1-1 《輝く鉱脈の竜》は死す
群青の緞帳を震わせて、地響きがあがった。
喪に服すように沈黙を湛えていた森がにわかに騒めきだす。
森のなかで地を走る嵐のようなものが暴れている。複雑にまがって絡まりあった樹木は薙ぎ倒され、葉が旋風を巻いた。影縫い翼の梟が逃げ惑うように森から舞いあがる。
黒い森には竜が棲む。
ひとびとは斯く語った。畏敬ではなく嫌悪と忌避をもって。
竜は森を蝕みながら眠り続けている。誰かが眠りを妨げることがあれば、竜は暴れだすだろう。されどもその竜は全身が輝くばかりの金銀財宝でできているという噂だった。欲にかられ森に踏みこんだものはいたが、ひとりとして帰らなかった。
時が経ち、もはや黒い森に近寄るものは絶えてひさしかった。
だが永劫に続くかとおもわれる竜の眠りを妨げるものがいたのだ。
夢を破られた竜はもだえるように暴れまわる。枯れかけた森を崩し、地を踏み荒らしながら。
竜の攪乱を制すように、白銀の一線が闇を裂いた。
敏捷な槍撃だ。
黄金の星を砕いたような輝きが、あたりに散らばる。ぶつかりあって鈴のようになり響くそれらは、金塊のかけらだった。
群雲が流れ、月があらわれる。
月影を映して、竜が光輝いた。
噂と違わず、竜のからだはきらびやかな金塊の鱗と輝石に覆われていた。
喉もとには水晶。脚には青い瑪瑙を鎧のように纏い、跳ぶちからは備えていないものの翼を模ったような翡翠の結晶を背に携えている。黒に埋めつくされた森にあって、輝きに満ちたそのすがたは畏れさえ感じるほどに美しかった。
竜の体長は幌馬車をふたつならべたほどもあり、雲母の塊を帯びた硬い尾までふくめれば、さらにもうひとつ幌馬車をならべなければならないだろう。
鱗を剥がれた竜は翡翠の翼を扇のように拡げて、激しく威嚇する。
たいするは華奢な娘だった。
年の頃は十五前後か。銀の髪をなびかせて背筋を張り、毅然と槍を構えていた。
されどもしょせんは少女だ。腕も脚も細く、鍛えぬいた英傑には比ぶべくもない。竜の顎に挿まれたら最後、かんたんにかみ砕かれひと呑みにされるに違いなかった。
だがなぜか、凍てつくような気迫が、彼女にはあった。
竜が勢いよく爪を振るう。
娘が金塊の散り敷かれた地を蹴る。ひらりと攻撃を避けた。娘のかわりに斬撃をあびた樹木がへし折れ、あたりの枝を巻きこみながら横倒しになる。
倒木に脚を掛け、娘が跳ぶ。
小斧のついた槍がまわる。演舞するように刺繍の施された服のすそがひるがえる。髪が銀の焔のごとく激しくそよいだ。風を踏みつけて高く跳ねあがった娘は、勢いよく槍を振るい、竜の鱗を剥ぎとる。砕けた金が舞った。あのひとかけらでもすさまじい値がつくだろう。だが彼女は一視もくれない。
竜の動きは荒々しく、理性どころか意識があるのかどうかもさだかではなかった。毒に侵されて苦しみもがく獣のようにあたり構わず薙ぎはらい、破壊していた。
娘は竜を斬っては距離を取り、森のはざまにあるぽっかりと拓けた草原に竜を誘いだす。
月光の差す平地には青黒い野花が咲き群れていた。
そのなかばまで進み、娘が振りかえる。
「《輝く鉱脈の竜》よ」
竜がこたえるように低く呻いた。
娘は竜にむかって腕を差しだす。槍を真横に掲げ、敬意を捧げるように。
「愛していたのでしょう、あなたは。慈愛を振りまき、秩序を衛り、恩恵を与え続けて。最後まで、ひとを傷つけまいと森に身を寄せた。あなたは聡慧だった。毒に身を焼かれてもなお。それでもあなたが嘆くのならば」
時の針を進めるように槍をまわして、彼女は敬意を殺意にひるがえす。悪意に濁らぬ、純然たる殺意だけを振りかざして、娘は綺麗に辞儀をする。
その唇には微笑がともっていた。
「竜を愛し、竜に愛されたこのわたしが、せめても終わらせましょう」
竜が呻る。はなびらを巻きあげ、竜は娘にむかって突進してきた。
娘は跳びあがって難なくそれを避ける。
勢いのついた竜はそのまま進み、娘の背後にあった泉に転落する。水しぶきが噴きあがった。水沫の幕を破り、娘が竜の頭上から斬りかかる。
娘に貫かれる刹那、竜は頭をあげた。
樹幹をも砕く角でつきあげることもできたはずだ。だが竜は、ただ静かに、月を仰いでいた。
月を映す竜の眸はしとどに濡れていた。玻璃よりも美しき涙の珠が眸から吹きこぼれる。ひとつ、またひとつと。
なにを想い、竜は泣くのか。
それでも娘はためらわない。微笑いながら、ひと息に竜の頭を貫いた。
竜が最後に吼える。星が天から落ちるような咆哮だった。
雄たけびは余韻を繰りかえしながら黒い森に響きわたる。満月を震わすほどのそれは、嘆きだ。怨みも後悔もない、純然たる嘆きだけを轟かせて、それきり森は静まりかえった。
† ‥ † ‥ † ‥ † ‥ † ‥ †
月が悼むように青ざめた光を投げかけている。
月明かりに照らされてもなお緑が息を吹きかえすことはなかった。死にながらに生き続けている森だ。植物の息が絶えた地では季節は巡らず、微かな風さえ吹くことはなかった。森に棲む生き物も息を殺しているのか、時折星の屑ほどの蛍の群が静かに舞うだけで、草を掻きわける鹿の蹄の音も狼の遠吠えも聴こえてはこない。
竜は泉に身を浸すようにして息絶えていた。
溢れる竜の血潮が泉を満たして、水の表を青みがかった銀に染めあげていた。麝香と香木がまざったような血潮の香りが濃く漂っている。
その竜は、宝石の眠る鉱脈をつかさどる竜であった。
竜の恵みは町に富みをもたらしてきた。だがいつからか、竜はわざわいのもとのように遠ざけられ、遂には殺された。
それは、ほんとうならば、ありえないことだ。
竜の側には槍を提げた娘がたたずんでいる。
竜の亡骸に寄り添い、戦っていた時の激しさからは想像もつかないほど穏やかに、歌を歌っていた。哀悼を捧げるように。囁くほどのか細い歌声は森には響かず、静寂の幕を震わせることもなく、ただ息絶えた竜にだけそそがれている。
娘は月の妖精が舞いおりてきたのかと疑うほどに、美しかった。
美貌だけではなく、りんと張りつめた清らかさと叡智を漂わせていた。月影を紡いで織りなしたような純銀の髪が、雪を欺くような肌に映えている。
彼女は九芒星の模様が織りこまれた服に身をつつんでいた。胸もとから裾にかけて、竜の刺繍が施された紫の飾り布が縫いつけられている。きゅっと締まった腰には編みあげの革帯が巻かれていた。裾からは細い脚が伸びており、膝に掛かるほどの編みあげの革靴を履いていた。
霜氷の睫毛に飾られた瞳は紫。黄昏の星のような双眸は透徹した静けさを湛えていた。
ふいに繁みががさがさと揺れて、娘が歌をやめる。
「みろよ、黄金の竜だ!」
「黒い森には竜が棲むという噂はほんとうだったのか」
「しかも死んでいるぞ。鱗でも落ちてりゃ、ひと儲けできるかとおもっていたが」
「まるごと、俺たちがいただけるってわけか」
繁みを掻きわけて、いかにも野蛮そうな男の群が現れた。獣の革の鎧と熊の外套を着こみ、鉄の大剣を担いだ格好からして、傭兵崩れの盗賊だろうと思われる。彼らはたいまつを掲げ、静寂を踏み荒らすように草地を進んできた。
「なんだ、こんなところに娘かぁ?」
息絶えた竜を見つけて興奮していた男らは竜の側にたたずむ娘に気がつき、顔を見あわせる。
竜の棲む死にかけた森に、娘がひとり。
異様なほどに場違いだ。
盗賊は竜の血潮に濡れた娘と息絶えた竜を見比べて、まさか娘が竜を殺したのかと考えかけたが、すぐにその考えを頭から振りはらったようだった。
ありえないからだ。
彼女が華奢な娘だったからではない。そこにいたのが屈強な剣士だったとしても、軍隊だったとしても、そんなことはあるはずがなかった。
なぜならば、竜は殺せないからだ。
寿命がつきることをのぞいて、竜が死を迎えることはない。
如何なる剣豪でも、英雄と称される騎士でも。或いは難攻不落の要塞をも崩す破城槌、大砲をもってしても。竜を傷つけることはできない。
まして竜を殺すなど、できるはずもなかった。
娘が緩やかに振りかえる。銀糸の髪がきらきらと月光を撥ねた。
娘は盗賊をみて、なにを思ったのか、柔らかく微笑みかけた。
「今晩は」
あまりにもその場にそぐわない綺麗な微笑に、男たちは一瞬、毒気を抜かれた。
「まよって、しまわれたのですか。竜の死んだ夜はいつもよりも昏いですから」
どこか妖艶な潤みを湛えた紫の双眸を瞬かせて、娘は喋る。
清らかすぎる美貌といい、鈴のような声の響きといい、彼女はまるでお伽噺の妖精だった。
森にはその昔、妖精が棲んでいて、森を荒らすひとびとを惑わせていたのだと、年寄りから教えられたものだった。妖精なんてものがいたとするならば、彼女のようだったに違いない。あまやかに誘い、魂を喰らう美しき魔性――。
男らは胸のうちにぞくりと、細かな震えが湧きおこるのを感じた。
欲望ではない、驚きでもなかった。それは本能から湧く恐れだった。
美しすぎるものは時に恐怖をもたらす。
それは滅びの予感にも等しい。
されども、妖精などいるはずもなく、あれはただの小娘だ。なにを恐れる必要があるのかと男たちは本能にあらがうように熱りたった。盗賊のなかでも特に筋骨隆々たる賊の首領らしき男が剣を抜き、娘にむける。
「竜から離れろ。さもなければ殺す」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
続きは19日(土)20時に投稿致します。
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