5-2 竜の《忿怒》は吹き荒れる
その嵐は竜の怒りというにふさわしかった。
地をゆがませるほどに激しい水の砲撃が絶えまなく続き、森は枝葉を食いちぎられて、幹と太い枝だけを残して無残な姿を曝している。稲妻が帳を裂いては地響きを轟かせた。
ラグスはミナを連れて、イラカと落ちあうはずの洞窟に身をひそめていた。不安に張り裂けそうな胸をぎゅっと押さえつけて、ミナは洞窟の外を眺めている。
「おにいはまだ、かな」
「いまは待つしかないね」
「きっとだいじょうぶ、だよね」
「だいじょうぶなんじゃないの」
喋りながらもラグスは、不測の事態が起こっているのだろうと憶測していた。
祭りが終わって、ずいぶんと経った。間違いなく、イラカの身になにかがあったのだ。ミナを連れて、すみやかに町から離れるべきだが、彼女は脚が悪い。真っ暗な嵐の森を逃げるなど無謀だ。朝になって森に日が差せば、まだ移動も易くなるだろうが、こんな嵐では昼になっても暗いままということも考えられる。
頼まれたとはいえども、この娘を護衛する義理は、彼には特にない。
投げだしてしまおうかと思案する。
なによりもメリュのことが気掛かりだ。ミナがいなければ、すぐにでも湖に赴き、メリュを捜すのに。ラグスはひそかに舌打ちをする。
「あの綺麗な旅人さんは、だいじょうぶかな」
ちょうど考えていたメリュのことを尋ねられて、彼は遠くにむけていた意識を戻す。
「あのひとはとても綺麗に微笑んでるけど、ほんとうは微笑んでなんか、いないよね。なにか重いものを胸に抱えていて、それでも微笑み続けることで、なんとか立ち続けているみたい。おにいさんは、あのひとが抱えているものがなにか、知っているの」
「さあね。抱えなくてもいいものまで、勝手に抱えてるんじゃないの」
投げやりにいったつもりが、言葉の端に情のようなものが滲んでしまっていた。
いつのまにか、彼女にほだされてしまったのだ。なりゆきとはいえども、人助けの一端を担わされてしまうほどには。いらだちを募らせながら、彼は簾というにはいささか激しい水の弾幕を睨みつけた。彼女はいま、竜と殺しあっているのか、あるいは。
ふと、ラグスが表情をひき締める。
遠くから群衆の声が響いてきたのだ。
「どうかしたの」
「静かに」
ミナを制して、耳を欹てる。
逃げた。捜せ。捕まえろ、かならずだ。
そんな物騒な声が聴こえ、ラグスは弓を握り締める。
逃げた捧げものを捕らえるべく捜索隊が組まれたのだ。誤算だった。こうもすぐにばれるとは。なにか落ち度があったのかと振りかえるものの、策略に破綻はなかった。偽装工作も完ぺきだ。すくなくとも朝までは気づかれないはずだったのだ。
だとすれば、なぜ。
「そうか、恐怖か」
祭りを執りおこなったのに雨がやまなかった。
そんなことがあってなるものか。誰かが裏切ったに違いないと、町のひとびとは疑心暗鬼に陥ったのだ。最愛の妹を捧げることになったイラカには、まっさきに疑いが掛かる。
例え捧げものを湖に投げこんでいても、結末は一緒だったはずだ。
証拠など後から捜せばいいのだから。
「町の奴らがおまえを捜しにくる。静かに息をひそめてやりすごすんだ」
「そんな……それじゃあ、おにいは……」
ミナはさあと青ざめた。彼女はそれきり思いつめたように黙る。
泥濘を踏み、枝を薙ぎながら捜索隊が近づいてきた。霧のかなたにたいまつの群れが見え隠れする。洞窟の隅に身を寄せていれば、なんとかやりすごせるだろうか。
ミナは静かにしゃがんでいたが、前触れもなく立ちあがる。
「ちょっと、なにを」
ラグスが戸惑い、腕をつかもうとするのを振り払い、ミナはどこからともなく拾ってきた枝を杖がわりにして洞窟から跳びだしていった。
遠く、雨のかなたから、竜の咆哮が響いてきた。
崩壊を報せるように。
† ‥ † ‥ † ‥ † ‥ † ‥ †
時は遡る。
祭りが終わったばかり湖のほとりで、ひとがひとを殴りつける鈍い音があがった。
縄で縛りあげられたイラカは抵抗もできず、泥濘んだ地を転がる。彼を殴りつけた大男はわなわなと震えながら、叫んだ。
「貴様が捧げものを逃がしたのだろう!」
「俺は確かに、妹を沈めた」
イラカは泥をかみ締めて、なんとかそれだけいった。
「まだいうか!」
僅かに白髪がまざり始めた齢の男は太い腕を振りあげた。彼は猟銃を担いで森に赴いている現役の猟師だ。鍛えあげた鉄の拳骨に殴りつけられ、血反吐を絡げながらも、イラカは知らないとだけ繰りかえす。
祭りは滞りなく終わったはずだった。
にもかかわらず雲は晴れず、それどころか、激しい嵐になった。なにかが竜の逆鱗に触れたに違いない。まさか捧げものが逃げたのではないか、と誰からともなく騒ぎはじめた。
舟を操舵して捧げものを奉納する役割だったイラカに疑惑が掛かるまでには、さほど時は掛からなかった。まして捧げものは彼の妹だ。兄妹の仲睦まじさは町の誰もが知るところだった。
桟橋に舟をつけるなり、イラカは町の衆に捕まった。殴られ、縄に拘束され、いまに到る。
「貴様が妹可愛さに竜の神を謀ったのだろう!」
胸倉をつかまれる。イラカを責める男は、泣き喚かんばかりに顔を崩して、訴えた。
「そうでなければ、雨がやまんはずがない! 貴様の裏切りが、町を滅ぼすやもしれんのだぞッ……わかっているのか!」
「知らない……俺は」
「黙れッ、よくも、こんなおそろしいことをッ」
イラカはどれだけ殴られても素知らぬふりを続けていた。だがそれにもかぎりがある。
証拠があがったのだ。町の男が血相を変えて、濡れた棺の蓋を持ってきた。
紛れもなく、捧げものをいれた棺のものだ。棺の蓋は杭をうちつけて、しっかりと塞いであったはずだった。湖が荒れているとはいえども、勝手にはずれるものではない。誰かが故意にはずしたことはあきらかだ。
「は……はははははっ」
イラカは観念したのか、前触れもなく笑いだす。
なにを笑っているんだと蹴られ、殴られても、彼は黙らなかった。
涙がにじむほどに笑い転げた。壊れたのかとまわりが眉根を寄せる。散々笑い、ようやっと波がおさまると、彼は一転して怒鳴り声をあげた。
「もう、もうたくさんだッ……どれだけ! いったい、どれだけ犠牲にしてきたッ!」
絶望に満ちた訴えに、場が静まりかえる。
「どれだけ竜の言いなりになってきたか! なにが竜の神さんだ! ふざけるなよ! 捧げものを欲しがる竜なんか、護り神でもなんでもないッ!」
嵐を掻き消すほどの雄たけびをあげて、イラカは糾弾する。
「じぶんたちが助かるためにどれだけの娘を犠牲にしてきた。春に殺されたのは俺の幼馴染だった。心根の優しい娘だった。葡萄踏みがうまかった。みんな、覚えてるだろ……いい娘だったじゃないか!」
町の衆がざわざわと騒めきだす。
ああ、あの娘は毎朝一番にきて葡萄倉の掃除をしてくれた。いたずらをする子どもを叱ってくれた。いい娘さんだった。そのなかには、あの娘は孫だったという声もまざっていた。
誰もが悲しみながらも、諦め、納得せざるをえなかったのだ。
町の安寧のためだ。竜の恵みを維持するためにはしかたがないのだと。
いまだってそうだ。
そうして、繰りかえされてきた。
「あの娘が捧げられて、確かに雨は降った。けれど豊穣はなかった。豊穣は、なかったじゃないか! 雨が降り続けてこのざまだ。いいか、俺たちは竜に踊らされてるだけなんだよ!」
彼はその場にいる、かぎられた町の衆に訴え続ける。
「今晩殺されるはずだったのは俺の妹だ! 最愛の、家族だ! 町のために誰かを犠牲にするなんて馬鹿げて……ッ……ぐッふ」
硬い樫の杖で頭を思いきり殴られ、言葉が途切れる。
「竜さまになんたることをッ」
杖を振りあげていたのは長老の補佐を務めてきた老婆だった。
捧げものとなるはずだった娘に化粧を施して着飾ってやったのも彼女だった。あの時みせた涙を飲みほして、枯れ枝のように萎びた老婆は息を荒げながら、喉を猛らせた。
「綺麗ごとばかりを語りよって! 町の安寧を維持するのがどれほど難いか! おまえはまだ飢えを経験したことがないから、そうもたやすく非難できるんさね!」
想いだしたくもない昔がよみがえったのか、彼女は白髪の頭をかかえる。
「竜の冬は凄まじかった。ほんとうに凄まじかったんさ……町の者は飢え、草の根をかじって生き延びた。重ねてあの頃は戦争があった。税も多額じゃ。払えんかったら町を取られる。あのとき、捧げものをせんかったら、いまの町はなかった……!」
地獄のような飢饉を乗り越えてきた老婆の語りには、凄みがあった。
「だからって、豊穣もない竜に」
「竜さまは満ちたりておらんのよ! ただ、それだけのことさね」
信仰に縋りつくように老婆は目を爛々と輝かせた。
「竜の恩恵あってこそ、この町は平穏に続いてきた。またいつ、戦争があるかもわからん。娘ひとりを犠牲にして安寧が得られるのならば……っ……やすいものよ」
老婆は一瞬だけ言葉をつまらせ、それでもなお、言いきった。
町の者は戸惑い、どよめいている。だがそれを制するようにひとつ、声があがった。
「静かに!」
長老だ。老いたる町の長はたった一喝で、みなを静まらせた。
まるまった背と痩せ細ったからだのどこから、こんな落雷のような声がでるのか。ぶ厚い織物の外套を被った長老は、緩慢な動きで群衆の前に進みでる。
「竜の神さんに若者の不徳を詫びねばならん」
横殴りの雨にも臆さず、長老は声を張った。
「逃げた娘を捜せ! 捜索隊を組み、森に赴くのだ!」
補佐たる老婆が頷き、すぐに若者を集める。
続けて、長老はうながした。
「まもなく、朝になる。娘を集めよ」
その意を理解して、町の者はいっせいに震えあがる。イラカが青紫に腫れた目を剥いた。泥と血潮によごれた唇が激しく戦慄く。
「まさか」
最悪の想像に違わず、長老はいった。
「竜の神さんが恩恵を取りもどしてくださるまで、幾人でも捧げようぞ」
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