3-9 《絶望》の雨は降り続ける
雨の喧噪ばかりがうすら寒い客室を満たしていた。
食事が終わってから、ラグスは薬の行商をするために酒場に繰りだしていった。メリュもついていくといったのだが、商売の邪魔になると断られた。就寝するにはまだ夜が浅く、客室で槍を磨いていたものの、段々と手持ちぶさたになってきた。
メリュは階段をおりて、食堂をのぞいてみる。
食堂の椅子にはイラカがぼんやりとすわっていた。厚いてのひらを握ってはほどき、ぼうと眺めている。声を掛けると振りかえり「ああ、あんたか」とだけいった。
重い沈黙を経て、彼は雨垂れのように言葉を落とす。
「あいつだけなんだよ、俺には」
父親が六年前にいなくなってからは兄妹ふたり、身を寄せあうようにして暮らしてきたんだと彼はいった。それがかわきりだったのか、ひと雫からはじまった雨が群れだすように、イラカは身の上話をはじめる。
「おふくろは昔から、からだが弱くてな。ミナを産んですぐに亡くなった。親父はそれきり、酒に溺れるようになっちまったんだ。毎晩酔いつぶれては暴れて、まだ赤ん坊だった妹におまえがいなければなんて怒鳴ってた。あいつの脚が悪いってわかってからは、葡萄も踏めない出来損ないのくせに、ってな。毎晩毎晩……」
なるほど、とメリュは納得する。だから彼女はあれほど葡萄を踏むことにこだわっていたのか。親につけられた傷が劣等感というかたちになって、あのいたいけな娘に残っているのだ。
彼は堰をきったように喋りつづけた。
父親におびえながら暮らしていた。妹だけは護ってやりたかったのに、ちからがなくて、護れなかったのだと。誰かと喋っていなければ、不安に溺れてしまいそうなのだろう。メリュは彼の心境を察して、頷くだけの相槌を続けた。
「親父はけっきょく、しこたま飲んだ帰りに橋から落ちて死んじまった。町の男連中と喧嘩したり金の無心をしたり……散々まわりに迷惑をかけて。あいつのことも、あんなふうに傷つけて。嫌いだった。殺してやりたいくらいに憎んでた、けど」
彼は太い眉を情けなく垂らして、言葉を濁らせた。
「親父が最後の晩に、飲みに出掛けていったときの背中が、すごく縮こまっててさ。葡萄酒の樽でも乗せてるみたいに傾いでたのが……なんていうか。頭に焼きついて、離れないんだよ。冬だった。流れのない、深いところにはまって、そのまま……おふくろのところにいっちまった。親父はおふくろを愛してた。おふくろだけを愛してたんだよ。こどものことなんかは、どうでもよかったんだ。親父はほんとによわくて、ばかなおとこだった」
段々と声は細り、最後はため息のようだった。
死んで清々したとは、最後まで言わなかった。
母親を愛していたがゆえに壊れてしまったことも、彼は知っているのだ。
「ミナが思いつめてるのはなんとなく、気がついてはいたんだ。普段は笑顔を絶やさずにあかるく振る舞ってくれているけど、時々異常にじぶんを責める、っていうか。みんなに迷惑ばっかりかけて、とか、役にたたないから、とか、そういうことをいうんだよ。けど、捧げものになることを喜ぶほどに、思いつめているとは思わなかった」
イラカは頭をかかえてかきむしる。
みていられず、メリュは窓に視線を移す。
幾筋もの雫が窓硝子を縦につたい、ともすれば水の檻のなかにいるみたいだ。誰も彼もが絶望に捕らわれている。抜けだそうともがきながら、その術もなく溺れそうになっているのだ。
「昔のことだ。あいつを怒鳴り続ける親父にたえきれなくなって、親父を殴ったことがある。大喧嘩になって、地下室に閉じこめられちまったんだけど」
にがく笑ってから、彼はくしゃりと鼻の頭に皺を寄せた。
「翌朝になって、迎えにきてくれたミナが、泣きわめいたんだ。助けてもらっても、ぜんぜん嬉しくなかった――って。鼻をまっかにして、腫れた目蓋をこすりながら。そのときのことをさ……なんか、思いだしちまって」
決心が崩れそうなのだと、彼は項垂れた。
メリュは黙って彼の話を聴き続けていたが、ためらいがちに言葉を挿んだ。
「わたしにはよるべがありません。物心ついたときには親はおらず、育ての親は五年前に。なので、おふたりのきもちが理解できるといえば、うそになります。ですが」
メリュは真剣に言葉を択びながら、はっきりといった。
「ほんとうにそれだけが、彼女のこころだとおもいますか」
助けてほしくなかった。
言葉だけを受け取るならば、それは拒絶だ。だが拒絶だけだったのか。彼女がなぜ、そういいながら泣きわめいたのか。彼に傷ついてほしくなかったからではないのか。
祭りに択ばれたのだと、はしゃいでいた娘のことを想いかえす。彼女は嬉しいと繰りかえしながら、膝に乗せたてのひらを食卓の影に隠していた。あのとき、彼女の指は硬く強張り、恐怖に震えていたのではないだろうか。
「あなたが、刺し違えてでも竜を殺すだなんていったから。彼女は、あなたのことを案じているのだとおもいます。あなたが傷つき、命を落とすのではないかと」
彼がなにかを言いかけるのをさえぎって、メリュは微笑みかける。
「愛するものを喪いたくないのは誰もがおなじではないでしょうか」
イラカは目を見張った。
それはありふれた言葉だ。されど、暖かな食卓と脚を伸ばせる寝台と雨風凌げる家こそが豊かさの象徴だと、彼の妹が説いたように。いつだって、ありふれたものが重いのだ。
「そうだよな、そう、だった」
確かめるようにイラカは幾度も頷いた。
彼が妹を想うように、妹もまた最愛の兄を想っているはずなのだ。
「ありがと、な。なんていうか、意外だった」
「意外、ですか」
「あんたがそんなことをいってくれるなんてさ。あんたはずっと、なにを考えているのか、わからなかったから。たんたんとしてるっていうか。けど、そうだよな」
彼は安堵したように笑いかけてきた。
「助けてくれるんだよな、俺たちを」
頷いてくれるのだと疑わない屈託のなさに、メリュは一瞬だけ、頬を凍らせた。
助けられるものならばよかったのだ。槍を振るい、なにかを護れるのならば。だが命を賭けて戦い、なにを殺そうとも、なにひとつ、助けられもしなければ護ることもできないのだと、彼女は悲しいほどにわかっていた。
故に彼女は、助けますとはいわなかった。
「祭りの晩に入れ替わって、わたしが妹さんのかわりに捧げものになります。ですがその後、彼女と一緒に逃げるのはあなたです。あなたがどうか、助けてあげてください」
メリュは静かに微笑み続けた。銀霜の睫毛をふせて。
「わたしは竜を殺すだけです。望まれるかぎり」
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