は立ちあがる。竜を殺すまで、幾度でも。
聴こえているのだ。メリュにだけは聴こえている。
せめても殺してほしいと望む、竜の懇願が。
幾多の銀光が砂漠の黒を裂いた。
矢だ。幾十、幾百もの矢が、娘を避けて竜にそそぐ。
白き羽根の結わえられた矢は如何なる武器をも通さないはずの、竜の背につき刺さった。竜の動きが一瞬、鈍る。痙攣するように背を震わせた地竜に、槍を構えて跳びあがった娘が迫る。
娘は雷のように竜の頭頂を貫いた。
「せめても、静かな終焉を」
竜は嘆きを終え、宵の帳を敷きつめたような純黒の砂漠に埋もれて、眠りについた。ふたたびには朝の訪れることのない、とこしえの眠りだ。
彼の竜はかつては《つきぬ水脈の竜》と謳われた。鱗のないからだに浮かびあがる模様が、砂漠の水脈を想わせたのだろう。光をどこまでも透す海の水のような輝きを帯びながら紋様は脈動を続けている。血の流れが竜の肌を透かして、表に表れているのだろうか。
水脈を身にやどす竜は、砂漠においてはまさしく、恵みの象徴だった。
されどもいまは、黒き砂嵐と津波をもって砂漠の都をおびやかすわざわいとして遠ざけられていた。ひとはみずから水脈を捜すすべを身につけた。水脈を教え、水を汲みあげてくれる竜がいなくても、ひとはもはや、渇くことはないのだ。
嘆きの強い竜だった。眠ることもなく数年に渡り、砂漠中を暴れ続けてきた。
貫かれた頭部から、水銀の血潮がとうとうと砂漠に溢れだす。段々と竜の肌が暗くなり、やがては光が途絶えた。
ようやっと竜は、静かになる。
竜の頭を貫いた槍を握り締め、竜殺しの娘は祷るように目蓋を硬く塞いだ。
竜の血潮に濡れた髪が、はらりと青ざめた頬に落ちた。短い沈黙。唇から細く、歌がこぼれだす。鎮魂というにはあまりにも頼りない、なぐさめの歌だ。
真新しい服のすそが砂をともなった風にあおられた。
花嫁のような純白の衣裳だ。すそはそりかえるはなびらのように拡がり、髪は服にあわせて綺麗に結いあげられている。胸もとには教会の徽章。
聖ヨルゴス教会にきてから、ひと月が経った。
殺した竜の数は三頭。これは驚くべき数だ。
ラグスと旅をしていたときにフォルミーカの町、ビタの町と連続して竜に逢えたのは、実は非常に運がよかったのだ。普段は二カ月に一度、竜と遭遇できればいいところだった。情報を頼りにむかっても、竜の棲み処にさえたどりつけないこともあった。
哀悼を無理やりに終わらせるように称賛があがった。
「素晴らしい……さすがは聖女さまだ」
輝かしいまでに豪華な鎧を身につけたミカウスがメリュを振り仰ぎ、膝を折っていた。彼の背後には弓を装備した騎士隊がならんでいる。賛美の言葉には僅かも微笑まず、メリュは砂漠におりてミカウスに問い詰めた。
「なぜ、矢が」
「ああ、弓隊を動かしたのは貴女の援護をするためであって、他意はございません。少々苦戦しておられるご様子でしたので。差し出がましいことにいたしました。お詫びいたします」
うやうやしく、ミカウスは頭を垂れた。
「そうではありません。なぜ、あの矢は、竜に刺さったのですか」
「ふむ、左様ですね。これはさきにお話しさせていただくべきでしたが……われわれ聖ヨルゴス騎士隊の装備している剣と矢は、竜に傷をつけることができるのです」
メリュは絶句する。
「驚かれましたか。《毀竜の剣》もとい《毀竜の矢》というものです。ですが、傷をつける、だけです。殺すにはおよびません。いかに傷つけようとも竜は息絶えない。息絶えなかった」
その言葉に身のうちが凍りついた。
つまり教会は竜を傷つけるだけ傷つけて、殺せなかったのだ。息絶えるぎりぎりまで激痛と絶望をあたえられた竜がいる。それだけでもメリュは戦慄せずにはいられなかった。
「その竜はいま、どうなっているのですか」
竜は本来傷つかないが、それゆえに傷を癒すことができない。
死に到るほどの傷だけをかかえて、どこかを彷徨っているのか。
「さて、どうでしょうか。なにぶん、ずいぶんと昔のことでして、教会の記録には残っておりませんので……っと、なるほど」
ミカウスは怒りを漂わせた彼女の視線に気がつき、微笑んだ。
「聖女さまは慈悲ぶかい。それに純真であらせられる。清濁をあわせのむようなことはなさりたくないのですねぇ」
細められた眸にすうと、残忍な影が差す。
だがそれは一瞬のうちに掻き消え、おとなが子どもに言い聞かせるような穏和さを帯びる。
「文明の進歩というものは犠牲がつきものなのですよ」
「犠牲、ですか。綺麗な言葉ですね」
犠牲という綺麗事に飾りつけられては、道理に悖るできごとが、かんたんにかたづけられていく。数えきれないほどの犠牲を積みあげて、人類はどこに到ろうとしているのか。
ずきんと胸が激しく痛み、呼吸がとまった。紋様の侵食だ。すかさず肩を抱きかかえてきたミカウスに支えられ、砂に倒れこむようなことはなかったが、立ち続けていることもきつい。
「話は後にいたしましょう。まずは傷を癒してください」
うながされて、メリュは服を脱いだ。
息の根をとめようとするかのように、胸から喉にまで、銀の紋様が絡みついていた。
戦いによる傷もひどかった。背は服ごと裂け、深い傷があらわになっている。細い左腕は折れているのか、紫に腫れあがり脚からは血が流れ続けていた。竜がひどく暴れていたせいだ。
竜の血潮は砂丘の低地に泉のように溜まっていた。砂は竜の血潮を吸いこまず、満々と湛えている。メリュは血潮の泉に身を浸した。
「ああ、何度みても、お美しい」
ミカウスは娘の裸に、細い瞳をいっそう細めた。
「貴女の肌にあると、まがまがしい竜の紋様までもが美しい刺青のようですね。旧い書物に綴られたまじないのような詞といい、なくなってしまうのが惜しいほどだ。聖女さまはもとから類まれなる美貌をお持ちですが、竜の血潮にまみれた貴女は何にも例えられぬほどに美しい」
「ずいぶんと、悪趣味なのですね」
恍惚としながら娘を誉めそやすミカウスに、メリュは棘のある言葉をかえす。
「まさか。ああ、どうかそのように睨まないでください。ぞくぞくとしてしまいます」
ミカウスは整った顔を弛め、身震いをする。
「私はわれながら趣味がよいと自負しているのですがね。貴女のためだけにあつらえたその衣装も実に素晴らしいでしょう。最高級の絹をつかっていながら、そうかんたんには傷つかない。さすがに竜の攻撃にはたえられませんでしたが、その服があったから傷が背骨に達さずに済んだはずです。戦いやすく、なによりも竜の血潮が映えます」
純白に散った竜の血潮はやけに鈍い銀にみえる。
「ああ、まるで神が地上にご光臨なさったかのようだ」
ミカウスは胸もとに掲げた人差し指を素早く動かして、ちいさな逆三角形を描いた。
あれが祈りの動作だとメリュはすでにおぼえた。はじめて教会に連れていかれたときには、神がひとのかたちをしていることにも驚かされた。大陸には昔から様々な宗教と土着信仰があったが、八割の神は竜のかたちを取り、二割は動物を模していたからだ。
それは万象にたいする敬意の証だった。
人類の考えかたそのものが竜から遠ざかり、新たなものになりはじめている。
ひとびとは竜を、忘れさろうとしているのではないかと、彼女は考える。
いつか竜は絶滅するだろう。清濁をあわせのむことのできる強い人類に比べて、竜はあまりにも果敢ない。
それをわかっていてもなお、メリュには竜を救えない。
彼女は竜殺しだ。
竜を終焉に導き、破滅に到らせるだけの。
けれどもそれを肯定してくれたものがいた。救済ではない、という彼女の言葉を肯定し、それでもなお竜の嘆きを終わらせたのだといってくれた。
あれは、許しだったと彼女は想う。
報いを享けるべき罪を重ね、これからも罪にまみれていく彼女にたいする。
「貴女はこの頃、あまり微笑んでくださいませんね。あの凄みのある微笑はひどく美しかったのですけれど」
悲しければ悲しいほど、彼女は微笑んできた。そうやって嘆きに侵されぬよう、こころを衛ってきたのだ。唇の端を持ちあげてみようとするが、縫いつけられたように動かなかった。
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続きは23日20時に投稿させていただきます。
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