表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/40

5-6 おまえは《許す》のか

 嵐はなおも続いていた。

 日はふたたびに靄雲に塞がれ、湖は囂々と轟きをあげている。絶壁に吹きつける暴風にも、崖を崩さんと地を穿つ豪雨にも項垂れず、毅然と背筋を張りつめて娘がたたずんでいた。服に縫いつけられた紫の飾り布が、戦の旗のように激しくそよいだ。

 崖の先端から、メリュは湖を暴れまわる竜を臨む。

 町の者をできるかぎり遠くに避難させてから、メリュは竜にむかって声をあげた。


「《青き豊穣の竜》よ」


 静かな、ともすれば、誰にも聴こえずに湖に落ちてしまうほどの。


 されども竜は緩やかに娘を振りかえった。

 娘は真横に構えた槍を、竜にむかって捧げるように掲げた。左脚を後ろにひき、低く頭をさげる。綺麗な辞儀だ。


 長きに渡って竜が流し続けてきた涙は、湖を凌いだ。

 言葉にすれば、易い。だがほんとうは想像を絶するものだ。

 幾ばくの欲が、竜の純真にして無防備な魂をさいなめてきたのだろうか。竜の我慢は遂に報われることもなく、終わった。


 彼女は竜に敬意を捧げる。かぎりない敬愛と哀悼を。


「それでも、あなたが嘆くのならば」


 悲しげな咆哮をあげて、竜は誘い寄せられるように崖にむかって突進してきた。

 槍の後頭を地につけ、しならせて、メリュは舞いあがる。

 嵐を踏みつけ、竜の背に乗る。背びれをつかんだ。槍を振るい鱗を剥がす。だが激流のなかでも泳ぎ続けるためか、背の鱗は硬い。そうかんたんには殺ぎ落とせなかった。

 重ねて、これまでの竜とは違い、青き豊穣の竜は蛇のかたちをしている。暴れる背に乗り続けていることは困難だった。振り落とされては跳ねあがり、メリュは諦めずに挑み続ける。

 竜が尾を振りあげた。


「……ッい」


 青と紫の尾鰭が、メリュを直撃する。

 はたき落とされ、地に激しく背をうちつけた。

 身のうちが裂けたのか、がひゅっと喉が震えたきり、呼吸がとまる。

 彼女は数秒、気絶する。ともすれば、このまま意識を取りもどさなくてもおかしくはなかった。それほどの傷と衝撃だった。だが落ちかけた意識を、竜の咆哮が繋ぎとめる。


 あんなに嘆いている。殺さないと。

 わたしが、わたしだけが。竜を殺せるのだから。


 指が砂を掻く。槍を。どうか、槍を。


 誰かの靴が砂を蹴り、槍を彼女の側まで転がしてくれた。視界もなく、意識もぼんやりと霞が掛かっていたが、彼女は確かにそれを感じ取れた。

 槍を手繰り寄せ、握り締めると、意識が浮かびあがった。

 あざやかな黒が、メリュの視界に拡がる。


「ねえ、報いだとおもわないのか」


 ラグスは脈絡もなく、尋ねかけてきた。


「報い、です、か」


 なんとか言葉を紡ぐことができた。

 息が吸える。肺は破れていない。肋骨には鈍い痛みがある。だがこの程度ならば、戦えるはずだ。砂浜に落ちたのが幸いした。槍に握り締めて、メリュは起きあがる。幾度か崩れ落ちそうになりながら、彼女は濡れた砂を踏みしめて震える膝をたたせた。


「報いなんて、ありませんよ」


 ぜいぜいと息を繰りかえしながら、彼女はいった。

 そんなものがあれば、竜はもうちょっと、報われたはずだと。


「だったら、言葉を替えようか」


 真紅の双眸はなおも燃える。


「おまえは許すのか」


 竜を傷つけた、ひとびとを。

 散々竜を嘆かせ、この期におよんで、竜を殺せと騒ぎ続けるひとびとを。


 メリュが激痛をこらえるみたいに頬をゆがめた。水晶に彫りあげたような微笑に罅がはいり、絶望のふちに取り残されたこどもの素顔が映る。鱗の鎧に覆われた、傷つかないこころではないのだ。たえることには慣れたとしても。

 現に娘の鼓膜にはいまだ、竜を殺してくれと頼む、群衆の哀願が焼きついていた。

 折れそうなほどにきつく、きつく槍を握り締めて、彼女は。


「それでも……嘆きは、等しいもの、ですから」


 砕けかけた微笑を無理やりに接ぎあわせ、言いきった。

 嘆きを募らせた胸が裂けそうになるのも。かなしみが涙になって瞳を濡らすのも。傷つけば痛みにさいなまれるのも。誰もが等しく、おなじはずだと。


「等しくなんかないよ。等しければ、竜は壊れなかった。ひとにとっては我が身の悲劇だけが重くて、竜の悲嘆なんか頭の隅にもない」


「そう、ですね」


 わかりきった絶望をつきつけられても、メリュは眉の端を垂らしながら微笑を絶やさなかった。不条理に胸を焼かれても、臆すことなどはいまさらないのだとばかりに。

 諦観のような、それが彼女の強さだ。とても、悲しい強さだった。


「だからこそ、平等に扱われるべきなんです」


 なおも繰りかえすそれは、ともすれば祷りだった。現実がそうではないがゆえの。


「どれだけこころを寄せていても、他人の傷は他人の傷です。悲しいことに、みずからの身を斬るほどには痛くない。あなたの涙が、わたしの瞳からはこぼれぬように。わたしの傷が、あなたをさいなめることのないように」


 それは、どうしようもなく、とうぜんのことだ。


「だからこそ、わたしだけは」

「……っごまかさないでよ」


 納得できなかったのか、ラグスがつかみ掛かってきた。


「おまえは、許せるのか!」


 逸らしていた視線を、無理やりに絡ませられた。

 メリュは彼の眸のなかに濁った焔をみた。毒煙のようなそれは、憤怒と怨恨だ。ああ、彼は人類を憎んでいるのだと想った。憎まずにはいられなかったのだと。


「あなたは……許せないのですね」


 そのきもちが、わからないはずは、なかった。


「許すも許さないも、わたしの決めることではありません。すくなくとも、わたしにその権利はない。あるとすれば、竜にだけ。ですが……竜は、ひとを赦します。幾度裏切られても」


 ラグスは激痛をこらえるように双眸をゆがめる。


「わたしの、故郷の話をしたときに、あなたは然るべき報復だったのではなかったのかと尋ねましたね。集落のひとびとも、そうおもった。だから歓喜した。ですが竜は、報復など望まない。母さまはただひたすらに嘆いていた。集落が略奪され、ひとびとが殺されたことだけではなく、兵隊が殺されたことをも等しく嘆いたのです……」


 集落のひとびとが、敵とはいえども、兵隊を殺めたことに嘆きを募らせた。


「敵の兵隊にも故郷があり、家族がいた。兵隊が小麦を積んで帰ってくるのを、飢えをこらえながら待ち続けている家族が、いた、はずなんです」


「愚かな博愛だね。そんなことまで考えていたら」


 こころがもたないと言い掛けて、ラグスは黙る。


「そう、だから竜は、壊れるんですよ」


 けれどもそれが竜なのだ、どれほど愚かであっても。

 けっきょく、竜のうちにある激情は嘆きだけだ。それゆえに竜の嘆きは激しく、強い。


「なにがあろうと、竜にひとを殺させるわけにはいかない。暴れてひとを巻き添えにすれば、それをまた、竜は嘆くから」


 顎を捕らえる指を振りほどき、メリュはふらつきながらも槍を構えなおす。唇の端をひき結んで痛みをこらえ、毅然と槍の先端を振りあげた。


「ゆえにわたしが、殺します」


 湖を渡り、竜がせまってきていた。

 彼女は傷だらけの脚にちからをこめて地を蹴りつけ、ふたたび竜に斬りかかる。

 幾度でも。ただ竜が息絶えるまで。

 槍を振るい、風を踏み散らし、弾き落とされては、また。

 されども竜は強く、ひとはあまりにも矮小だ。

 メリュは竜の背から振り落とされ、勢いよく、湖に投げだされた。

 激しいしぶきをあげて、湖のおもてにたたきつけられる。怒涛に飲まれかけながら、なんとか浮かびあがったメリュは垂れこめた霧にがく然とする。


「陸が……」


 霧につつまれて、陸地がどこにあるのかわからない。泳ぎながらでは戦えるはずもなかった。

お読みいただき、御礼申しあげます。

続きは12日(土)20時に投稿致します。


お楽しみいただけておりますでしょうか?

ちょっとでも続きを読みたい、おもしろかった、とおもってくださった御方がおられれば、

ブックマーク登録やお星さまの評価を賜れますと、

投稿のモチベーションがぐんとあがります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 人を救うというのとも、メリュの行動は違うのではないかと、読んでいて感じました。1つの時代に幕を引くようなそういう行為ではないかと。そういう意味では、ラグズの問いかけも彼女に対してはズレてい…
[良い点] 主人公の思いの強さと揺れを感じられたこと。 主人公とラグスのやりとりの心がやどっていること [一言] 続きが読みたくなるのは、この作品の魅力ですね
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ