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4-1 少女は何故《愛する竜》を殺すに到ったのか

 美しい娘がひとり、銀糸の髪を背に流れる滝のようにして、町のなかにたたずんでいた。外套は羽織っておらず、薄絹の夜着だけが華奢な腰にまとわりついている。


 濡れそぼり、それでもなお、娘は綺麗だ。

 いましがた、湖からあがってきたばかりの嘆きの人魚姫のように。


 町はとうに寝静まり、道の端に群生する(きのこ)だけがぼんやりと青いひかりを帯びて、霧のなかに緩くたわんだ線を浮かびあがらせていた。敷きつめられた煉瓦の表にはとうとうと水が張り、そこに青が映って、重くのしかかる雲に愛想をつかした星河(せいが)が地上に遁れてきたかのようだ。

 乳ではなく葡萄酒を垂らしたような星の環だった。雫が絶えず降りそそいでいるので、水の表には数えきれないほどのちいさな波紋が拡がっては重なりあい、星は細かく波うっていた。

 娘は思いつめたような表情で唇の端をひき結んでいる。薄い紅すら差していない頬に散らばった銀糸が張りついていた。


「なにしてるんだよ、おまえ」


 後ろから声をかけられて、メリュは振りかえった。


「ラグス……あなたも、眠れないのですか」


 彼女は一瞬のうちにいつもどおりの微笑を取り繕っていた。

 漆黒の外套(ローブ)を被った青年は角灯(カンテラ)を提げ、睨みつけるようにして彼女を眺めている。宿屋の窓からメリュを見掛けて様子を見にきたのだろう。


「眠れないから雨に濡れてましたって? ずいぶんと変わった趣味があるんだね」

「雨がなんだか、悲しそうだったので」


 宵闇から滴る雫は青みがかり、確かに誰かがさめざめと流す涙を想わせる。だからといって濡れるなんて理解できないとばかりに、ラグスは肩を竦めた。


「おまえ、ちょっとばかり頭がおかしいんじゃないの」


 普段にも増して(とげ)がある。怒っているのか。だとすれば、なぜ。

 メリュにはまるでわからなかったが、悪態にも彼女はにっこりと笑いかける。


「竜を殺すような娘が、まともだとおもっていたんですか」

「それだよ。おまえの微笑みかたは神経に障る」


 星を砕きながら水溜まりを踏んで、つかつかとラグスは距離を縮めてきた。メリュの腕をつかみ、彼は乱暴にひき寄せる。うす暗いなかでもその双眸は強い紅を損なうことがなかった。青を映すこともない。


「おまえの微笑みはみじめだよね。透きとおっているのに昏い」

「そう、ですか。そうですね、けれど」


 メリュは表情を変えずに、捕らわれていないほうの腕を持ちあげる。

 凍えきった指が、嘲りにゆがんだ薄い唇をなぞった。


「あなたの嘲笑もたいがい、さみしげですよ」


 これには不意をつかれたのか、ラグスが視線を彷徨わせる。

 言いかえす言葉を捜しては諦めているのか、彼は幾度か息をかみ締め、意外にも、息を洩らすようにして微かに笑った。

 ふたりはならんで、ぼんやりと浮かびあがる青の道をたどる。しばらくは黙々と連れだっていたが、星を掻きわけるようにあかりを提げたラグスがふいに沈黙を破った。


「ほんとうに捧げものになるつもりなんだね」


「捧げものは竜にもっとも近づける役割ですから。それに棺の蓋は取れるようになっているので、他の捧げものの娘たちのように棺ごと溺れることはありません」


「それでも、あれだけ深い湖だ。雨だって降っているし、波も荒れてる。こんな縁もゆかりもない町や兄妹を助けるために、よくも命を賭けられるよね」


 責められているのだとおもった。竜を憐れむくせにひとも助けようなんて、傲慢だと。


「ほんとうにばかだよね、おまえは」


 だがそこまでいわれて、メリュはすとんと、なにかが腹に落ちてくるのを感じた。まさか、そんなはずはない。けれども他に思いあたる節がなかった。

 機嫌をうかがうように尋ねてみる。


「もしかして、わたしのことを心配してくださっているんですか」

「なんで僕がおまえなんかの心配をしなくちゃいけないんだよ」


 あからさまに彼は視線を逸らしている。ずっと機嫌が悪かったのもそのせいだったのか。


「ふふ、そうですか。ありがとうございます」


 メリュはなぜだか、胸のうちに暖かい熱がともるようなきもちになった。さきほどまで雨に打たれて凍えていたので、よけいにその熱を強く感じる。

 それをみて、ラグスは不服そうに眼を細めながらため息をついた。


「ほんと、おまえと喋ってると、調子がくるうよ」


 ざざっと地響きのようなものが聴こえて、ふたりはとまった。

 角灯を掲げてみれば、屋根に敷かれた煉瓦がすべって落ちてきたところだった。屋根だけではなく煉瓦の壁が罅割れ、傾きかけている。石畳がぐにゃりとゆがんでいるのも老朽化が進んでいるだけではなく、地そのものが緩んできているせいだ。

 町は、緩やかに崩れはじめている。


「竜を殺せるのは、ほんとうならば竜だけなんです」


 割れた煉瓦を敢えて踏みながら、メリュは脈絡もなく語りだす。


「出逢ったときになぜ竜を殺せるのかと尋ねましたね。わたしなりに考えてみたんですが、かかわっているとすれば、わたしの育ちではないかと」


「産まれじゃなくて、育ちか」


 彼女は頷いた。


「わたしは、竜に育てられました」


 よほどに驚いたのか、ラグスが立ちどまった。メリュは雫を振りまき、彼を振りかえる。


「わたしは赤ん坊のときに、ほんとうの親に棄てられていたそうです。森のなかに残されて、静かに息絶えるはずだったわたしを助けてくれたのが、その森に棲まう竜でした」


 純白の鱗に覆われた竜の姿が、記憶のなかに甦る。

 慈愛に満ちた竜だった。


「かの竜は《恵みたる星の竜》と称えられていました。竜の棲む森は日が暮れても真昼のようにあかるく光に満ちていました。森の側には集落があり、そこに暮らすひとびとは竜を慕い、竜もまたひとびとを愛していました。ひとの踏みいらぬ大陸の北端にあったこの地域は、戦火も遠く、大陸が《竜の冬》に覆いつくされてもなお、森から恵みが絶えることはなかったのです。けれど、どれほどの果実が実り、獣が穏やかであっても、乳がなければ赤ん坊は飢えてしまいます。そのとき、集落には乳をだせる母親はいませんでした。竜はみずから鱗を剥ぎ、傷をつけて、あふれた血潮を乳のかわりにあたえたそうです」


 母親の乳は身のうちを巡る血液からできている。故に乳のかわりに血潮をあたえる、というのは理にはかなっていた。しかしながら、かの者は竜だ。


「竜の血潮は猛毒だよ」


「そうですね。ですがわたしは、毒ごとその命の雫を、この身に受けいれました。毒であるということを凌ぐ竜の愛が、わたしの命を繋いだのです。わたしのからだを巡っている血潮は赤いですが、どこかにまだ、母さまの。竜の血潮が残っているのではないかと思います」


 メリュはみずからの心臓を指す。

 脈動を続ける果実をてのひらに乗せるように。


 彼女は竜に慈しまれ、竜を愛してきたのだ。


「戦争があったといっていたね……故郷は焼けたと。親がわりの竜はいま、どうなった」


 沈黙が落ちた。

 前触れもなく風が吹きはじめる。青い星漢(ぎんが)(すばる)になり、雲から滴るだけだった雨の筋が逆巻いて娘の頬をたたいた。旋風(つむじかぜ)に絡めとられた濡れ髪が鞭のように背を打ちすえる。

 それでもなお、彼女は微笑みを絶やさない。嵐のなかでも穏やかに。


「殺しました」


 メリュは言いきった。


お読みいただき、御礼申しあげます。

続きは6日(日)20時に投稿致します。

引き続き、楽しんでいただけることを祈っています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ラグズの分かりづらい心情を見透かすメリュがまた、やり取りが良いですね。いつもながら、情景が美しく絵画のようです。主人公のまるで心が死んでしまったかのような表情もいつも一貫していて素晴らしい…
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