5-1 人類は愚かだと《赤き双眸》は睨む
町は朝から賑やかだった。
夜明けとともに飾りつけがなされ、家々の軒さきでは葡萄を模った鈴がからからと音を奏でていた。その調べに負けじと音楽隊が町のあちらこちらを練り歩き、昼ともなれば野外に天幕が張られ、葡萄酒やご馳走が振る舞われた。無理にでも憂いを払いのけようとするかのように騒々しく、祭りに背を押されて町を去っていった旅人のことなど気に掛けるものはいなかった。
捧げものに択ばれた幼い娘は鏡台にむかってすわり、老婆に化粧を施されていた。
「別嬪さんになったよお。竜さまのみもとにいって、側仕えをさせていただくんだからねえ。綺麗によそおわないと。失礼にあたるさね」
そばかすだらけの頬におしろいをはたいて、眉のかたちを整え、紅を差す。顔から幼さを取りのぞくように。もとがこぢんまりとしているからか、年端もいかぬ彼女は花嫁のように美しくなった。竜葡萄で染められた藍の衣装に袖を通す。
かしましく喋っていた老婆が、このあたりから黙りはじめた。
最後に髪に華やかな飾りをつけたところで、老婆は涙をあふれさせ嗚咽する。
「すまないねぇ、あんたみたいに若い娘を。けれども、これも町のためさね。竜葡萄と町の安寧を護るためさ。許しとくれ、ああ、どうか」
震える老婆の背をなぜて、彼女はだいじょうぶだよと繰りかえす。
だいじょうぶ。町のためだ。家族のためだ。
綺麗に着飾った妹が部屋からでてきたとき、迎えにきていた兄は地を睨みつけて、まともに目もあわせてもくれなかった。兄が迎えにきたのには訳がある。舟を渡すはずだった漁師が今朝から体調を崩してしまい、彼が急遽、舟をだすことになったのだ。
ほんとうならば、親類はその役割からはずされる。家族が直接娘を湖に捧げるのはあまりにも残酷なことだからだ。だが、荒れた湖で舟を操れるものが他にいなかった。故に兄が択ばれたのだそうだ。
最後まで兄と一緒にいられる。それだけでも娘は、幸せだった。
行列に連れられて暮れなずむ葡萄畑の坂をあがる。
坂は浅い瀬のように水が流れ、泥濘んでいた。杖があるとはいえども娘の足では滑る坂をのぼるのはきつい。泥濘に杖を取られ、転びそうになる。横にいた兄がすかさず支えてくれた。
「ありがとう」
娘が呼び掛けても兄は口を真横にひき結んで、なにも喋らなかった。気を緩めたら泣き崩れてしまうとばかりに顔が強張っている。
笑わなければ。娘は思った。
最愛のひとが、竜を。町を。恨んでしまわないように。
彼女は町を愛していた。
捧げものになれて嬉しいというのは、もちろん強がりもあったけれど、ぜんぶがうそだったわけじゃなかった。身寄りのなくなってしまったときにも、町のひとびとは親切にしてくれた。小麦をわけてくれたり宿の修理をしてくれたり、有難かった。
みんな、優しいひとばかりだ。いまだってそうだ。町のおじさんは酔いつぶれたふりをして彼女のことをみないようにしているし、おばさんは手を振りながら涙ぐんでいる。だから、だいじょうぶ。ちょっとばかりこわくても。
町を助けることができるのならば。
幼い娘は懸命に頬をもちあげる。
湖についた。この頃はずっと霞に覆われていた湖だが、竜が祭りを喜んでいるのか、霧のあいまからは青く透きとおった湖面が覗いていた。
ここに竜の神さまがいるのだ。
桟橋で祈りを捧げて、葡萄酒の杯を掲げて乾杯をする。
儀式を終えたときには、あたりは暗くなっていた。
兄に手を取られ、棺のなかに横たわる。蓋をされ、光が途絶えた。
かあんかあんと、杭のうちつけられる音だけが棺のなかに反響する。杭を打ち終わると担がれて舟に乗せられたのが、棺の振動からわかった。
町の者の歓声が、雨の音を割るように響き渡った。
そのあいだ、娘はずっと祈り続けていた。
竜の神さま。町を護ってください。雨をやませて、町に豊かな恵みをお与えくださいと。
けれどしばらく波とも雨垂れともつかない轟きに満ちた暗闇のなかにいると、恐怖が襲いかかってきた。まだ水に浸かってもいないのに、まともに息ができない。
せっかくの決意が綻びだす。
死にたくない。というあたりまえのきもちと、みんなのために死ななくちゃという想いがない雑ぜになる。あふれだした恐怖は涙になって娘の頬をつたった。
「……おにい」
想わず声を洩らしてしまったとき、開くはずのない蓋がはずされた。
ひかりではなく雨が差す。雨に濡れながら誰かが手を差しだしてきた。見慣れた手だ。革手袋をしているみたいに厚いそれを、彼女が見違えるはずがない。
「さあ、逃げてくれ」
最愛の兄であるイラカが、抱き締めるようにして彼女を暗い棺から助けだしてくれた。
安堵と驚きのあまり、ミナは泣き崩れた。
「なんで……あたしが逃げたら雨がやまないのに。町が助からないのに。竜の神さまがお怒りになられたらどうすればいいの」
「関係ねえよ。春にもひとり、沈められて、こんな有り様だ。後は旅人さんが竜を殺してくれると信じるしかねぇんだ。時間がない、逃げろ」
泣き続ける妹をイラカはひょいと抱きあげて、隣にならんだもう一艘の舟に移す。
角灯を提げていない舟には今朝町を去ったはずのふたりの旅人が乗っていた。
櫂を握っているのは黒い外套を巻きつけた旅の青年だ。旅の娘はミナと入れ違いに舟のあいだを渡り、するりと棺に脚を踏みいれた。
「うそ、なんで……旅人さんが」
「だいじょうぶですよ」
旅の娘は振りかえり、力強く微笑んだ。あまりの強さになにもいえなくなり、ミナは黙る。
続けて彼女は相棒たる青年に視線を投げ、軽く頭をさげた。
「ラグス、彼女のことをお願いします」
旅の青年は頷く。彼は荒波のなかでも悠々と櫂を操った。
二艘の舟は岩礁の影から離れていく。捧げものを乗せた舟が遠ざかるのを、ミナは霧のなかにぼんやりと浮かぶあかりで確かめる。
降り続ける雨のせいか、波がひどく荒れていた。
舟は揺さぶられながら進み、湖の岸が近づいてきたところで、後ろからなにか重いものが湖に投げ落とされるような音があがった。
捧げものがなされたのだ。
町のひとびとの高らかな祈りの声が響いた。みな《青き豊穣の竜》に穏やかな天候と恵みを願っている。どうか雨をやませて、竜葡萄を実らせてくださいと。
祝詞を幾度、繰りかえしただろうか。
段々と群衆の声に困惑の影が差し始めた。ぴったりと揃っていた調子にも乱れが生じる。
旱魃の時には、捧げものをすればすぐに雨雲が集まり、激しい雨が降りだした。
竜は天候を操る。竜を喜ばせれば、乱れた天候は落ち着くはずだと誰もが疑わなかった。だが今晩にかぎって雨はやまず、それどころか。
「嵐だね」
荒波をさばくように舟を操りながら、青年がいった。
空が泣き崩れたのかとおもった。
雄叫びをあげるように雷が轟く。暗雲からほたほたと滴るばかりだった雨の群が激しい風をともなって、瀑のように地を揺るがした。
希望を打ち破られた民衆が騒ぎだす。声は嵐に遮られて聞こえなくなったが、ひどく動揺しているのが、彼らの掲げているたいまつの動きからつたわってきた。
桟橋のある陸地を振りかえり、青年は射貫くように双眸を細めた。
外套のすきまから覗く双眸は赤い。赤ならば、焔。それなのに、視線にはいっさいの熱がなかった。火傷するほどに凍てついた視線で、彼は群衆の騒擾を睨みつける。
「人類は愚かだ」
雨の音が邪魔をして、ミナには彼の声はよく聞き取れなかった。ただその整いすぎた横顔から洩れだす憎悪がびりびりと彼女の肌を震わせる。
「けれど」
激しい憎悪がふと緩む。
憐れむように霧のなかを見つめ、彼はため息を落とした。
「その人類のために命懸けで竜を殺すおまえも、やっぱり愚かだね」
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