5-7 所詮は《竜殺し》
なんとか陸地を捜さなければ。波を掻きわけて泳ぎだしたのがはやいか。
「こっちだよ」
声を掛けられ、メリュは振りかえる。
「ラグス……なん、で」
荒波のなか、舟が進んできた。
「舟を借りてきたんだよ」
「舟がまだ、残っていた、のですか」
「舟倉庫は湖の西側にあってね、運よくあの青い津波に巻きこまれなかったそうだ。舟も準備せずに湖のなかの竜と戦おうなんて、そもそもが無謀だよ。まったく、竜もひとも愚かだけれど、おまえほどじゃないね」
腕をつかまれ、舟にひきあげられる。濡れた服はあちらこちらが擦りきれ、傷だらけだ。それでも、紫水晶の瞳は強い光を絶やすことがなかった。
「僕には、竜を傷つけることはできない」
ラグスがあらたまっていった。
いったいなぜ、いまさら、そんなことを言いだすのか。
「わたしは、あなたに竜と戦ってほしいとは望みません」
命の危機がある、というばかりではなかった。彼は竜と戦いたくなどないはずだ。彼は竜を愛している。竜を傷つけるひとを、あれほど激しく憎むほどに。
メリュの真意を理解してか、彼は笑った。
「僕も意外と愚かみたいでね。おまえがどんなふうに竜を殺すのか。興味が湧いたんだ」
竜を傷つけられるのも竜を殺せるのも、おまえだけだ。だがひとつだけ、僕には竜を痺れさせる毒がある。竜が顎をあけた隙に毒の矢を放つ――と彼はいった。
「毒、ですか。竜にはいかなる毒もきかないはずでは」
ラグスはそれには触れずに続ける。
「麻痺するのは長くても、五十秒だ。そのあいだに殺せるか」
「じゅうぶんです」
舟は絶えず波に揉まれており、見渡すかぎり、霧に覆われている。ましてこの嵐だ。弓が扱えるような環境ではない。それでも彼がやれるというならば、やるのだろう。
波がいっそう激しくなり、竜が襲いかかってきた。
竜はその牙をもって、木製の脆い船を砕き、ふたりを湖にひきずりこもうとせまる。あるいは舟に縋りつき、懇願するようでもあった。
蛇のように裂けた顎のなか。青い襞に覆われた喉が覗いた、刹那。
毒の矢が、放たれた。
矢は雨風の壁を貫き、竜の喉に吸いこまれていく。
毒ごと矢を飲んだ竜が、急に項垂れ、しぶきを噴きあげて湖に落ちる。
メリュは転覆しかける舟を蹴って、跳躍した。
ぷっかりとみなもを漂う竜の頭に乗りあげる。息をつく暇もなく槍を振るい、鱗を剥がす。鱗が剥がれるたびにきらきらと、霧のなかに燐光が散りばめられた。
僅かに鱗のすきまができた。
竜がぴくりと動いた。微かに竜は呻いた。麻痺が解けかけている――だが、振りおろされた槍のほうが、僅かに速かった。
竜殺しの娘はひと息に、項から喉まで貫いた。
ざああと波がひくように音が遠ざかる。静寂のなかに微か、涙のこぼれるような雨の調べだけが、しんしんと降り続けた。透きとおるような、憐みの賛歌だ。
優しい沈黙のなかにひとつ、祝福を捧げるかのように。
「せめても、静かな終焉を」
娘は濡れた睫毛をふせて、竜に囁きかけた。
祷りというには果敢なすぎる。だがこれを祷りといわずしてなんというのか。
この清らかな悼みを。
竜が、喉をのけぞらせた。
翼が拡がり、青紫の蓮のように湖に咲き誇る。続けて水銀の血潮がとろりと綺麗な紋様を描きながら湖にあふれた。紋様が崩れると波紋になり、それは荒波をなだめるように湖を渡る。
風と波が静まり、嵐が終わったことを知った。
低く垂れさがっていた暗雲が破れ、雲にあいた細かな綻びから真昼の日が差す。湖底に息づいていた裸の森がいっせいに砕け、銀のうたかたが吹きあがる。波は静まったが、竜を喪った湖はすでにあの青い輝きを失っていた。
竜の血潮によって、鏡のようにならされたそのおもてにだけ、青が映った。
晴れだ。
最後の涙のような雨垂れをほたほたと落として、雨がやむ。
露を乗せた竜の角が、産まれたばかりの若枝のように輝いている。その先端には、町を護り続けてきた竜葡萄が実を結んでいた。
微睡のように穏やかな日差しに擁かれて。
静かに、竜が息絶えた。
黙祷を終え、視線をあげれば、青すぎる青が目に浸みた。
メリュは緩やかにラグスを振りかえり、彼女は言葉を絶する。
泣いていたからだ。遠く湖のかなたを臨みながら、ラグスは双眸を濡らしていた。
彫像のような頬を涙がつたい落ちていく。月が雫をこぼすならば、こんなふうに熱のない滴りだろうか。呼吸を忘れるほどに綺麗だった。
視線を感じたのか、彼は涙を湛えた眸で睨みつけてきた。
「なんだよ」
「いえ、その」
謝るべきだろうか。彼に竜を殺す、手助けをさせてしまったことを。
「謝らないでよね。僕が勝手に決めたことだ。それに……昔からなんだよ。誰かの死に係わると、悲しいわけじゃなくても涙がとまらなくなる。ほんと嫌になるよ」
髪から雫を垂らす娘をみて、彼は寂しげにいった。
「おまえは、泣かないんだね」
これほどまでに嘆いているのに、メリュの瞳からは涙の一縷もこぼれてはいなかった。
メリュはにがく笑った。
「涙は、潰えました」
「潰えたと想っているだけだろ。嘆きがかぎりなく、募り続けるように。涙も終わりはしないさ。死に絶えるその時まではね」
そういって、彼は遥か遠くに視線を馳せた。
† ‥ † ‥ † ‥ † ‥ † ‥ †
哀悼の、穏やかな静寂を破るように歓声があがった。
霧はすでに晴れた。振りかえれば、湖岸があった。
想像していたよりもはるかに岸はちかく、群衆が腕を振りあげて喜んでいるさまが見て取れた。湖のかなたまで弾き飛ばされたつもりでいたが、泳いで渡れる程度の距離だったようだ。メリュには群衆がなにをいっているのかまでは聴き取れないが、ラグスが露骨に柳眉を逆だてたので、凡そは想像がついた。
竜の死を喜ぶ町の者に背をむけ、メリュは竜からおりて湖に浸かる。
濡れた服の張りついた肌には竜蛇の絡みつくような紋様が浮かびあがっていた。おそらくは竜の古語だろうが、あまりにも旧すぎてメリュにも読み解くことはできない。湖に流れだす竜の血潮を肌に吸わせれば、激痛が押し寄せる前に紋様はなくなる。段々と傷も塞がってきた。
竜にもたれて血潮に浸っていると、ラグスが低く声を掛けてきた。
「望んでいたのは竜だったのか」
「聴こえたのですか」
竜が最後に、なんと呻いたのか。
それはひとのあいだでは、とうに失われた竜の言語だった。竜を親がわりにもつ娘にはわかる。だがなぜか、ラグスも理解できたといった。
「は……聴きたくもなかったよ」
竜は最後に望んだのだ。他でもない竜殺しの娘に、殺してくれ、と。
思いかえせば、と彼はいった。
「竜はおまえを殺そうとまではしていなかった。それに湖のなかを逃げまわらず、岸に寄ってきた。いまだってそうだ。舟に突進してきた。おまえに殺してもらうためか」
メリュは緩やかに頷いた。湖に漂う竜の頭を慈しむようになぜながら。
「嘆きは竜にとっては毒のようなものです。身のうちを焼き、喉をじわじわと締めあげて……苦痛のあまり、錯乱してしまう」
「だから、苦痛を終わらせてくれと、おまえに頼んだのか」
「苦痛だけならば、それが竜の身を焼くだけならば、竜はみずからのいのちを他者に背負わせることは択ばないでしょう。ですが、竜が暴れれば、たくさんのものが巻き添えになる。竜にはそれが、あまりにもたえがたい」
故にせめても死を望む。
「おまえの母親も、そうだったのか。最後に望んだのが、こんな」
ラグスは肩を震わせて、だが湧きあがる怒りをどこにやればいいのかわからず、途方に暮れたように項垂れる。握り締めたこぶしがふらりと、漂った。
「裏切られて、傷ついて、嘆いて嘆いて、最後に望むのがせめて殺してくれだなんてね」
「あなたのいったとおり、竜は愚かだとおもいます」
彼女は否定しなかった。努めて穏やかに、けれどもはっきりと語り続けた。
「満ちることを知らずに戦争をし、欲望のかぎりに繁栄を続け、じぶんが助かるために他のものを犠牲にする。恩恵があれば縋り、なくなれば、棄てる――それを、賢さというのならば」
双眸の端を綺麗にゆがめ、毒を湛えた微笑をひとつ。
「確かに竜は、愚かでしょう」
それは、無常に踏みしだかれる菫の、最後の抵抗のようだった。
そういえば大陸のどこかでは、菫と書いて紫の花を咲かせる毒草のことを差すこともあるのだとか。あまやかに死を誘う、妖艶な毒の花。清廉な娘がこんなふうに毒づくとは想像だにしていなかったのか。ラグスは眉を持ちあげ、ぼうと魅入られるようにみていた。
「けれどもわたしは、その愚かさを美しいと思います。愛おしいと想うのです。それが滅びるに値する愚かさであったとしても」
透きとおるメリュの瞳には黄昏がある。
夕焼けでも夕映えでもなく、黄昏だ。日が燃えつきて、地平線に落ちた後の。
あれは竜の落日だ。滅びゆくものの最後の輝きが、彼女の瞳には焼きついているのだ。
「そうしてその愚かな純真に殉じて竜が息絶えたいと望むのならば、わたしは竜の望みをかなえます」
握り締めていた槍を掲げる。
槍の先端が水を跳ね、青空にしぶきが散った。無残にもうち砕かれた涙のように。
「ですがそれは、所詮は竜殺しです。救いではありません。救いであるはずがない」
「だとしても、竜の嘆きは終わった。終わったんだ」
メリュは驚いたように瞳を見張り、続けて睫毛に縁取られた紫の端を緩めた。
無毒の菫が咲き誇るように紫が華やぐ。
「あなたは、やさしい、ですね」
「はあ、僕のどこがやさしいんだよ」
「やさしい、ですよ」
そういったきり、黙った。
なおも続く陸の喧騒を遠ざけるように、娘は歌いはじめる。
鎮魂歌のような響きをもった賛歌だ。細く、されども清らかな調べが、湖に満ちる。舟が岸に流れ着くまで、彼女は繰りかえし、その歌だけを歌い続けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
続きは14日(月)20時に投稿致します。
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