5-3《竜殺し》を男は願う
朝になっても日が差すことはなく、雨は激しくなるばかりだった。
吹きつける風が雨をとがらせ、幾万の矢が煉瓦の壁を穿つようであった。屋根瓦が割れ、町のあちらこちらに散らばっている。風にあおられた瓦が窓を破壊しないように、若者が眠らずにかき集めているのだが、暴風に曝されて続々と屋根が崩れ、きりがなかった。
轟くような嵐のなか、朝を報せる鐘の音が微かに響いた。
その頃にはすでに町中の娘が湖に集められていた。
捧げものになれるのは嫁入り前の娘と決まっているので、年の頃は五から十五まで。まだ幼い娘は訳もわからぬままに連れてこられ、くちに縄をかまされて震えていた。母親が泣きわめいているのを夫が抱き締め、町のためだと繰りかえして、なんとかなだめようと試みている。
彼女らはそれぞれが誰かの娘であり、誰かの孫であり、誰かの家族だった。
娘たちは湖にせりだす崖に連れていかれ、棺ではなく葡萄酒の樽に押しこめられた。棺とおなじく、かならず沈むように細工が施された樽だ。
嵐のなかに集まって、町の者はずぶ濡れになりながら、為すすべもなく沈黙を湛えている。
外套もかさもここまでの暴風には勝てない。あるだけ、重くなるだけだ。
群衆を見まわして、長老は語りはじめた。
「この町は昔から《青き豊穣の竜》に護られてきた。その恩恵である竜葡萄は、町の安寧の象徴だ。竜の恩恵が絶えれば、この町は滅びる。故に竜のこころが離れれば、祭りを執りおこない、捧げものをして竜を喜ばせてきたのだ」
だが、と長老は語調を強める。
「昨晩の祭りにて捧げものが逃げ、竜の神さんがお怒りになられた」
縄に縛られたイラカが連れてこられた。
群衆の視線がいっせいに彼にそそがれる。イラカは左側の目蓋が紫に腫れあがってひどい有様だったが、事態がここに到っては、彼に同情を寄せるものはいない。彼が捧げものを逃がさなければ。彼の妹がおとなしく犠牲になっていれば、こんな事態には陥らなかったのだと。誰も彼もが憤り、刺すようにイラカを睨みつけていた。
「竜の神さんに詫び、怒りを静めてもらわねばならん。竜の神さんが満ち、雨がやむまで、娘を捧げ続ける」
項垂れながらも、イラカは激しい焦燥感に捕らわれていた。
まだ、なのか。
湖を睨みつけ、イラカは喚きたくなる。なぜ旅人は昨晩のうちに竜を殺してくれなかったのか。それともいまだに戦っているのか――まさか、竜に喰われたのではないだろうか。最悪の事態が頭をもたげ、胸を掻きむしられるようなきもちになる。
かならず、竜を殺すと誓ってくれたのに。
「なあ、はやく、殺してくれよ……」
彼は振りしぼるようにつぶやいたが、潰えかけた望みは雨に紛れた。
長老はその痩せ細ったからだを震わせ、強く強く宣言する。
「町の安寧を護るために」
幾百の嘆きの雨に濡れても弛まぬ決意がその言葉からは滾っていた。
長老の叫びにあわせて、まわりの者が声を張りあげる。
「町の安寧を護るために」
生贄のいれられた樽が崖にむかって、ゆっくりと転がされていった。イラカはみていられずに顔をそむけ、目を硬く硬くつむる。
それでもあれは妹ではない。妹だけは、助かったのだ。
それがいま、彼の、唯一の救いだった。
「お願い、やめて!」
捧げものをとめるように、群衆の背後から懇願があがった。
聴きなれた声に思わず、イラカが振りむいた。
「ミ、ナ……なんで! うそだ……そんなはず……ッ」
捜索隊にかこまれて、けれど縛られるでもなく杖をつきながら。
ミナがたたずんでいた。
「なんで……おまえが助からなかったら、俺は、なんのために……!」
「捜索隊のみんなに頼んで、連れてきてもらったんだよ」
悪夢でもみているのかと震えながら、イラカは頭を振る。ミナは彼の絶望を知ってか知らずか、悲しげに瞳を潤ませて訴えた。
「あたしだけが助かるなんて、できっこないよ!」
彼女は濡れたおさげを嵐になびかせ、長老のもとに進んでいった。樽を捧げるのを制しながら、黙って事態を静観していた長老に頭をさげ、ミナは頼みこむ。
「どうか、あたしを竜の神さまに捧げてください」
長老は頷き、険しかった表情を僅かに緩めた。老いて濁った瞳に慈愛めいたものがよぎる。
「そうかそうか、よう帰ってきた。さすがは町の娘だ。そなたの信仰に免じてイラカの処遇は考えなおすとしよう。どちらにしても男は湖には捧げられんでな」
長老は穏やかに崖を指す。
「さあさ、湖に跳びおりよ」
ミナは戸惑わなかった。動きにくい脚をひきずりながら、臆さずに崖から身を躍らす。最後に唇を、ありがとうと動かして。
家族を奪われたイラカの絶叫が響き渡る。
だが、それを遮るように怒涛の如きしぶきが噴きあがって。
なにかが、湖からせりあがってきた。
「な、なんなんだ、いったい」
群衆が騒めくなか、湖と空が繋がるほどの激流が、天を衝く。雲を破るように。
青い鱗が水の表を横ぎる。
螺旋を模る瀑のなかには、なにかがいた。
雲が割れ、日が差す。
水滴を巻きこんだ旋風にあおられて、ミナは陸に押し戻された。尻もちをついて、彼女は呆然と振り仰ぐ。離れたところにいたイラカはすでにそれを捉えていた。
「竜、だ……!」
霧がさああと晴れ、その全貌があきらかになる。
そそりたつ蛇の胴に角を携えた竜の頭。
艶やかな鱗に覆われた蛇體が、波の頂を滑る。晴れた湖を想わせる青藍の鱗だ。
紛れもなく、この竜が湖を統べているのだとわかる。
魚の鰭を模ったような翼は日を透かして、微かに虹を帯びていた。優雅に鰭を羽搏かせて、竜は霧を掻きわける。天地を撹拌するように。細かな雫が散りばめられ、雲のあいまにとぎれとぎれの虹を架けた。
角には蔓が巻きついていた。遠くからでも、町の者にはわかる。
あれは、葡萄の蔓だ。
蔓からは綺麗な青い実の房がさがっていた。
町の者はいっせいに声をあげて、恐慌に陥る。
竜に頭を垂れ、どうかお恵みくださいと頼むもの。竜に喰われたくないと逃げだすもの、恐怖に震えあがり身動きひとつ取れないもの。
されど竜の眸は恐れるものも畏れるものも、映してはいなかった。
竜の双眸からは、雫ばかりが満ちては落ちる。
雨の雫か、潮か。
「おお、おおお、竜の神さん……」
長老は竜を仰いで、崩れ落ちるように地に膝をついた。
「やっと、お姿を……ああ、竜の神。どうか、どうか町をお護りください。町に変わらぬ安寧をもたらしてください。いまから捧げものをさせていただきますゆえ……どうか」
長老は町の衆を振りかえり、いまこそ娘を湖に捧ぐのだとうながす。
「――――どうか、おやめください」
頭上から、凛と響く声が掛けられた。
よもや竜が喋ったのかと群衆は驚いたが、すぐに違うと気がついた。竜の背には誰かがつかまっていた。たおやかな人影は竜から飛びおり、崖の頂に着地する。
綺麗な娘だった。
紫がかった銀の髪に異境の民族だけが袖を通すような変わった服。娘はいましがた、湖からあがってきたばかりのように濡れそぼり、服も髪もなめらかな肌に張りついていた。妖艶にして清らか。まるで神話に語られる、水竜の娘だ。
彼女は頭を振って頬に張りついた髪をはらい、恐慌のただなかに進みだす。
町の者たちは、今度はなんだと騒めきながら娘を遠巻きにしている。騒ぎのあいだに縄をひきちぎっていたイラカは腰が砕けてしまったらしいミナを抱き締めながら、娘を振り仰いだ。
竜を殺すといった娘。
されども竜に乗って湖から生還した彼女は、竜の敵どころか、竜の寵愛の娘のようだった。裏切られたようなきもちになり、イラカは震えた声を洩らす。
「竜を殺してくれるんだろ……なあ」
だが彼の言葉は風に浚われ、娘には届かなかったようだ。
娘――メリュは騒然となる群衆にも聞こえるよう、声を張りあげた。
「竜は捧げものを望んでいない、どうかやめてください」
お読みいただき、御礼申しあげます。
続きは10日(木)20時に投稿致します。
いよいよ第二章のクライマックスに差し掛かっております。
楽しんでいただければ幸いです。