3-6 竜は《生贄》を欲したのか
湖は霧に覆われていた。
降り続ける細雨と巻きあがる靄とが、湖のおもてで絶えずまざりあい、蛇のようにうねりながら縺れあっている。尾を喰らいあうような荒々しさをみせつつも、霧のなかに横たわる湖が音を吸っているのか、あたりは異様なほどに静まりかえっていた。
「ずいぶんと、よどんでいますね」
湖にせりだす崖にたたずんで、メリュは雲海のような湖を臨む。
「雨が続いているからな」
イラカは崖の際にはなるべく近寄らずに、遠くから湖を睨みつづけている。
メリュはすんと鼻を動かす。あたりにはつんとした潮のにおいが漂っている。そのせいもあって、竜の馨りは嗅ぎ取りにくい。
「潮の湖ですか。まるで、涙みたいですね」
竜が流した涙なのか。捧げられた娘の涙なのかはわからないけれど。
「ああ、だから湖があっても、旱魃はおそろしいんだよ。それに、こんな湖から水を汲んで飲むなんて俺は想像したくもない」
日に焼けた頬が青ざめていた。
彼からすれば、この湖は娘たちを捕食する竜の口腔にして胃袋だ。幾多の娘を貪欲に喰らい、荒波をもってかみ砕いて一縷の光も差さない湖底に沈めていった。
おそろしくないはずがない。
まして、明晩には彼の妹が、この湖に捧げられるのだ。
「天候のせいではなく、竜が衰えているせいで気の循環が滞っているんです。竜の棲み処はもっと清浄であるはずなのですが。この湖はまるで竜のこころを映しているみたいにすさんで、よどんでしまっています」
メリュが外套のすそから雫を滴らせながら、イラカを振りかえる。
「湖につくまでの道なりに葡萄畑がありましたね。あれは栽培なさっているのですか」
葡萄畑は坂にそって、湖の南側から町にかけて連なっていた。
遠くからみるかぎりでは葉が朽ちかけて秋の収穫など望めそうにもなかったが、近寄って観察してみれば、斑になった葉の影には小振りな青い実がついていた。
「いや、棚は組んだが他はそのままだ。竜が実らせてくれるから、ひとが作業することはなにもないんだって昔からいわれてる。せいぜい収穫くらいだな」
「でしたら、竜がすでに壊れているならば、恵みはいっさい絶えているはず。葡萄が実るということはつまり、竜がこころを維持しようと懸命にあらがい続けている証だと……」
「っ……けど、そんなこと、どうだっていいだろ」
気に障ったのか、イラカが不満げに吐き棄てた。
「竜が壊れていようが、壊れていまいが、俺らには関係ない。捧げものを欲しがる竜なんか、どっちにしても碌なもんじゃねえよ!」
ひどい剣幕だ。だが彼の憤りはもっともだった。
「そう……ですね。ただ、町が竜の恩恵を享受してきたことは事実のはずです。それに竜が壊れるにはかならず、わけがあります」
イラカはメリュの真意がはかれないとばかりに眉根を寄せている。
「いま、大陸のあちらこちらで竜が衰弱し、壊れ、暴れています」
「この町だけじゃないのか」
「竜を衰えさせるのは嘆きという毒です。竜が嘆くと気候はみだれ、実りが枯渇します。そうして募る嘆きにたえきれなくなると、竜は壊れる。大陸の竜がこんなふうに衰えだしたのは戦争からです。この町の捧げものも戦時か、それにともなう《竜の冬》の頃からはじまったはず」
「そんな昔、俺の親もまだ産まれてなかったからな。年寄りも戦争のことはあんまり喋りたがらないし……詳しくないが、確かに時期は重なるはずだ」
戦地にはならずとも、徴兵なり経済なり、影響はあったはずだと彼はいった。
「なにが竜を嘆かせたのか。憶測でも構いません、なにか思いあたることはありませんか」
イラカはわずらわしげに濡れた髪を掻きまわす。
「知らない。考えたこともないな。竜のせいでたくさんの罪もない娘が殺された。それだけでじゅうぶんだ。竜の都合なんか考えたくもない」
「そう、ですか」
強い風が吹き、霧が薄らいだ。
メリュはいったん言葉をおいて、湖に視線をむけた。
霧のはざまから、湖が姿を現す。
青だ。藍染の絹を拡げたような、僅かに緑がかった青だった。
長きに渡って雨が降り続き、いまも絶えず荒波にかきまぜられているというのに、あふれんばかりに満ちた水は澄みきっていた。透きとおりすぎていて、浅いのか、それとも底がないのかも想像がつかない。
間違いなく、ここは竜の聖域だ。
湖のなかには森があった。葉のない、純白の幹がたちならぶ、裸の森だ。
石膏で模られたような樹木の幹が湖の底に黙ってたたずんでいる。晴れていたらその隅々までが見渡せ、震えるほどに美しく、それいじょうにおそろしいに違いなかった。
青のうねりは確かに、大蛇の如き水竜が裂けた口を開いて獲物をまち構えているようにもみえる。彼の心境を察すれば、竜を嫌い、憎むのはしかたのないことだろう。それでもなお、メリュは喰いさがり、尋ねた。確かめなければならなかったからだ。
「捧げものを欲したのは、ほんとうに竜ですか」
この問い掛けにはイラカもさすがに驚いたようだ。
「どういうことだよ」
「竜の言語を理解し、その意を民に報せるのは、かつては竜護の一族の役割でした。ですが、竜護の一族はとうに滅びました。あるものは恵みをもたらさなくなった竜をかばって処刑され、あるものは竜による虐殺の責任を取りみずから死を択び、またあるものは役割を放棄し竜語をふくめたあらゆる知識の継承をやめた」
いまや、大陸には竜と喋れるものはいない、はずだ。
「誰が、捧げものを欲する竜の意を、報せているのですか」
「長老だ、けど長老が竜を騙って捧げものをさせるはずがない。長老にどんな利があるってんだよ。長老もその昔、ひとり娘を竜に捧げたそうだ。町のために。長老だって竜の犠牲者だ」
彼は言いきった。この町では、誰もが等しく、竜の犠牲になり続けている。竜を崇拝する老人たちとは相いれないが、かといって彼らを責めるつもりはないと。信頼とはまた違った、おなじ悲劇の連鎖に捕らわれた者たちの、同情めいた繋がりがあるのだ。
「竜さえいなければ」
彼は喉をひきしぼるように呻いた。
「竜がいなければ、こんなことにはならなかったんだ……!」
雨垂れに頬を打ち据えられたように、メリュは睫毛をふせて視線を落とす。
ひき結ばれた唇の端が震えた。だが彼女はこみあげたものを飲みくだすように顎をひいて、呼吸を整える。瞬きを経て、彼女は平静なまなざしを取りもどしていた。
「湖からは確かに竜のにおいがしますが、遠い。よほどに深くまで潜ってしまっているのでしょうか。こまりました。竜を殺すにしても、竜と接触できなければどうにもなりません」
「春に捧げものをしたときに、湖のおもてに凄まじいでかい影が横ぎるのをみたことはある。あの時は、俺が舟を渡したからな。竜の影は湖のほとりには近寄らず、湖の中程に浮かべていた舟の真下をこう、ぐるぐると、まわってた」
話しているうちに恐怖が甦ったのか、彼はぶるりと肩を震わせた。
「なるほど、湖を渡れる舟があるのですか」
「捧げものを乗せるための舟がある。確か、予備もあったはずだ。もっとも、捧げものを投げこまなくちゃ、竜は近寄ってこないだろうが」
竜と接触するには竜が浅いところまでやってくる祭りの晩に、湖の中程まで舟に乗って移動しなければならないのか。それはつまり、誰かがかならず、犠牲にならなければならないということだ。イラカもその考えにいきついたのか、さあと青ざめて頭を振る。
「だめだ! あいつを犠牲にはできない」
「わかっています。ならば、わたしが捧げものになりましょう」
メリュはこともなげにいった。
「え、なっ、なんだって……あんたが……?」
信じられないとばかりに、イラカが声をあげてのけぞる。その背後ではラグスもめずらしく双眸を見張り、驚きをあらわにしていた。
驚愕するふたりをよそに、メリュはたんたんと続ける。
「捧げものは棺に納めるのですよね。入れ替わっても気づかれることはないはずです」
「む、無理だ。蓋棺も儀式の一環だから、そのときに入れ替わるなんて」
「ではその後ならば、どうですか。ちょうど霧も濃い。湖に漕ぎだしてから、岩礁の裏を通ったときにでも、入れ替わればよいのではないでしょうか」
「それもできない。明晩の祭りでは、捧げものが俺の妹だってこともあって、俺は舟を渡す役割からおろされているんだ。他の奴が舟に乗って監視してる。むちゃだ」
なにか他に術はないかとメリュが考えあぐねると、ラグスが横から口を挿んできた。
「ひとつ、案があるよ」
「ほんとうですか。教えてください」
「湖はいま、ただでさえ波がある。竜があがってきたら、舟はそうとうに揺さぶられるはずだ。舟を転覆させないように漕げるものはかぎられているんじゃないのか。今期の舟頭が辞退したら、またおまえにその役割がまわってくる……違うかな」
「それは……確かに、そうかもしれないが」
「なら、話は早いね」
ラグスは美貌をゆがませ、悪辣に笑った。
「そいつを教えてくれれば、僕が毒でも盛ってやるよ」
「なっ、そんな」
他人とはいえども、おなじ町に暮らす知りあいだ。毒なんてとんでもないとイラカが顔を強張らせる。だがラグスは彼の良識を鼻さきで笑いとばす。
「殺すわけじゃない。清濁を併せのむくらいの気概をみせなよ。その程度の度胸もなしに、竜を殺すだの、妹を助けるだの喚いていたわけじゃないだろ」
凶暴に真紅の眸がひらめいた。
「彼女は、命を張るんだよ。他人の妹のために犠牲になろうとしているんだ。ああ、なんて美しい慈愛の精神だろうね。それにくらべて、おまえはまだ腹を決めかねているわけ?」
嘲るような語調と眸に煽られるように、イラカはわかったよ、と承服する。
話がまとまったのを確かめ、メリュは湖に寄り添うように崖の際まで踏みだす。
懸崖にあたっては砕ける波の群れはなにも語らず、ただ低く騒めいている。
霧に覆われたこの湖のどこかに、竜がいる。なにを想い、なにを欲して、棺ばかりが転がる寒い湖底に横たわっているのか。
湖を満たす嘆きに思いを馳せて、彼女は雨の雫に濡れた睫毛を震わせた。
お読みいただき、こころより御礼申しあげます。
続きは3月1日(火)20時に投稿致します。引き続き、楽しんでいただければ幸いです。