0-1 そのとき、彼女は《竜殺し》となった
紫の地平線に星がひとつ、なみだのように瞬いていた。
燃えさかる夕焼けではなく、果敢なく暮れなずむ落日だ。なにもかもが終わりにむかっていくような。
黄昏に擁かれて、あらゆるものが息絶えていた。
鎧をつけた兵隊が折り重なるように倒れている。あるものは引き裂かれ、あるものは焼けていた。またあるものは傷ひとつなく、剣を握り締めたまま魂だけが抜け落ちたように鼓動をとめている。誰も彼もが確かめるまでもなく死に絶えていた。
焼け落ちて崩れた集落からはまだ、細く煙があがっている。
瓦礫にかこまれて、幼い娘がひとり、泣き続けていた。
齢十を越えたかどうかといった風貌の娘だった。雛鳥のように頼りない脚にか細い腰。柔い頬は涙に濡れ、まるみを帯びた額からは幼けなさがにじんでいる。
彼女の視線のさきには竜がいた。
純白の鱗にきらめくような翼をたずさえた竜だった。
黄昏を映す翼は、満天の星を散りばめたような輝きを帯びている。
翼膜にはたおやかに絡みあった骨格が透けていた。星を繋いだときに表れる線のような、精緻な紋様を模った竜の骨だ。細やかで美しい紋様は、生物のからだにもとから備わっているものというよりは、優れた細工師の手掛けた彫金を想わせる。竜の頭から腰までを覆うなめらかな鱗は蜥蜴とも蛇とも違い、朝露に濡れたはなびらのような清らかな艶を纏っていた。
額には透きとおった紫の角がふたつ。
地上にいることそのものが神の祝福であるかのような。
息を飲むほどに神聖な姿だった。
だがいま、そのからだにはひとの血潮がとび散っていた。竜の純真なる魂まで侵す、赤だ。
翼を拡げ、竜が吼えた。激しい風が巻きあがり、立ちつくすばかりだった娘が鞭でうたれたように肩を震わせた。いやいやと髪を振りみだして後ずさる。よろめいたかかとが地に落ちていた剣を蹴り、かつんと硬い音があがった。
「あ………」
われにかえるように娘の瞳が見張られる。
涙に濡れた瞳は竜の角と揃いの、紫水晶だった。
彼女はがたがたと震えながら剣を拾いあげた。剣は、重かった。それはなにかを殺すためのものだからだ。それでも娘は身のたけにあわないそれを振りかぶり、声にもならない声をあげながら竜にむかって、走りだす。
ひといきに竜の喉を貫いた。
双翼がびくんと強張るように震え、それきり、ちからなく弛緩する。家々を下敷きにして翼が地に項垂れた。
喉から血潮が噴きだす。竜の血潮は星を融かしたような水銀色だった。あふれる血潮が娘の髪をしとどに濡らしても、娘は瞬きひとつせずに、がく然と竜を振り仰いでいた。
竜は、最期に満ちたりたように瞳を細めて。
すうと、静かに息絶えた。
「あ、あぁ、いや、わたしは……いや、いやああっ」
ゆるゆると現実を理解して、娘は剣を抜こうとする。だがつき刺さったそれを抜くだけのちからは彼女には残されていなかった。後ろによろけ、無様にもひっくりかえる。強かに腰をうちつけた幼い娘は、にじり寄るようにみずからが殺めた竜に縋りつき、泣き崩れた。
かつて、ひとは竜とともにあった。
竜はそれぞれの土地に棲み、天候を操り、地の恵みをもたらしてきた。竜が健やかであるかぎり、森にも野にも溢れんばかりの実りがあった。ひとびとは竜を敬い、竜の恵みに感謝しながら平穏に暮らしていた。ひとの欲望が膨れあがり、戦争が、勃発するまでは。
ひとの欲望にかぎりはない。満ちることを知らず。他人のものまでも欲しがる。
小規模な争いはさらなる戦争に繋がり、竜の暮らす森や湖、草原までもが戦火に曝された。
争いは竜を蝕む。戦争が続くほどに竜は衰えていった。
竜は嘆いた。
ひとが憎しみあい殺しあうことを。墓標もなく野に幾多の屍が曝されるのを。
竜は嘆いた。
野の花が軍靴に踏みにじられる様を。流れる血潮が清らかな瀬を濁らすことを。
嘆き続けた竜のこころが壊れるまで、幾ばくもなかった。
竜は穏やかな生きものだ。されど嘆きに堪えきれなくなった竜は、暴れた。気候をみだれさせ、時には森を朽ちさせたり湖を枯渇させることもあった。ひとびとは嘆く竜を恐れ、遠ざけた。竜もまた、ひとの暮らす領域から離れていった。
斯くして、竜とひとは別たれた。
娘は声を震わせて、つぶやいた。誰にいうのでもなく。
「殺したく、なかった……のに」
それは幼いこころには、あまりにも重すぎる嘆きだった。
彼女は泣き続けた。
涙がつきるほどに。
涙の雫に黄昏が映り、ほんの刹那、砕け散った紫水晶のように輝いて、娘の瞳からこぼれ落ちた。
数ある小説のなかからお読みいただき、ありがとうございます。
これから毎日20時に続きを投稿していきます。(第一譚は投稿済みです、よろしければお進みください)
まだまだ「小説家になろう」に登録したばかりでわからないことばかりですが、
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