6-2《竜》は最後までひとを愛した
「五十年も昔のことだ。竜の冬が、あった」
長老はゆっくりとかみ締めるように語りはじめた。
「このあたりは戦地からは離れていたが、戦争と無関係ではなかった。徴兵制があって、大勢の若者が兵隊になったからね。故にいま、この町には還暦を越える男はおらん。町の長だった私の夫も戦争に赴き、帰らなかった。時をおなじくして旱魃になった。森は葉を落として、魚は暑さにたえかねてみなもに浮かび、葡萄の実りも著しく減った。町の者は一様に飢え、痩せて、ひどいありさまだった。だがなによりもおそろしかったのは税を納められなかったことだ」
ビタの町は帝国にたいする税を葡萄酒で賄っているのだと、長老はいった。
だが竜の冬のさなかでは、葡萄もほとんど実らず、戦時の重税は払えなかった。一年の猶予がついたものの、翌年もまだ気候は落ち着かなかった。
「滞納が続けば、町を差し押さえると言い渡された。町を奪われては終わりだ。町の者はことごとく路頭に迷い、戦争が終わったときに兵隊たちの帰るところもなくなってしまう。町を奪われるわけにはいかなかった……だが、なおも雨は降らんかった……」
長老は言葉をつまらせ、涙を浮かべた。
「私には娘がいた。齢十二だった。町を愛する、よい娘だった。娘は町の有様に胸を痛め、どうか雨を降らせてください、と竜に懇願して湖に身を投げたのだ。するとにわかに雨雲が掻き集まり、数カ月ぶりに恵みの雨が降った」
それからというもの、旱魃に見舞われると、湖に娘を捧げるようになった。町の者はみな、愛する娘を捧げることをためらったが、竜の恩恵を維持し町を護るためだと諦めた。秤に掛ければ町の重みはひとりの犠牲に勝る。
「娘さんがなくなられて、悲しくはなかったのですか」
「悲しかった、悲しくなったはずがなかろうて……ッ」
長老の声が涙に濁る。皺だらけのてのひらで顔を覆い、背を震わせながら彼女は続けた。
「私が、かわりに身を投げればよかったと。どれほど……後悔した、ことか。だが嘆いてばかりはいられんかったのだ。私は町を護らねば、ならなかった……如何なる犠牲を払おうとも。夫に託され、娘が愛したこの町を……ッ」
どれほどの決意だったか。長老はこれまで誰にも語ることはなかったのだろう。知っていたとすれば、長老の補佐だけだ。
町の者もこれにはこころを震わせ、愧じるようにうつむいた。
メリュは終始黙っていたが、話が終わったのをみはからって、尋ねかける。
「ですが、戦争はとうに終わりました。いまはそれほど重い課税はなされていないはず。蓄えた葡萄酒があれば、乗りきれたのではないですか。若い娘たちを犠牲にせずとも」
「こわかったのだ………ただ、こわかった」
長老はかぶりを振った。白髪が散らばるように頬に張りついた。
「捧げものを惜しむことで竜に見放されることがこわかった。竜を怒らせるのがこわかった。葡萄酒の倉がからになるのがこわかった。飢えることがこわかった。渇くのがこわかった。町を護れないことがこわかったのだ……ッ」
恐怖はこころを蝕む。それは、誰もに覚えのあることだ。
恐怖は終わることがない。欲望とおなじだ。どれだけ蓄えても不安は減らない。故に捧げものは延々と続いてきた。安寧を維持し、恐怖から逃れるすべとして。
ラグスが怒りをあらわにする。
「竜の恩愛を踏みにじっておいて、いまさら、そんなことが言い訳になるだなんて思うなよ。けっきょくは、じぶんのなかにある恐怖に敗け続けてきただけじゃないか」
赤い双眸がごうと、地獄の業火のように燃えあがった。禍々しいまでに冷酷な視線にあてられてイラカは魂を握られたように動けなくなり、群衆もまたいっせいに身を竦ませた。
「竜はおまえらを許したけれどね。僕は生憎と竜みたいに慈悲深くはない」
ラグスは外套の懐から短剣を抜き放った。補佐がかばうように長老の腕をつかんだが、長老はそれを振りほどき、深々と頭を垂れて腰を折る。
「この老いぼれのいのちでは贖えるとは思わんが、どうか」
長老を睨みつけながら、ラグスがゆらりと短剣を振りあげる。だがメリュが後ろから彼の外套のすそをつかみ、真横に首を振った。
「やめてください」
「なんでだよ、竜はもういないんだ。僕が殺したところで竜は嘆かない」
「それでも、竜は報復を望まなかった…………最後まで!」
メリュが強く訴えた。彼女がこれほど大きな声をあげるとは予想だにしていなかったのか、ラグスは頬を張られたように眸のなかに燃えさかっていた焔を揺らした。
「おまえは、竜に殉ずるんだね」
そういったきり、彼はつきあっていられないとばかりに背をむけ、坂をおりていった。
短かな沈黙を挿んで、娘は町の群衆を振りかえった。さきほどの激情はすでに絶えている。
「竜は最後に「殺してくれ」とわたしに頼みました。なぜか、わかりますか」
町の者たちは沈黙している。
あの美しくもおそろしい竜が、殺されたいと望むなど想像もつかない。
「町のひとびとを傷つけるまえに殺してくれと頼んだのです。竜は最後まで、あなたがたを愛していた。無償の愛と恵みをそそいでいたのです」
だから雨が降り続けていても、建物はひとつも崩れなかった。葡萄畑は枯れなかった。竜の加護は最後の最後まで続いていたのだ。
静まりかえる群衆のなかから、声をあげたものがいた。
「あ、あたしは旅人さんの、いうとおりだと……おもう」
「ミナ……」
群衆がいっせいに視線をむける。
濡れたおさげ髪を震わせて、ミナは町のひとびとに訴えた。
「だって竜は誰も奪わなかった。家族をひき裂かなかったもの。そうでしょ……! 津波に飲まれたひとはいなかったんだよ! 塩にされたひともいなかった」
ミナの言葉をゆるゆると理解して、町の者は強張っていた表情を弛めた。
頷きあいながら、そうか、そうだったと声をかけはじめる。家族の無事を確かめ、喜ぶように抱き締めあった。絶望にぬりつぶされて、大事なことをわすれるところだったと。
「町は壊れちゃったけど、なにもかもなくなった、わけじゃないよ」
きっと、やり直せるのだと――町のひとびとの瞳に希望がよぎる。
「実は、ひとつ、竜から預かっているものがあります」
メリュは外套からなにかを取りだす。きらきらと輝くものだった。
彼女はミナを呼び寄せ、それを彼女のてのひらに乗せた。
「これが最後の恩恵です」
ミナが町の者にむかって、それを掲げた。
それは、竜の葡萄だった。
竜は最後まで町を愛していた。この葡萄が無償たる愛の証だ。
葡萄は日差しを享け、希望の輝きを帯びる。
張り裂けんばかりに膨らんだみずみずしい実をみて、町の長老が胸を掻きむしり、泣き崩れた。町の者も続々と濡れた地に跪く。頽れるように背を縮め、声にならない声をあげた。
「われわれは、なんということを」「竜は、ほんとうに最後まで」「ああ、竜の神さま……ッ」
竜を呼び、竜に謝罪する声が、静まりかえった湖に響いた。
イラカも胸を貫かれたように、膝から崩れ落ちる。
これほどまでにかと、彼はたたきのめされていた。
町は竜の魂を傷つけた。
豊穣と安寧のために。
竜がなにを想い、望んでいるのかを考えることも放棄して、竜の涙を搾り続けた。いまならば彼らにもわかる。それは、傷から血潮を搾り取るにも等しい、暴虐だった。はてに恵みが枯渇すれば、竜を怨み、嘆きにたえきれずに壊れた竜を殺せ、とまでいった。竜が息絶えれば、歓喜して、骸まで冒涜した。
それなのに、竜はまだ、愛をかえすのかと。
「俺たちは、ずっと竜に愛されて、いたのか」
竜に護られ、竜に愛され、竜に恵まれてきた。
そのことをようやっと、理解する。
「けど、もう、遅すぎる、よな……いまさら、こんな」
竜はすでに息絶えた。悔やんでも、竜は還らない。
イラカは愕然としかけて、いやと頭を強く振った。声を張って、彼は群衆に呼び掛けた。
「償わなくちゃいけない。俺達ひとりひとりが、背負って、償うべきだ……犠牲になった娘たちと俺たちが殺させてしまった、竜に!」
彼の言葉に群衆が、涙ながらに頷きあった。
竜の慈愛が、ひとびとを悔悟させたのか。いや、ともすれば、それは降服だった。
報復の剣もなく、振りかざす正義の旗もなく。
竜の慈愛が、ひとを敗北させたのだ。
泣き続ける群衆を見渡して、メリュは果敢なく微笑んだ。その表情はどこか、まぶしいものを羨むようでもある。愛するひとが死んだ日に空が青かったことを悲しむまなざしだった。
懺悔を続けるひとの群れに背をむけ、彼女は感動の渦から遠ざかる。
振り仰げば、青に差す紫。
日に遠い空の端から緩やかに黄昏がせまっていた。
お読みくださいまして、御礼申しあげます。
続きは16日(水)20時に投稿致します。
間もなく第二章が完結です。
ふたりの旅が何処にむかうのか、
引き続きお読みいただければ幸甚です。