3-8 等しく《嘆き》ばかり
「ふたりの故郷はどこにあるの」
話を振られて、メリュはこまったように微笑んだ。
「故郷は、すでに焼けてなくなりました。戦争に巻きこまれて」
「戦争だって……?」
イラカはよほどに驚いたのか、話に割りこんできた。
「戦争なんか、とっくに終わってるだろ」
「大規模な戦争は十年程で終わりましたが、町と町の争いなどは現在でも続いています。農耕を始めて竜の冬を乗り越えても、竜なき豊穣は安定しない。気候の影響があり、せっかく育てた作物が実らないときもあります。そうなるとひとびとは飢え、生き残るために食糧を奪いあいます。略奪と征服と。恵みの残る地域は特に狙われました」
彼女は感情を乗せずに事実だけを語る。
「ですから、わたしには故郷はないんです」
「ご、ごめんなさい。その、あたし……無神経なことを訊いちゃって」
ミナが慌てて頭をさげる。メリュは朗らかに微笑んで、続けた。
「あやまらないでください。わたしは故郷はありませんが、だからといって別段、不幸なわけではないんです。旅を続けると様々な風景がみられて楽しいですし、それに」
りんと紫の瞳が透きとおる。
「わたしには、するべきことがありますから」
強い決意をにじませた響きだった。それがあるかぎり、故郷を思慕することも、振りかえることもないのだと、彼女の瞳は語っていた。
ミナは憧れるように瞳を細めて、感嘆の息をついた。
「そっか。旅人さんは、強いなあ」
言いながら、ミナもまたなにかを決めたようにひとり、頷いた。
紅茶を啜り、暗くなってしまった話題を変えようと、メリュはずっと気に掛かっていたことに触れる。ミナの脚についてだ。けがをしているのかと尋ねれば、ミナは椅子の横にたて掛けてあった杖に視線をむけ、ああ、これね、と声をあげた。
「気を遣わせてごめんなさい。あたしね、脚がうまく動かないの。赤ん坊のときから脚がぐにゃんて、まがっちゃってて。杖をつきながらだったら買い物にも出掛けられるし、階段ものぼれるから、ふつうに暮らしているぶんにはこまったことはないんだけれど……だめ、なんだ」
段々とミナの表情が、暗くなっていく。
「あたしね、葡萄が踏めないの」
取りかえしのつかない欠陥のように、彼女はいった。
「葡萄を……ですか」
それは、どう考えても、些細なことだ。
この町の常識は知らないが、いくら葡萄と醸造の町とはいえども、葡萄を踏めないものはつまはじきにされる、ということはないはずだ。
「葡萄を踏めなくても、ミナさんはこんなにじょうずに料理ができるじゃないですか」
「ありがと。でも、だめなんだ。おかあちゃんは葡萄踏みがうまかったから」
微妙に話が噛みあっていない。なぜ脈絡もなく彼女の母親のことが話題にのぼるのか。
頬を強張らせて、ミナはなにかに追いたてられているように、だめなのと繰りかえす。見ていられないとばかりにイラカが割ってはいった。
「葡萄踏みなんかできなくても、ミナはじゅうぶん、よくやってくれてるさ」
「そう、かな。春だって風邪、ひいちゃったし。あ、でも。そうだ。あのね、旅人さん――」
ミナが嬉しそうに、そばかすの散った頬を持ちあげる。
「あたし、祭りに択ばれたの!」
雨が――急激に雨が、激しくなった。
気のせいだ。雨は朝から晩まで、僅かも調子を変えずに降り続けているのだから。けれども雨の騒めきが屋根を突き破り、滝のように頭上にぶちまけられたような、そんな衝撃があった。暖炉が燃えているというのに、震えるほどに寒くなる。
捧げものの娘だけが、むごたらしいほどにはしゃぎ続けていた。
「いまはずっと雨が降り続けて、町も暗くなっちゃってるけど。祭りがちゃんと終わったら綺麗に晴れて、竜葡萄が実れば、町も昔みたいに賑やかになるとおもうんだ。あたしがその役にたてるんだったら、すごく嬉しい。嬉しいんだよ」
「なん、で」
イラカが喉を震わせる。
「なんで、わらってんだよ……嬉しいはずが」
「嬉しいよ。あたしはこの町も、町のみんなのことも好きだから。それに、あたしはずっと、町のひとに助けてもらってばかりで、いつも迷惑かけちゃってたから。おにいにも、そうだけど。恩がえしができるんだったら、こんなに嬉しいことはない、よ?」
雨の喧噪が穏やかな食卓を押し流さんばかりにごうごうと渦を巻いた。いや、あれはすでに雨ではない。波だ。飢えにかられて、湖から娘を迎えにきたのだ――。
「いいかげんにしろよ、俺はッ」
イラカが机をたたいて、勢いよく椅子から立ちあがった。
椅子が倒れて、波の音がひるんだように遠ざかる。
「俺は迷惑なんか、かけられたことはない……ッなんで、そんなことをいうんだよ……ッ俺は」
おまえを助けたいのに。
言葉にならず、勢いがしぼんだ。
「けど、あたしを産まなかったら、おかあちゃんも……おとうちゃんだって」
「おふくろのことはおまえのせいじゃない! もともと、からだがよわかったから……親父だってあれは、ただの事故だ!」
イラカは泣きそうになりながら妹を掻きいだく。葡萄の幹よりも遥かに太い腕が、わなわなと震えていた。
すでにメリュたちは蚊帳のそとだ。
しばらくは兄妹の様子を眺めていたが、やがてメリュはからになった木製の杯に視線を移す。
メリュにはメリュの経緯と決意があるように。彼らには彼らのたどってきた道のりがある。
幸も不幸もあれど、それらは決して竜によるものばかりではない。竜がおらずとも、ひとは幸せにもなり、不幸にもなるのだ。
それでもいま、幾多の不幸を乗り越え、せめても兄妹で身を寄せあって穏やかに暮らしたいという細やかな望みを奪おうとしているのは竜だった。
竜を恨んでも、当然だ。刺し違えてでも竜を殺すとまでいったイラカの心境を想像すると、メリュは胸が締めつけられた。
積みあがるのはただ、等しく、嘆きばかりだ。
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続きは3日(木)20時に投稿致します。
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