7-1《竜殺しの聖女》と訪問者は少女を呼んだ
夢をみていた。竜を殺すたびに甦る、遠い昔の悪夢だ。
暗闇のなか、声が聴こえてきた。劈くような幼い娘の声だ。娘は声のかぎりに呼び続けていた。母さまと。やがてメリュはそれが、じぶんの喉を震わせているものだと気がついた。
視界が拡がる。燃えさかる集落と凍てつくような黄昏。
あらゆるものが息絶えている。剣を握り締めた兵隊も、武器になるものを掻き集めた集落の者も。命の焼けるにおいが風景を濁らせていた。沈黙を湛え、森が嘆いていた。空の端に身を寄せ、雲が嘆いていた。地も風も嘆いていた。
壊れた竜と娘だけが、息をしていた。
娘は竜の翼にしがみついて、懇願する。どうか、どうか、嘆きを鎮めてくださいと。
娘が懸命に縋りついても竜の涙はとまらず。落ちる雫は娘にはぬぐえないほどに遠かった。
無情にも、竜が我にかえったのはことごとくを滅ぼしてしまった後だった。
うつろに曇っていた竜の双眸が輝きを取りもどす。
ああ、最愛たる娘よ――紡がれたのは竜語だったが、娘はそれを解する。
娘は安堵に泣き濡れた頬を緩めた。還ってきて、くれたのだ。その静かな魂が。涙ながらに娘は頷いた。けれども、娘の希望を砕くように竜は頼むのだ。
わたしの息の根をとめなさい――と。
娘はふらつきながら後ずさった。最愛の竜がなにをいっているのか、理解できないとばかりに彼女は頭を振り、震える声をあげながら細い脚をきつく踏ん張る。されども、どれだけ強く拒絶しても、彼女はそれを理解してしまうのだ。愛ゆえに。
花のような娘の貌は嵐に曝されて、むごたらしくゆがんでいった。
剣を取れとうながされる。あなたならば、できるはずだから――と。
愛していた。愛されていた。なのに、何故と訴えかけて。
ああ、そうか。そうなのかと。
娘は、気がついた。
竜を愛し、竜に愛されているわたしだからこそ、竜を、殺せるのだ。
娘は唇の端をぎゅっとひき結んだ。落ちていた剣を拾いあげる。震えがとまらず取り落としそうになりながらもそれを構え、頭の隅、現実から乖離する思考のなかで彼女は、想った。
なんで、こんなことになってしまったのかと――――
雲雀の囀る、ありふれた、穏やかな朝だったはずだ。今朝までは。
集落のひとびとは竜の娘を愛で、焼きあがったばかりのぱんをくれた。林檎を焼きこんだぱんを頬張りながら、他愛のない話をした。黄昏にともる星のことを。朝露を乗せた緑の葉のことを。なにひとつ、普段と変わらなかった。
絶望は跫も響かせずに、襲いかかってきた。
略奪と征服に諍って、集落のひとびとは鍬を、斧を、鋤を武器に替えた。
幾多殺された。幾多殺めた。それは紛れもなく、戦争だった。
嘆きを募らせた竜が集落に舞いおりたときに、ひとびとは報復してくれるものだと疑わなかった。涙を流して地を割り、風を興して、兵隊を斬りきざんでいく竜をみて、ひとびとは歓喜に声をあげた。ひとり残らず殺してくれと。
ひとは敵の慨嘆を喜び、敵の涙を踏みにじれる。
ゆえに戦争があった。略奪があった。侵略があった。報復があった。
他人の嘆きを嘆かないからこそ、人類は強い。
竜の慨嘆は星を落として、その地にいたすべてを滅ぼした。
斯くして、竜は望んだ。
どうか、殺して――――と。
からだのなかにごうと、焔が燃えさかった。
娘の絶望は、凍てつく氷の塊などではなかった。焔だ。身のうちから焼きこがされる。焼けた肋骨が、胸のうちからぼろぼろと崩れていくような錯覚に息がつまった。
「は……はっ、……あ、あぁぁ……」
荒い呼吸と言葉にならない声だけが洩れる。
剣は重く、腕は痺れ、脚は震えている。崩れ落ちることができたら、どれほどいいだろうか。それでも剣を振るわなければならない。
「かあさま」
涙に濡れた声があふれる。
「愛して、います、っ……かあさま」
母親にたいする思慕だけではない。
それは、敬愛だった。竜というもののありように捧ぐ敬意だ。
ゆえに彼女は殺さねばならなかった。毀れてしまった、最愛の竜を。
みずからのこころを踏みにじるように強く、娘のかかとが地を蹴りつけた。声が喉からあふれてとまらなかった。呼吸も整えずに走りだす。母親にあまえて、抱きついていく娘のように幼けなく。
しかしながら、こころには悲愴なる敬虔をもって。
娘はひといきに、柔い喉に剣を突き刺す。
「っ……――――あ」
結晶が砕けるような。
嫌になるほど綺麗な音が、響いた。
魂の剥がれる音か。あるいは砕けたのは娘のこころだったのか。
水銀を想わせる竜の血潮が、青ざめた肌をほたほたと濡らしていく。
なみだのように微かな熱なのに、触れたところから焼けただれてしまいそうに熱かった。その毒のような熱にすら娘は縋りついた。指のすきまから水銀が垂れる。
ああ、あ、あ、ああと、ちぎれたような声の群が喉からあふれ、それは堰をきって濁流になる。喉がひき裂けんばかりに娘は絶叫した。
あ、あぁ、いや、わたしは……いや、いやああっああぁあぁあっ――……
慟哭が悪夢を破り、意識は流転するように現実へと浮かびあがる。
…………
……
悪夢から逃れるように瞳をひらけば、霞んだ視界には真紅が拡がっていた。
焔ではなく血潮とも違っていた。
例えるならば、辰砂だ。水銀からなる、毒のある紅の鉱物。
微かに竜のにおいがする。竜の眸だとメリュは想った。強いまなざしをみて、ああ、わたしはこの竜を殺さなくてもいいのだと理解する。安堵がふわっと胸に押し寄せた。
メリュはてのひらを差しだして、眸のあるじの頬に触れた。
鱗ではなく、柔らかい肌の感触があった。
あれとおもったのがはやいか。
「なに、震えているの」
竜ではなく、旅の相棒だと気がついて、メリュはかっと頬に熱があがるのを感じた。
「すみま、せん。昔の夢を、みていました」
「ふうん……昔の夢ね」
頬からてのひらを離そうとすると、ラグスは指を絡めて縫いとめた。銀の耳飾りが視界の端で星のように揺れる。
「ずいぶんとうなされていたよ」
「わたしは、叫んで、いましたか」
「いいや」
「そう、よかった」
あんな遠い昔の慟哭を聴かせずに済んでよかったと、メリュは胸をなぜおろす。
「喉だけがのけぞってた。呼吸ができないのかとおもったけれど」
男にしては細い指が、するりとメリュの喉にかけられた。締めあげることはせず、喉の輪郭を確かめるように指が巻きつく。
「叫べばよかったのにね」
慈しみとも、甚振りとも取れる響きが、鼓膜に落とされる。
「夢のなかくらい、涙のひとつでも落とせばいいのに」
ああ、これは憐みだとおもった。羽根の破れた蝶をひろいあげるような。
けれどなぜだか、彼の憐みは心地がよくて、メリュは拒絶することができなかった。
ラグスから解放され、メリュは身を起こす。呼吸を整えるために幌馬車の御者台に出た。
あたりは静かな森にかこまれていた。静かすぎるほどだ。
重なりあう枝の額縁には月が飾られ、森のなかに透きとおった光をいき渡らせている。繁る葉のあいまに青く光を帯びた蝶が群れをなしていた。
御者台の縁に腰掛けたメリュの指に蝶がとまる。
ここは竜のいなくなった森だ。森はなにごともなかったかのように穏やかだった。
されどもこの異様なほどの静寂こそが恵みの減った証だとは、誰もが知らない。実りが減って野生の動物が飢え、最寄りの集落のまわりにまで移動しているのだ。作物や家畜が荒らされても、ひとは動物たちのせいだとしか考えないだろう。
竜のことを思いだすことはないだろう。
夜光蝶も昔は月を覆うほどに舞っていたというが、いまはちらほらと、季節はずれの雪のように漂っているだけだ。
ビタの町を後にして、数日が経った。
ふたりは変わらず、あてどのない旅を続けている。竜の手掛かりを捜して、最寄りの町を訪ねるつもりだ。これといった情報がなければ、また他の地域に移動しなければならない。
メリュはずっと、そんな旅を繰りかえしている。
「わたしは、嘆く竜を殺し続けます。これまでもこれからも」
どれだけ後悔しても。どれだけ報われずとも。
「あなたは」
どうしますかと背後に尋ねた。
「僕は、僕を殺そうとしたかたきを捜していたんだ」
思いがけず、ラグスはみずからの経緯に触れた。
「けど殺されかけたときの記憶がすっぽりと抜け落ちていてね。ほとんど手掛かりがない。おまえがそうなんじゃないかと疑っていたけれど、違った」
落胆するように、それでいて安堵するようにいわれた。
「なぜわたしだとおもったのですか」
「そいつは竜を殺そうとしていた」
「殺したのですか」
驚いて、振りかえる。
「殺せなかった」
ラグスは御者台にたたずみ、闇を睨みながら言葉を落とす。
「毒をもちいて傷つけ、それでもなお、竜を殺すには到らなかった」
それを喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか、メリュにはわかりかねた。ともに旅を続けてきたというのに、彼女はあまりにもこの青年のことを知らなすぎる。
「復讐を、遂げるつもりですか」
「ああ、殺してやりたいね」
激しい瞋恚が眸のなかに燃えて、真紅に僅か、青みがかった影が差す。
彼はひとを、竜を害する人類そのものを怨んでいる。これほどまでに強い怒りの火種を絶やさず、持ち続けることは難しい。つまり彼は、それだけ竜を愛しているのだ。
「けれど、まずは取りもどしたいものがある。奴らは僕の、僕たる証を奪っていったんだ」
「証、ですか」
相づちを打ちながらも、メリュのきもちはすうと陰っていた。
竜を殺すため、彼の助けを借りてしまった。だがこれいじょうは巻きこむわけにはいかないとメリュは想った。彼の涙を想いだすと、棘が刺さったように胸がひりつくのだ。
「わたしがあなたのかたきではないのならば、わたしと旅を続ける理由はなくなりますね」
「……そうなるね」
彼の言葉を聴き、メリュは微笑みながら、さびしげに瞳を細めた。
ラグスはなにかを続けようとする。だがそれを遮るように、前触れもなく繁みが騒いだ。
何者かがせまってきている。これほど距離を縮められるまで接近に気がつかなかったということはよほどの手練れだ。いまのはわざと草叢を踏んでみせたのだろう。ふたりとも身構えて相手が姿を現すのを待った。
現れたのは、純白の鎧を身につけた聖騎士だった。
甲冑の胸もとには聖ヨルゴス教会の徽章が輝いていた。頭には鳥を模した兜をつけており、長身の男であることの他には素性はさだかではない。
こんなところに何故、聖騎士が。
「捜しておりました」
聖騎士は馬車の側まで進むと、兜を取った。
黄金の髪が拡がる。一瞬で記憶が重なった。彼は、鉱脈の町でぶつかった紳士だ。
聖騎士は緩やかに膝を折り、メリュの足もとに跪いた。
「竜殺しの聖女さま、ようやっとお逢いすることができました。あなたを捜していたのです。どうか、われら聖ヨルゴス教会にその偉大なる御力を預けてはいただけませんか」
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