6-3 竜とひとのはざまで《少女》はただ微笑む
町があったはずの地は竜の涙に濯がれて、浅い潮だまりになっていた。
塩の塊は残っているものの、竜の嘆きが終わったからか、潮に触れても塩になることはなかった。湖から移動してきた魚をもとめて、鷺が群れている。
なにごともなかったような、静かな日暮れだ。
透きとおった水鏡には青紫の黄昏が映っていた。空を踏みながら、メリュは歩き続ける。
ふと後ろから誰かが声をかけてきた。ミナとイラカが追い掛けてきたのだ。
「妹を助けてくれて、ほんとに礼の言葉もない」
「とんでもありません。わたしこそ竜を殺すことしかできなくて、ごめんなさい。町を護ることが、できませんでした」
メリュは後悔していた。悲しみばかりを積みあげてしまったことを。
竜に逢ったとき、すでに壊れかけていた竜の息の根をとめていれば。あるいは春に、この町にたどり着いていれば、竜を殺さずにことをおさめられたのに。
「あんたのせいじゃない」
イラカは眉根を寄せながらもなんとか強がり、笑った。
「確かに町はひどいありさまだよ。ほんとは、いちからはじめるつったって、なにからはじめればいいのか……俺にはまだわからない。町の奴らだってそうだ」
希望ができた。だからといって、絶望がなくなったわけじゃない。
誰もがわかっているのだ。
「だいじょうぶですよ」
メリュが語りかけた。ちから強い響きをともなって。
「あなたがたはだいじょうぶです。人類はか弱い。けれども竜とくらべれば、はるかに強い生きものです」
イラカがぽかんと、間の抜けたふうに大口を開けた。
「ひとは絶望に暮れ、悲しみのふちにいても、いつかはそれを乗り越えてまた笑いあうことができます。時が経てば傷は癒えるし、新たな希望を捜しだすこともできる。ですが竜は嘆きを嘆きのまま、抱え続けてしまう。つけられた傷を癒すことはできず、喪われたものを他のもので埋めあわせることもできない」
だから竜は果敢ない。竜は、生物の域を凌駕するちからを備えているかわりに、生物として当然の強さを持ちうることができなかったのだ。
「戦争により町が焼け、城が崩れ、幾多の命が奪われても。竜の嘆きが気候をみだれさせ、大地を荒ませても。人類は繁栄を遂げています」
慈愛から施すなぐさめではなく、無責任な激励でもなかった。
これまで人類がたどってきた道程であり、純然たる現実だ。
「だから、この町もきっと、だいじょうぶです」
彼女は繰りかえす。微笑みながら。
イラカが頷き、胸をたたいた。
「そう、か……ああ、そうだよな。どれだけ掛かるかはわからないけど、いつかは町を復興させたい。俺たちで葡萄を。葡萄だけじゃなく、いろんなものを育てて、やりなおすんだ」
彼らは竜の涙に濡れた地を耕して、踏みかため、新たな種を植えるのだろう。後悔を乗り越え、森を拓き、湖を埋めて進み続ける。
どうか、おゆきなさいと、竜を殺す娘は憂いを湛えて、睫毛をふせた。
それこそが、生きるに値する、ひとの強さなのだから。
† ‥ † ‥ † ‥ † ‥ † ‥ †
森に差し掛かる。
津波がこんなところまでおよんでいたのか、森は塩に覆われていた。細かな結晶が寄り集まり、樹氷のように張りついている。葉は葉脈だけを残して、とけ落ちていた。
裸の森だ。それは湖のなかに横たわっていた森とも重なった。竜が健やかだった頃はあの森も緑にあふれていたに違いない。竜が息絶え、湖は青さを損ない、森もあとかたもなく崩れた。
「けっきょくは渡したのか」
幹にもたれて、メリュを待ち続けていたラグスがあきれたようにいった。
竜の角に残された葡萄のことだ。
「あんなやつらに渡すことはなかったのにね」
「《青き豊穣の竜》との約束でしたから」
捧げものとして湖に落ちたメリュは《青き豊穣の竜》と逢った。嘆きにたえかねて壊れかけていた竜は、葡萄が実らなくなって町の者が窮していると聴き、町に竜葡萄を渡してくれと頼んできた。この葡萄は天候に影響されず、かならず豊穣をもたらす葡萄だと。
「彼らは最後になって、竜の恩愛を理解し、後悔しました。諦めずに竜の残してくれた葡萄を育て、かならずや町を復興するのだと」
「それは素晴らしいね。よかったじゃないか。これいじょうになく、綺麗な幕締めだ。竜はけっきょく、なにひとつ、報われてはいないけれどね」
ラグスは眉の端をゆがめて、わざとらしい態度で手をたたいた。
「ひとがどれだけ悔やんでもそれは、竜のためじゃない。おまえはわかっているんだろう」
メリュはにがく頬を持ちあげた。彼女はそれほど、愚かではない。うわ澄みの、綺麗な感動に胸を濯がれるほどには。だからこそ、なにも言わずに町に背をむけた。
槍を携えた細い肩にふわりと。
「誰かがほんとうに竜を想って涙をひとつ、流してくれれば、ちょっとは報われたのにね」
なぐさめが投げかけられた。
娘は躍るようにラグスを振りかえる。
服のすそが雫を跳ばす。銀の星を夕暮れに散りばめて、彼女は瞳のなかに菫を咲かせるように微笑んだ。
「あなたがいます。あなたが、涙をたむけてくれた」
それが、どれほどのことか。
ラグスは双眸を見張り、つられたようにわらってから、うつむいた。
「いっそ、どちらかを棄てられれば、おまえは楽なのにね」
ひとか。竜か。ひとを護るためだけに竜を殺す。或いは竜を護るためにひとをきり棄てる。それならばまだ、報われる道すじはあったはずだと。
その言葉のとおり、娘はその華奢なからだに数えきれないほどの嘆きをかかえていた。彼女だけが竜を殺せるものであるかぎり、悔恨はふり積もるばかりだ。それでもいま。
「あなたはやっぱり、やさしい、ですね」
森に落ちた影はふたつだった。だから、彼女はさみしくは、なかった。
いつかは別たれるさだめだとしても。
ここまでで第二章は完結です。
続けて、第三章が開幕いたします。引き続き、お楽しみいただければ幸いです。
次の更新は3月20日20時になります。
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