5-6 おまえは《許す》のか
嵐はなおも続いていた。
日はふたたびに靄雲に塞がれ、湖は囂々と轟きをあげている。絶壁に吹きつける暴風にも、崖を崩さんと地を穿つ豪雨にも項垂れず、毅然と背筋を張りつめて娘がたたずんでいた。服に縫いつけられた紫の飾り布が、戦の旗のように激しくそよいだ。
崖の先端から、メリュは湖を暴れまわる竜を臨む。
町の者をできるかぎり遠くに避難させてから、メリュは竜にむかって声をあげた。
「《青き豊穣の竜》よ」
静かな、ともすれば、誰にも聴こえずに湖に落ちてしまうほどの。
されども竜は緩やかに娘を振りかえった。
娘は真横に構えた槍を、竜にむかって捧げるように掲げた。左脚を後ろにひき、低く頭をさげる。綺麗な辞儀だ。
長きに渡って竜が流し続けてきた涙は、湖を凌いだ。
言葉にすれば、易い。だがほんとうは想像を絶するものだ。
幾ばくの欲が、竜の純真にして無防備な魂をさいなめてきたのだろうか。竜の我慢は遂に報われることもなく、終わった。
彼女は竜に敬意を捧げる。かぎりない敬愛と哀悼を。
「それでも、あなたが嘆くのならば」
悲しげな咆哮をあげて、竜は誘い寄せられるように崖にむかって突進してきた。
槍の後頭を地につけ、しならせて、メリュは舞いあがる。
嵐を踏みつけ、竜の背に乗る。背びれをつかんだ。槍を振るい鱗を剥がす。だが激流のなかでも泳ぎ続けるためか、背の鱗は硬い。そうかんたんには殺ぎ落とせなかった。
重ねて、これまでの竜とは違い、青き豊穣の竜は蛇のかたちをしている。暴れる背に乗り続けていることは困難だった。振り落とされては跳ねあがり、メリュは諦めずに挑み続ける。
竜が尾を振りあげた。
「……ッい」
青と紫の尾鰭が、メリュを直撃する。
はたき落とされ、地に激しく背をうちつけた。
身のうちが裂けたのか、がひゅっと喉が震えたきり、呼吸がとまる。
彼女は数秒、気絶する。ともすれば、このまま意識を取りもどさなくてもおかしくはなかった。それほどの傷と衝撃だった。だが落ちかけた意識を、竜の咆哮が繋ぎとめる。
あんなに嘆いている。殺さないと。
わたしが、わたしだけが。竜を殺せるのだから。
指が砂を掻く。槍を。どうか、槍を。
誰かの靴が砂を蹴り、槍を彼女の側まで転がしてくれた。視界もなく、意識もぼんやりと霞が掛かっていたが、彼女は確かにそれを感じ取れた。
槍を手繰り寄せ、握り締めると、意識が浮かびあがった。
あざやかな黒が、メリュの視界に拡がる。
「ねえ、報いだとおもわないのか」
ラグスは脈絡もなく、尋ねかけてきた。
「報い、です、か」
なんとか言葉を紡ぐことができた。
息が吸える。肺は破れていない。肋骨には鈍い痛みがある。だがこの程度ならば、戦えるはずだ。砂浜に落ちたのが幸いした。槍に握り締めて、メリュは起きあがる。幾度か崩れ落ちそうになりながら、彼女は濡れた砂を踏みしめて震える膝をたたせた。
「報いなんて、ありませんよ」
ぜいぜいと息を繰りかえしながら、彼女はいった。
そんなものがあれば、竜はもうちょっと、報われたはずだと。
「だったら、言葉を替えようか」
真紅の双眸はなおも燃える。
「おまえは許すのか」
竜を傷つけた、ひとびとを。
散々竜を嘆かせ、この期におよんで、竜を殺せと騒ぎ続けるひとびとを。
メリュが激痛をこらえるみたいに頬をゆがめた。水晶に彫りあげたような微笑に罅がはいり、絶望のふちに取り残されたこどもの素顔が映る。鱗の鎧に覆われた、傷つかないこころではないのだ。たえることには慣れたとしても。
現に娘の鼓膜にはいまだ、竜を殺してくれと頼む、群衆の哀願が焼きついていた。
折れそうなほどにきつく、きつく槍を握り締めて、彼女は。
「それでも……嘆きは、等しいもの、ですから」
砕けかけた微笑を無理やりに接ぎあわせ、言いきった。
嘆きを募らせた胸が裂けそうになるのも。かなしみが涙になって瞳を濡らすのも。傷つけば痛みにさいなまれるのも。誰もが等しく、おなじはずだと。
「等しくなんかないよ。等しければ、竜は壊れなかった。ひとにとっては我が身の悲劇だけが重くて、竜の悲嘆なんか頭の隅にもない」
「そう、ですね」
わかりきった絶望をつきつけられても、メリュは眉の端を垂らしながら微笑を絶やさなかった。不条理に胸を焼かれても、臆すことなどはいまさらないのだとばかりに。
諦観のような、それが彼女の強さだ。とても、悲しい強さだった。
「だからこそ、平等に扱われるべきなんです」
なおも繰りかえすそれは、ともすれば祷りだった。現実がそうではないがゆえの。
「どれだけこころを寄せていても、他人の傷は他人の傷です。悲しいことに、みずからの身を斬るほどには痛くない。あなたの涙が、わたしの瞳からはこぼれぬように。わたしの傷が、あなたをさいなめることのないように」
それは、どうしようもなく、とうぜんのことだ。
「だからこそ、わたしだけは」
「……っごまかさないでよ」
納得できなかったのか、ラグスがつかみ掛かってきた。
「おまえは、許せるのか!」
逸らしていた視線を、無理やりに絡ませられた。
メリュは彼の眸のなかに濁った焔をみた。毒煙のようなそれは、憤怒と怨恨だ。ああ、彼は人類を憎んでいるのだと想った。憎まずにはいられなかったのだと。
「あなたは……許せないのですね」
そのきもちが、わからないはずは、なかった。
「許すも許さないも、わたしの決めることではありません。すくなくとも、わたしにその権利はない。あるとすれば、竜にだけ。ですが……竜は、ひとを赦します。幾度裏切られても」
ラグスは激痛をこらえるように双眸をゆがめる。
「わたしの、故郷の話をしたときに、あなたは然るべき報復だったのではなかったのかと尋ねましたね。集落のひとびとも、そうおもった。だから歓喜した。ですが竜は、報復など望まない。母さまはただひたすらに嘆いていた。集落が略奪され、ひとびとが殺されたことだけではなく、兵隊が殺されたことをも等しく嘆いたのです……」
集落のひとびとが、敵とはいえども、兵隊を殺めたことに嘆きを募らせた。
「敵の兵隊にも故郷があり、家族がいた。兵隊が小麦を積んで帰ってくるのを、飢えをこらえながら待ち続けている家族が、いた、はずなんです」
「愚かな博愛だね。そんなことまで考えていたら」
こころがもたないと言い掛けて、ラグスは黙る。
「そう、だから竜は、壊れるんですよ」
けれどもそれが竜なのだ、どれほど愚かであっても。
けっきょく、竜のうちにある激情は嘆きだけだ。それゆえに竜の嘆きは激しく、強い。
「なにがあろうと、竜にひとを殺させるわけにはいかない。暴れてひとを巻き添えにすれば、それをまた、竜は嘆くから」
顎を捕らえる指を振りほどき、メリュはふらつきながらも槍を構えなおす。唇の端をひき結んで痛みをこらえ、毅然と槍の先端を振りあげた。
「ゆえにわたしが、殺します」
湖を渡り、竜がせまってきていた。
彼女は傷だらけの脚にちからをこめて地を蹴りつけ、ふたたび竜に斬りかかる。
幾度でも。ただ竜が息絶えるまで。
槍を振るい、風を踏み散らし、弾き落とされては、また。
されども竜は強く、ひとはあまりにも矮小だ。
メリュは竜の背から振り落とされ、勢いよく、湖に投げだされた。
激しいしぶきをあげて、湖のおもてにたたきつけられる。怒涛に飲まれかけながら、なんとか浮かびあがったメリュは垂れこめた霧にがく然とする。
「陸が……」
霧につつまれて、陸地がどこにあるのかわからない。泳ぎながらでは戦えるはずもなかった。
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