3-5 《竜殺しの娘》は死にたがり
宿屋では客室をふたつ、用意された。普段ならば窓から町と葡萄畑がそれぞれ眺望できるのだろうが、いまは霧に遮られて、ぼんやりと家々の青い屋根が見おろせるだけだ。
馬車はあらかじめ長老の屋敷にある厩に預けてある。
部屋に案内してもらってから、メリュはイラカに尋ねた。
「竜はどこに棲んでいるのですか」
竜にはかならず棲み処がある。かつては竜の聖域といわれたが、黒い森のように魔境のように扱われることも増えてきた。
「湖だ。葡萄畑がある坂を登ると湖があるんだ。そこに竜は棲んでる」
ずいぶんと歯ぎれが悪かった。
「まともに竜なんか、みたことはないけれどな」
「湖をあがってきたことはないのですか」
それほどまでに竜が棲み処に姿を現さないというのは考えにくい。輝く鉱脈の竜のように棲み処を替えたか。あるいはひとに接することのない湖底に潜り、眠り続けているかだ。
「湖に連れていっていただきたいのですが、お願いできますか」
「すぐそこだ。案内するまでもない。町の北西だ。坂を登っていきゃ湖につく。悪いが、俺は……湖には近寄りたくもない」
よほどに湖をおそれているのか、イラカは青ざめていた。
「いえ、場所を教えてもらいたいだけではないのです。いくつか、竜について確かめておきたいことがあって……できれば、ついてきてくだされば、助かるのですが」
不意に一階から声が掛けられた。
「おにい、薪がたりなくなっちゃった」
妹の暢気な呼び掛けを聞き、彼はぎりっと口の端を横一線にひき結んだ。「考えさせてくれ」とだけいってから、彼は「すぐにいく」とわざと張りきった声をあげ、階段をおりていった。
ラグスが荷をほどきはじめる。どうせ明朝には町を発つのだ。特に貴重ではないものは荷のままにして、ひとつの部屋にまとめておいておくつもりだった。
ラグスは商売につかう薬をあれこれと取りだして、机にならべていく。飲み薬に軟膏、練ってまるめられた薬。他にも薬の素材とおぼしきものがいくつか。植物を乾燥させたものやなにかの髭、蝶の死骸などがあり、メリュにはそれが旧い知識による調薬であることがわかった。
壁に槍をたて掛け、彼女は寝台に腰掛けた。濡れた靴を脱ぎ、乾いたものに履き替える。膝まで覆い、保護してくれる革の靴だ。
薬草をつめた革袋を弄びながら、ラグスが嘲るようにいった。
「人助けか。竜におびやかされているひとびとを護るために槍を振るう――まるで英雄だね」
「そんなつもりはありません。ただ、積みあがる嘆きをひとつでも減らせるのならば、ちからになりたいと想うだけです。ただでさえ、せかいには嘆きがあふれているのですから」
「ふうん、たいした博愛の精神だね」
靴を履き替えるのにうつむいていた娘の視界に、影が覆いかぶさる。
メリュが視線をあげた。いつのまにか側に近寄っていたラグスは隣に腰をおろすわけでもなく、真上から彼女を睨みつけるようにしている。
「ねえ、おまえは、誰のために竜を殺すんだ。ひとのためか、それとも」
「……逆に尋ねたいのですが」
メリュははなびらが散るように果敢なく微笑み、いった。
「竜を殺すことが、誰かのためになりますか」
は、と乾いた息を洩らして、ラグスがぞっとするほど綺麗に唇の端をひきあげる。
睫毛が絡むくらいに赤い双眸がせまり、メリュはラグスに組み敷かれた。とさりと綿の海に倒れこみ、柔い衝撃に息をつめる。だが抵抗はせず、ぼうとみずからに跨る影を仰いだ。
娘を睨みおろす睛は、黒き焔を躍らせていた。
出逢ったときは夕焼けを結晶にしたような瞳だと想ったが、いまはまるで違ってみえる。琥珀でもない。もっとおそろしく、凄惨なものだ。冥界の焔のようだと想う。ごうごうと燃えながらもまわりを焼きつくすことなく、魂だけを凍てつかせる深遠の焔。
メリュは暗然と燃える双眸を見据えながらいった。
「あなたは時々、殺したいほどにわたしを憎んでいるようなまなざしをしますね」
「ふうん、気がついていたのか」
端正な美貌がゆがみ、真紅が濃くなる。
微かに彼から竜の馨りが漂った。白檀とも似た神聖な薫香だ。なぜ彼から竜の馨りが、と思いつつも、メリュはこたえる。
「逢ったときから……でしたから」
「だったら、なんで、僕を遠ざけなかった」
責めるように問いつめられる。
激しく恨まれ、憎まれていると知りながら、なぜ、遠ざけなかったのかと。
断られてもついていくと彼はいったが、確かに逃げだすこともできたはずだ。けれども彼女は、そんなことは考えもせずに黙って彼を受けいれた。彼の憎悪までも。
どうしてかと尋ねられれば、むしろ――。
「なぜ、あなたを遠ざけなければならないのですか」
竜を殺す娘に殺意をむけてくれるあなただから、遠ざけなかったというのに。
だがそれを言葉にするまでもなく。
「――……ッ」
肌の表を風が吹き抜け、銀がひらめいた。鞘鳴りが張りつめた部屋の空気を震わせたときには、娘の喉もとに短剣があてられていた。
「僕がおまえを殺せないとでも?」
喉にひりつくような熱が、あった。肌が裂けたのだ。
細身とはいえども、体格差のある男に組みふせられて、短剣をつきつけられている。頭のなかでは本能が警鐘を響かせていた。それでもなお、メリュは微笑を崩さない。
漠然と。星でも眺めるように、敵意に満ちた美しい貌を仰ぎみる。
垂れた黒い髪のあいまでは耳飾りが揺れていた。涙のような、銀のきらめきだった。
「……ッ抵抗しなよ」
暴れようともしない娘に業を煮やしたのか、ラグスのつまさきが壁に立て掛けてあった槍を蹴った。槍が寝台の端に倒れかかる。
「槍を取れ」
たわむれではないことは、メリュにもわかる。
彼ならば、殺すだろう。殺せるし、殺す。然るべき憎悪と殺意が、彼にはあった。
だからこそ彼女は、静かに言いきった。
「あなたがほんとうに竜殺しの娘を憎んでいるのならば、わたしは殺されても構いません」
彼は嘲笑を崩す。眉根を寄せた素の表情で問い掛けてきた。
「殺されたいの、おまえ」
「まさか」
死にたがりのように蔑まれて、メリュはふふっと微かに笑った。
「殺されたいわけではありませんよ。殺されても、構わないというだけのことです。竜を殺し続けてきた娘を、あなたが殺したいほどに恨むのならば」
離れかけた短剣の先端を摘まみ、喉に誘った。
「さあ、どうぞ」
息もつかせぬ沈黙を経て。
ラグスは娘の指を振りほどき、短剣を鞘に収めた。
「竜じゃなくて、おまえのほうが壊れてるんじゃないの? つきあってられないね」
彼は張りつめていた息を洩らす。肌に刺さるような殺気が絶え、竜の馨りも掻ききえた。鼻をすんと動かしてから、メリュは尋ねた。
「あなたも竜と、縁があるといっていましたね」
「ああ、いったね」
彼にも愛する竜がいたのだろうか。いまもまだ馨りが残るほどに。それはいったい、どういった縁だったのか。尋ねかけた声はノックと同時に扉を開く音に遮られた。
「湖に連れていってやれ、そう……な、ななっ、なんだよ」
細いからだをしどけなく投げだす娘と、彼女に跨った青年の後ろ姿をみて、イラカは茹であがったように耳まで紅潮させる。慌てて廊下にとびだして後ろ手に扉を閉めた。
「そ、そういうのは妹にはぜったいみせるなよ」
扉越しに、ともすれば彼の声のほうが一階に聴こえているのではないかという声で怒鳴る。
「とっ、とりあえず、準備ができたら、日が暮れる前にきてくれ」
その後は慌ただしく階段をおりていく音だけが響いてきた。
嵐のような様子に、メリュは仰むけに倒れたままでぽかんとして瞬きを繰りかえす。
「そういうの、とはどういうものでしょうか」
「おまえは、ほんとに馬鹿だね」
ラグスはやけに重いため息をついた。
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