3-10 殺されるべきものなど《いない》としても
「おまえさ、動じないにも程があるよね」
「あなただと、わかっていたので」
部屋に戻りかけたところで、メリュは後ろから腕をつかまれ、まむかいの客室にひきずりこまれた。物陰から跳びかかる狼かと驚きはしたが、相手がわかっていたのもあって、表情を変えずにおかえりなさいといってみたら、ため息をつかれた。
「酔っては、いませんよね」
「どうだろうね」
彼は肩を持ちあげる。
服には酒のにおいがしみついているものの、頬は紅潮していなかった。そもそも彼はつきあい程度には飲んでも、酔いつぶれるほどには飲まないだろう。単に機嫌が悪いだけだ。
「段取りはできたよ」
毒は渡せた、ということだ。これで明晩は計画どおりに進められるはずだ。
「ありがとうございます。その、ちからをお借りしてしまって」
「いまさらだね」
彼は荷を解き、椅子に腰かけた。
鴉のような髪が濡れている。髪を掻きあげ、ラグスはわざとらしくため息をついた。
「ひとは愚かだね。罪のない娘を犠牲にすることよりも葡萄の豊穣を択ぶんだからさ」
「ですが、その選択に到るまでには、そうとうな苦難があったはずです。葡萄の収穫は町の存続、強いては町の者全員の暮らしにかかわります。彼らは望んで、親しいものを捧げているわけではありません」
このようにちいさな町では、町の住人同士の繋がりも強い。
祭りの準備をしていた男の沈痛な表情を思いだす。あのとき、彼が気の毒だといったのは宿屋の娘のことだったのだ。
「はっ、ほんとうにそうかな」
ラグスは唇をゆがめて嘲笑った。
メリュは僅かにたじろぐ。彼は時々なにもかもを侮蔑するような薄ら笑いを浮かべるが、これほどあからさまに嘲笑するのはよほどのことだ。この町を訪れてから彼の機嫌が悪くなっていることはメリュも感じ取っていたが、いまその矛さきは他でもないメリュにむいていた。
町のために竜を殺すと言いきった娘に。
「択ばざるをえないことほど択びやすいものはないよ。信仰というものが根にあれば、なおのことだ。竜を崇めるのも竜を恨むのもおなじことだよ。なにかのためといえば、易い」
真紅がくすぶる。瞳孔の底から闇が湧きだして、煙のようにたなびいた。
「あれだけ高額な酒を都に卸しているんだ。膨大な収入があるはずだ。その収入は、どこにいっているんだろうね。おまえはこの町の様子をみて、どう感じた?」
「鄙びていて、割と貧しい町だと」
町の外観もそうだが、暮らしぶりが質素そのものだ。服は破れては布地をはって縫い、ふるびた家具を修理してはつかって、まさに清貧だ。宿屋だけではなく長老の邸も大差はなかった。ふるい窓に錆びた扉、織物が張られているだけで飾りのない壁。鉱脈の町とはまるで逆だ。
つまりは、長老が私腹を肥やしているわけでもない。
「ですが、翌朝の小麦にこまるような窮したふんいきはなくて、余裕のある……いえ、違いますね。細やかでも、安定した暮らしを維持するために、わざと清貧に務めているような」
富に溺れ、欲にかられているのならば、まだわかりやすいのだ。竜の恩恵を貪欲に欲して、捧げものを欲するのもありえない話ではない。
だがこの町は、そうではなかった。
「ここは宿屋だけれどね。旅人が立ち寄ることがすくない町だと、客を泊めるだけじゃ経営が成りたたない。だから食堂、もしくは酒場をかねているか、町の貸倉庫を兼業しているかだ。この宿屋は食堂でも酒場でもない。ということは倉庫だ」
「なにがいいたいのですか」
「察しが悪いね」
馬鹿にしたようにいわれてもメリュはまったく気を損ねない。
「ごめんなさい。わからないので、教えていただけますか」
「はあ、地下の貯蔵庫はどうだった」
「樽が、ところ狭しとならんでいましたね」
「貸倉庫にあれだけの数の樽があるということは、町の正規の貯蔵庫にはあの数倍、いや数十倍の葡萄酒が貯蔵されているということだ。あれだけ備蓄されていれば、数年不作でもなんとかなる。まして町の貯蓄もあるだろう。それなのに春にはもう秋の収穫を案じて捧げものをしたといっていた、わかるかい」
彼は美しく整った貌を、侮蔑にゆがめた。
「この町は安寧に固執しているんだよ。だが約束された安寧なんてものは、ない。戦争がおこれば、飢饉に見舞われれば。平穏なんか、かんたんに瓦解する。だから蓄えても蓄えても、満たされない」
永遠のいのちをもとめるのと大差ないね、と彼はいった。
「蓄えを切り崩すなんてもってのほかだ。だから僅かでも実りが減るのがこわいんだ。娘を捧げることいじょうにね」
「それは……そう、ですね」
細い息をつき、されどもメリュには、そんなことはないとは言えなかった。
彼女もまた、ひとの欲望を知りすぎている。竜を捜すとは嘆きをたどることであり、嘆きのもとにはかならず、誰かの欲望があった。ずっとその繰りかえしだ。
「だとしても、嘆きは等しいものですから」
綺麗事だと馬鹿にされるに違いないとおもったが、いつまで経っても乾いた嘲笑はあがらなかった。不審におもって視線をあげれば、ラグスは頬を張られたように双眸を見張っていた。鏡のようになった双眸の表に娘の姿だけが映る。
「それは、竜の考えかただよ」
ラグスがおもわずというようにつぶやいた。
「ひとには重すぎるものだ、おまえはそれを」
そこまでいいかけてから、彼は我にかえったように視線を逸らした。
「……ほんとにおまえは、いまいましいね」
動揺を韜晦するように毒づいて、ラグスはそれきり喋らなくなった。
メリュはラグスの部屋を後にする。廊下の窓は割れているが、修繕ができないのか、雑に板がうちつけられていた。清貧と安寧か。塞がれた窓を眺めながら、メリュは考える。
かつてひとは、竜とともにあった。
竜が穏やかであれば、恩恵は絶えることなく湧き続け、ひとは幸福だった。
あれこそが、安寧だった。
それを壊してしまったのは他でもなく、ひとだ。竜を壊したのも竜を棄てたのも、竜を遠ざけたのもひとだった。けれどもそれは遠い昔の話だ。
竜を裏切ったのはイラカでもなければ、ミナでもない。
奪われていい幸福なんか、どこにもなかった。
ほんとうは。殺されるべきものなど、いないのだ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
続きは5日(土)20時に投稿致します。
竜の禍にさらされる町はどうなるのか、生贄に選ばれた少女は助かるのか。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。