5-4 捧げものに《竜》は荒さぶ
「竜は捧げものを望んでいない、どうかやめてください」
誰もがその言葉に耳を疑った。
娘がなにを訴えているのか、まるで理解ができないと群衆はいっせいに沈黙する。町に根差してきた常識をうち破る言葉だったからだ。
それでもなお、娘は繰りかえす。
「竜が捧げものを欲したことは、ありません。これまでも、これからも、そのような愚かな犠牲を望むことはない、どうか――」
「ッ……黙れ……」
遮るように長老が声をあげた。
「黙れえッ! よそ者が勝手なことを……ッ……」
長老は頭を振り、娘の言葉を理解することを激しく拒絶する。
竜が捧げものを望んでいない、はずがない。そんなことがあってはならないとばかりに声を荒らげた。長老はがく然としている町の者を振りかえる。
「なにをしているのだ! いまこそ捧げものを!」
叱咤され、町の男たちが慌てて横倒しになっていた樽を転がす。ひとつ、またひとつと、湖にせりだす崖にむかって。
「やめてください! これいじょう、竜を嘆かせないで」
メリュが悲鳴をあげた。
崖の端までは緩い坂になっている。ひと度勢いがつけば、湖まで一直線だ。
メリュは地を蹴り、なんとか捧げものを助けようと試みた。だが、ただでさえ樽は重く、勢いづいたそれらをとめるには、ちからも、数も、なにもかもがたりなかった。食いとめられたのはひとつだけ。他は無情にも、崖から転がり落ちていった。
「ああ、なんてこと」
メリュが絶望する。
捧げものは波に喰われ、かみ砕かれるように沈んでいった。
無辜の娘たちだ。あり触れた幸福のなかで誰かを愛し、誰かに愛されていた――殺されていいものなど、いなかったのに。
凄まじい雄叫びが響き渡った。
竜だ。竜が吼えていた。
荒波が崖を砕くようにせまる。落ち着きかけた嵐がふたたびに激しく、吹き荒れた。雨と霧がない雑ぜになって、逆巻きだす。
竜の双眸からはとめどなく雫が落ち、湖の水嵩が急激に増してきた。
湖にかけつけてきたラグスが慨嘆する竜の様をみて、項垂れるようにたち竦んだ。失意に満ちた重い息をついて、彼はつぶやいた。
「そうか。竜は、たったいま、壊れたのか」
ラグスの側にいるイラカがその意を理解するまでもなく。
「氾濫する、氾濫するぞ」
群衆が誰からともなく騒ぎだす。
湖の南東の縁が狂涛に砕かれ、崩れた。
傷から血潮が噴きだすように崩れたところから勢いよく、湖があふれる。
波が青みを帯びた。眺めているだけでも息ができなくなるほどに劇しい青がうねりながら巻きあがる。青き津波が群れた蛇の如く貪欲なる牙を剥いて、葡萄畑に喰らいついた。
葡萄の幹を薙ぎ、棚を砕きながら怒涛は坂をくだる。
町の者は絶叫をあげて逃げ惑い、されども為すすべもなく、ただ崖の頂から身を乗りだして暴れる湖が故郷の町を襲うさまを、目に焼きつける。
波は瞬きのうちに、町へと到った。
雨に蝕まれて傾きはじめていた煉瓦の壁は波涛にやすやすと突き崩された。続けて、いっきに屋根が落ちる。飢えた蛇の群がごうごうと呻りながら家々を飲みこんだ。寝室の窓を破り、玄関を崩して、部屋のなかを舐めていく。家族が暖かな料理をかこんだであろう、あり触れた木製の食卓が波のあいまに漂い、濁流のなかにひきずりこまれていった。
ひとびとの細やかな幸福ごと町が壊れていく。
されども、事態はそれだけにはとどまらなかった。
「なんなんだ、あれは」
波に浸食されたものが、色を損なっていく。
煉瓦の壁も、青い屋根も、樹木も等しく褪せていった。
死に絶えたひとが緩やかに朽ちて、しらけた骨を曝すように。
それらは波に揉まれ、がれきも残さずに崩れた。青い波に飲まれた馬が溺れるまでもなく、白い結晶に覆われていくのをみて、誰もが身震いをする。
塩だと、町の男が叫んだ。
潮の波に喰われてあらゆるものが塩の塊になっちまったんだと。
例えではなかった。現実に、津波に飲まれたものはことごとく塩になっていった。
群衆はあとかたもなくなった家を想い、葡萄畑を想い、故郷の町を想い、呆然と涙を流す。
宿屋も例外ではなかった。三階建ての建物が基礎から崩れ、砂の城でも踏みにじるように崩落する。最後には、倉に預かっていた葡萄樽だけがぽっかりと浮きあがった。だがそれも潮に浸るうちに塩の塊となって、崩れた。
イラカにとっては、碌な父親ではなかった。それでもそんな父親が眠る暇もなく働いて建て、息子である彼が確かに譲りうけたものだった。
「あ、あああ、ああ……竜が、竜の神さまが……」
「しっかりしろ、ミナ……俺がいる、俺がいるから」
言葉にならない声をあげて震え続けるミナをなだめるように強く抱き締め、だがイラカも身の震えをとめることができなかった。
竜とはこれほどまでに、凄まじいものだったのか。
これではまるで、ほんとうに神じゃないか。
津波は町をたいらげるとあの異様なまでの青さを失い、後には静かなみなもだけが残された。もとから町などなく、浅い湖だけが拡がっていたのだといいたげに。
「あ、あああ……《青き豊穣の竜》よ!」
町と竜につくしてきたはずの、老いたる長は現実を受けいれられず、泥だらけの地に額を押しつけて、泣き崩れた。
「なぜ、なぜ……このようなむごいことを……これまで、ずっと捧げ続けてきたではありませんか。これほどまでに捧げてきたのに、なぜ」
長老は竜を仰瞻し、細い声で訴える。
町の最期を眺めていたラグスは泣き濡れる背に、吐き棄てた。
「竜のこころも考えずに、縋り続けてきた報いだね」
竜は湖にもぐり、水を噴いては浮かびあがり、暴れまわる。
美しい鰭を携えた竜の尾が勢いよく湖のおもてをたたいた。竜は大きく、尾の鰭だけでも桟橋ほどはある。竜が尾を振りおろすだけでも、津波が巻きおこり森に襲いかかった。今度は津波はただの波で森が塩の塊になることはなかったが、それでも樹木は薙ぎ倒されていく。
続けて竜は崖にむかって、尾を振りおろす。
誰もが終わりだと絶望するなか、竜にむかって弾丸のように跳びだしていったものがいた。白銀の髪をなびかせた娘だ。メリュは竜の尾を弾き落とすように斧槍を薙いだ。殺がれた鱗が散り、竜は驚いて陸から距離を取る。
静かに着地した彼女は、群衆を振りかえった。
群衆は事態を理解できずに混乱していたが、メリュが竜を遠ざけてくれたのをみて、彼女が助けてくれるのではないかと縋りつくような視線をむける。
「落ち着いて、聴いてください。なぜ、こんなことになってしまったのか。竜がなにを望み、なにを望まなかったのかを」
群衆の思惑を知ってか知らずか、彼女は語りかけた。
語らずにいられないとばかりに。あるいは竜に縋り、その恩恵に頼り続けてきたからには、聴く義務があると訴えるように。
いまばかりは、絶えず湛えていた微笑も剥がれ落ちていた。
「竜がなぜ、嘆いているのか、わかりますか」
群衆が静まりかえった。
竜が嘆いている、だと。なぜ、竜が嘆くというのか。
なにもかも奪われ、壊された町の者ではなく、なにゆえに竜が。
「……それならば、わたしが語りましょう」
竜の真意を。
嵐を割り、竜の咆哮が響き渡る。
たいして、語りはじめた娘の声は静かだったが、おなじくらいに重かった。ともすれば、竜よりも彼女のほうが、嘆きに捕らわれているのではないかと想われるほどに。
引き続き、連日更新を続けて参ります。
なにとぞよろしくお願い申しあげます。




