誰もいない
――嫌いだ。大嫌いだ。
彼氏ができたなら、できたと。はっきり言ってくれればよかったのだ。なんでも言い合える仲だと――友達だと、思っていたのに。
むしゃくしゃしていた。なにかどす黒いものが胸の中を満たしていくような、その感覚を振り払うように、強く地面を蹴り続けた。
高校から自宅までのいつもの帰り道。たった一つの横断歩道。滅多に車も通らない。危険などまずない、はずだった。
クラクション。ブレーキ音とほぼ同時に、衝撃。天地がひっくりかえるような感覚。骨の軋む音――。
◆◆◆
真っ白な病室。ベッドのすぐそばの窓からは、嘘のような青空が広がっている。近づきつつある台風の影響か、マンガやアニメにでも出てきそうな不思議な雲が、重なりあいながらそれぞれに流れていく。
はあ。
今日、何度目かのため息がこぼれる。
窓から見える景色は刻々と変わっていくのに、私はというと、ずっとスマホを手にしたまま、ベッドの上でただ起きたり横になったりを繰り返していた。
スマホの画面――SNSの、マキとの個人トーク画面。他愛もない会話やスタンプの応酬。じゃれ合いのようなくだらない会話が、今となっては切ない。会話は、マキの”さっきはごめん”という一言で途切れている。
はあ。
ため息がもれる。
「え、ごめん。山野さん、マキから聞いてないの? おれら、付き合ってんだよね。その、だから、ごめん」
佐藤くんは、心底困惑した様子だった。
私は呆然として、佐藤くんが立ち去ってからも、しばらくは身動き一つできずにいた。
マキとは小学生の頃から仲がよくて、クラスが別々になることもあったが、それでもほとんど毎日一緒に下校したりして――。
親友、といっていい間柄だと思っていた。なんでも言い合える、といったら大げさだが、少なくとも私は、マキに嘘をついたり騙したりはしたことがないはずだった。
それなのに。
「なんでよ。なんで言ってくれなかったの……」
マキは申し訳ないような、バツの悪いような顔をしながら、その目は地面ばかり見て、こっちを見ようともしない。
二人が付き合いだしたのは、ひと月前くらいだという。それならば、いくらでも言う機会はあったのではないか。
「ごめん。その、咲もあいつのこと好きだって知らなくて……。知ったの、もう付き合いはじめてからだったから……。何度も、言おうとしたんだけれど――」
――違う。そういうことを言ってるんじゃない。
正直、佐藤くんのことなんて、もうどうでもよかった。それよりも、マキに秘密にされていたことのほうが、ショックだった。
マキは美人だし、明るいし、気取らない。勉強もスポーツも私よりできる。私が、マキに敵わないのなんて当たり前すぎて、なんとも思わない。佐藤くんのことは好きだけれど、相手がマキなら、私は許せたのだ。「よかった。これからも二人のそばにいられる。お似合いだよ」と心の中で拍手の一つでも贈れたのだ。
マキが、私に、きちんと伝えてくれさえすれば。
「私は、マキの口から聞きたかったんだよ。先月から付き合ってたんでしょ。すっごい普通にしてたじゃん、なんで。ほとんど毎日一緒に帰ってさ。遊ぶのも一度も断られなかったし、さ」
嫌だ。最後のほうなんて、怒鳴るみたいになってしまった。勝手に、涙があふれてくる。
「私たち、友達じゃなかったんだ……。友達じゃないよ」
感情にまかせて、思ってもいない言葉がこぼれ出る。
俯いたままのマキの言った”ごめん”の一言が、そのときの私には、私の言った”友達じゃない”を肯定するもののように聞こえた。
「もういい!」
そのまま走って学校を出て、その少し後、私は車にはねられた。
はあ。
ため息。
「まぁたやってる」
若い女性の声にスマホから顔を上げる。
白衣に身を包んだ女性はにこやかにこちらをのぞき込んでいる。
「スマホ、病室での使用はいいけれど、あんまりずっと見てたら、目、悪くなるよ」
小さい子を脅かすような口調で言う。看護師の、確か、青井さん、だったか。
「いいんです。どうせ、もう、目ぇ悪いし」
青井さんに対抗して、口をとがらせて、拗ねたように言ってみる。
「あれ? 目悪かったの」
「そうなんです。中学生の頃からかな。どんどん悪くなっていって」
「そうなの」
青井さんの顔が曇ったのを見て、全然困らないですよ、と慌てて首を振る。
「普段はコンタクトなんで」
そういえば、メガネはどこだろう。そう思ったが、事故にあってそのまま入院しているのだから、なくて当然か、と思いなおした。いつも仕事仕事と忙しくしている母が持ってきてくれるはずもない。
ほどほどにね、と残して、青井さんが退室してからどれくらい経ったろう。他にやることがないせいもあるが、スマホと窓の外を何度も見比べているうちに、すっかり夜になっていた。
消灯時間も過ぎて真っ暗な部屋の中に、手元のスマホの光だけがぼうっと浮き上がっている。四人部屋の病室だが、他の入院患者は物音一つ立てない。
”大丈夫。全然気にしてないよ”
”はねられちゃった。いま病室”
”一言、言ってくれれば”
入力しては消し、入力しては消し。なかなか返信できない。なんと言っていいのかわからないし、そもそもまだ心の底から許せる気はしない。
今日は、もう諦めて寝てしまおう。スマホを枕元に置いて、はじめて右腕の痛みに気がついた。ずっと持ち上げて眺めていたせいか。気をつけないと。
目を閉じたまま、ちょうどいい体勢を探すように何度も寝返りを打つ。真夏なのに、まるで暑さを感じない。
なかなか寝付かれないのは、いつもと違う枕のせいか、どこからか漂う消毒液の臭いのせいか。
だめだ。眠れない――。
いま何時頃なのだろう。病室を出るときに確認しておけばよかった。
いつまで経っても眠れそうになくて、そうこうするうちに、トイレに行きたくなった。病室からまっすぐ二十メートルほどのところだが、松葉杖をついてとなると、随分遠くに感じる。
眠気はおきない。
そのまま病室に戻る気にはなれず、一階の待合いまでいくことにした。あそこなら、ソファもあるし、ついでに自動販売機もある。喉も渇いていた。
がたん、と飲み物が落ちる。その音が無人の待合いにはやけに大きく響いた。
ペットボトルの首の辺りを、人差し指と中指の間で器用に挟みながら、杖をつく。二、三度取り落としそうになりながらも、なんとかソファにたどり着いた。腰を下ろして杖を置く頃には、首筋にじっとりと汗をかいていた。
自動販売機の前で散々悩んだ挙げ句に選んだお茶は、渇いた喉には格別おいしく、入院してから初めて、ようやく一息つけたような心地だった。
夜の病院は薄暗いようでいて、自動販売機や非常灯の光が床に反射して、冷たくそこここを照らす。
病院の中にいるのは私ひとりだけなのではないか、と錯覚するほどの静けさの中、自動販売機だけがごうごうと微かな唸りを上げている。その静寂が、いまの私には、なんとも言えず心地よかった。
私にとって、本当に仲のいい友達はマキだけだった。相模さんや川原さんもマキと仲がよくて、私も含めて四人はいつもいっしょだった。
クラスの女子は自然といくつかのグループに分かれていて、今年の春に高校生になったばかりの私たちのクラスは、この三ヶ月の間、そのグループの組み合わせもころころと変わっていったが、私たちのグループだけはずっといっしょだった。
それでも、私の友達はマキだけだ。
相模さんも川原さんも私と友達というよりは、マキと友達なのだ。私とマキとが喧嘩したと知ったら、おそらく二人ともマキの味方をするだろう。
そんなことを考えていると、また胸が苦しくなってきた。
マキと仲直りしないと、グループには戻れない。
他のグループに入れてもらうにしても、ほとんど話したこともない。
はあ。
ため息がもれる。
マキと仲直りしないと。いや、そんなのは関係なくマキと元通りになりたいとは思っている。けれど、私から謝るのも許すのも、なにかこう、納得がいかないのだ。
もう、このまま一人でいようか。
教室で、どこのグループにも属さず、いつも一人で本を読んでいる。そんな自分の姿を想像してみる。
いやいやいや。
浮かびかけた考えを打ち消すように、慌てて首を振る。
もうそろそろ病室に戻ろう、と、松葉杖に手を伸ばしたとき、つん、とすえたような臭いが鼻をついた。
不思議に思って辺りを見回していると、ふいに大きな音がして、心臓が跳ね上がった。
とっさに、音の出所を振り向くと、エレベーターの扉が開ききったところだった。無人の箱は、しばらくして、再び大きな音を立てながら閉じていく。エレベーターの音がここまで大きく響くとは、さっき降りてきたときには、まったく気にも留めていなかった。
嫌な汗が首筋を伝う。
あれから、エレベーターからなぜか目が離せなくなった。
ちびちびとお茶を飲んでいるうちに、ペットボトルは空になっていた。
結局、そのエレベーターを使う気にはなれず、遠回りをして別のエレベーターに乗った。扉が開く瞬間、つい身構えてしまったが、中には当然何もいなかった。
エレベーターを降りてすぐ、廊下を歩いている人影に気づいて息を呑んだ。
自分と同じように入院着を着ている。ぼさぼさの髪には白髪が少なからず混じっていて、左足を引きずりながらゆらゆらと歩く姿はまるで幽鬼のようだ。うまく聞き取れないが、口の中でなにやら言い続けている。
一目で、関わりたくない、と思わせた。
下手に近づいて、振り返られでもすれば、挨拶の一つもせざるを得なくなる。
私はそれ以上進むのをやめ、老婆が私の病室の前を通り過ぎるのを待つことにした。幸いもうすぐ病室の入り口に差し掛かるところだ。老婆の歩様は遅々としたものだったが、少し待つくらいどうってことはない。
老婆の足が止まった、かと思うと、その場にへたりこんだ。ちょうど、私の病室の前で。
勘弁してよ。
しばらく待ってはみたが、一向に動く気配はない。他に誰か通る様子もない。
仕方がない。
私は、壁に預けていた背を浮かせると、松葉杖のグリップを強く握りなおした。
「すみません」
そこ、通してもらえませんか、と、おそるおそる声をかけてみた。
ぼそぼそと呟き続けていた声がぴたりと止まる。
ゆっくり、本当にゆっくりと、老婆の顔がこちらを振り返った。
皺だらけの顔は、いままで見てきた誰の顔よりも老いて見えた。生気というものがまるで感じられない。ほら穴のような目で呆然と見上げてくる。
信じられないものを見た。そんな表情だった。何十年ぶりに人から話しかけられた。そう言われても不思議じゃないように思えた。
「わたし……?」
そう言って、枯れ枝のような指で自分の顔を指した。
私が小さく頷くと、老婆の口の両端が大きくつり上がった。顔中の皺が、そこからひび割れていくのではないかと思うほど深くなって、双眸は爛々と輝きだした。大きく開いた口からは声とも息ともつかない甲高い音と涎がこぼれた。
私は無意識に大きく仰け反っていた。けがさえしてなければ後退っていたかもしれない。
左腕を強く掴まれていた。さっきまでの緩慢な動きからは想像もつかない速さで、老婆の枯れ枝のような手は私の手首に吸いついていた。驚きと嫌悪感から振り払いそうになるのを必死でこらえた。
「みんな、みーんな、わたしのことを無視するの」
声をかけてくれたのは、あなたが初めて、と嗄れた甲高い声で老婆は言う。私は目の前の人物が怖ろしくて微動だにできずにいたのだが、そんなことはお構いなしにまくし立ててきた。老婆の声は聞き取り難く、わからない部分は聞き流して、適当に相づちを打った。
要は、ひとりぼっちになるまでの経緯だ。老婆は天涯孤独の身らしく、友達のひとりもいない。そうなるまでの経緯を子供の頃の友達や家族への罵倒を交えながら――。
聞くに堪えない。そう思った。
話している間中、老婆は私の手首を握って放そうとしなかった。込められる力はどんどん増していき、あまりの痛みに小さく叫んでしまった。
しまった。老婆は逆上するかもしれない。その細腕からは想像もつかないほど、老婆の力は強い。何をされるかわかったものではない。
身構えている私の予想を裏切って、老婆はあっさりと私の手首を放した。
「ごめんなさい。痛かった? 本当にごめんね」
そう言って、何度も謝った。
私は、大丈夫ですからと言いながら、松葉杖を取り落としそうになるのを必死でこらえた。
老婆は私の左腕をさすりながら、何度も何度も謝り続けた。その様子もやはりなにか異様なものだったが、私は、この老婆を、それほど悪い人ではないのかもしれない、と思い始めていた。
それでも、またねと笑ったその顔には、再び背筋が凍り付いた。
私の病室は、朝になるとちょうど窓から陽の光が差すようになっているらしい。きらきらと眩しい陽の光を見つめていると、昨日の出来事は全部、悪い夢だったのではないかと思えてくる。
左腕を見つめると、内出血したようで、赤い痣のようなものがくっきりと残っていた。
一晩経った今でも、触れると鈍く痛む。
「どうしたの、それ」
青井さんは慌てて駆け寄ってくると、私の腕の赤く変色した部分にそっと触れた。私が痛みを訴えると、彼女はすぐに手を引いた。
「ごめんね。でも、本当にそれ、どうしたの」
先生に一度診てもらおうか、と言ってくれたが、丁重に断った。あまり大ごとにしてほしくはない。
説明を聞くまで退室してくれそうになかったため、昨日の出来事を話した。
老婆についても気にはなっていた。どこの誰なのか、なにかわからないかと思ってのことだったが、
「変ねぇ。そんな人、患者さんの中にはいないと思うけれど」
返ってきたのは意外な言葉だった。
昨日の今日で足の骨折が治るはずもなく、先生や看護師から退院時期についての説明もまだない。スマホを眺めていても、相変わらず返信できる気はしないので、気分転換に病棟内をぶらぶらすることにした。
昨日の老婆のことも気になっていた。青井さんは、知らない、と言っていたが、彼女が把握していないだけかもしれない。
出来れば、二度と遭遇したくないと思いながらも、その為にも、所在を知っておきたいという気持ちもあった。
余所の病室の前を通りがかっては、ちらと中を覗く。しかし、どの部屋にも、あのような怪人物はおらず、逆に私のほうが訝しげな目で見られた。
あちこちうろついている間に、気がつくと、やけに人気のないところにたどり着いていた。松葉杖をつく度に、硬質な音がやけに大きく響いて、否応なく昨日の待合いを思い起こさせた。
つん、と嫌な臭いがした。
ふと見ると、右手に扉があって、うっすらと開いている。扉の上のプレートには、霊安室、と書かれていた。
妙なところへ来てしまった。踵を返そうとして――なぜか、足が止まる。
その部屋の何がそこまで気になるのかはわからない。わからないが、無視して行くことがどうしても出来なかった。あまりにも、人の気配がないせいかもしれない。
そっと扉に近づこうとするが、杖の先がやけに響いて存在を主張するので諦めた。うすく開いた扉の隙間をゆっくりと広げていく。
部屋の中には、やはり誰もいない。亡くなった方のご家族が座るためか、イスが何脚か用意されている。部屋の奥に寝台が一つ。白布がかけられているが、その上からでも、ご遺体が横たえられているのがわかる。頭上には、電池で光るタイプの蝋燭。
この人も、ひとりぼっちか。
昨夜の老婆を思い出していた。いつの間にか、老婆の後ろ姿に、未来の自分の姿を重ねていることに気がついた。
ぶんぶん、と頭を振る。
ないない。マキとこのまま絶交しても、たとえ、ひとりぼっちになったとしても、私はあんなふうには――。
触ってもいないのに、左腕が鈍く痛んだ。
横たえられたご遺体をよく見ると、顔は白布に覆われてわからないが、その白髪交じりの長い黒髪に既視感を覚えた。
まさか、と思った。
ここの患者さんに、そんな人いない。青井さんはそう言っていたじゃないか。そんなはずない。
昨夜、私に話しかけられただけで、怖いくらいの笑顔を浮かべた――それ程の孤独の中にいた老人の、ここがその終着点だというのか。
ご遺体の側まで来ていた。松葉杖を、ご遺体に当たらないように寝台に立てかけて、失礼かもしれないが、片手を寝台についた状態で、もう一方の手で、顔にかけてある白布をめくった。
心臓が凍り付いた。昨夜見たままの顔がそこにあった。張り裂けそうな笑顔の老婆。
目が合った。
咄嗟に、後退ろうとした私の腕を、老婆の手が掴んだ。
左腕。偶然か、昨夜と同じ位置。
あまりの痛みに、反射的に振り払っていた。老婆の身体は勢いのまま転がり、寝台の向こう側に落ちた。私も尻餅をついていた。立てかけていた杖も傍らに倒れてきた。
床に転がったそれに縋るようにして立ち上がる。駆け出そうとする意識に身体が追いつかず、再度、床に倒れ込んだ。
だめだ。追いつかれる。
背後を振り返ることも、悲鳴を上げることさえできない。ただ頭を抱えて這いつくばることしかできなかった。
「なにしてるの!」
若い女性の声にはっとした。
見上げると、よく知る看護師の顔がそこにあった。
「だめじゃない。勝手にこんなとこ入ったら」
「そんな場合じゃないんです!」
たしなめるように言う青井さんの腕に縋りつきながら、後方を指さした。寝台の向こう側からこちらへと迫ってきているであろう老婆を指したはずだった。
「なに? なにかあるの」
そう言って、青井さんはなんの警戒心も見せずに部屋の奥へと進んでいく。その背中を目で追った先に、老婆の姿はすでになかった。
「なんにもないじゃない」
しばらく寝台の向こう側を覗き込んだ後、青井さんは呆れ顔で私に言った。
夜がきた。消灯時間を過ぎた病室内は暗く、月の光だけが室内のものに輪郭を与えている。
一部始終を青井さんに説明したが、信じてくれるはずもなく、勝手に霊安室に入ったことを叱られ、食事の時間を理由に病室へと連れ戻された。
実際、霊安室にはなにもなかったのだ。信じろというほうが無理がある。
――白昼夢? まさか。そんなはずない。
あんな生々しい夢、あるはずがない。左腕に走った痛みを今でも覚えている。
ひた、ひた、ひた。
足音が聞こえた気がした。いくら静かとはいえ、廊下を素足で歩く音がそれほど響くはずがない。それなのに、私の耳はその音をはっきりと捉えた。
布団を頭から被った私の手にはスマホが握られていた。無意識に手に取っていたらしい。
誰かに助けを求めるべきか。
誰に……?
マキ?
マキはだめだ。マキには頼れない。
私はまだマキのことを許していない。マキだってきっと――。
母は――。
母はきっと、電話に出ないだろう。私のことよりも、仕事を優先するに決まっている。私がまだ幼い頃から、ずっとそうだったのだ。どんなに必死に頼んだところで、来てくれるはずがない。
誰も、いない。
しばらく操作しなかった為に、スマホの画面が消えた。
頼れる人なんて、私には、誰もいないじゃないか。
「わたしと、いっしょ……」
耳元で声がした。
ひとりでに、叫び声がもれた。布団ごと押しのけようとしたが、まるで手応えがなかった。かまわずベッドから飛び起きると、松葉杖を抱えたままベッドから転がり落ちた。不思議と痛くはなかった。
慌てて掴んだものだから、一本しか持ち出せなかったが、足りない分は廊下に備え付けられた手すりを伝って必死に逃げた。
振り向くたび、老婆の怖ろしい顔が近づいてくる。私は恐怖のあまり、その顔めがけて一本きりの松葉杖も投げつけてしまった。
杖を失っても、足を止めるわけにはいかなかった。誰も助けてなどくれない。
連れて行かれる。嫌だ。連れて行かれるのだけは――。
それだけが私の頭の中を占めていた。不思議と、傷つけられるとか、殺されるかもしれない、とは思わなかった。
老婆もぼそぼそとした声で、「いっしょに……いっしょに、行こう」とばかり呟いていた。
あなたもわたしもひとりぼっちなのだから。言外にそう言われている気がした。
「一緒にするな。私は、あんたとは違う」
そうだ。私は、ひとりぼっちなんかじゃない。私は、私は――、
――誰も、いないじゃないか。
そう思った途端、足から力が抜けた。
その場にへたり込む。そもそも歩けていたことのほうが不思議だった。
ひた、ひた。老婆の足音がゆっくりゆっくりと追いついてくる。
もう逃げる気力もなかった。なにもかもどうでもいいと思えた。このまま連れて行かれても、誰も悲しまないし、寂しいと思う人もいない。
ぽん、と間の抜けた電子音が響いた。
スマホだ。自分のスマホだという確信があった。
誰かからトークが入ったことを通知する音。振り返るとすぐそこに、自分の病室があった。なにもかもどうでもいいと思っていたはずなのに、その音を無視することができなかった。
マキだ。そう思った。
這うようにベッドに戻ると、急いでスマホの画面を見る。通知画面には、”ごめん”の文字。けれど、それは、マキからではなく――母だった。
”ごめん”
”なんで、こんなことに”
”お母さんが悪かった”
”仕事ばかりで、構ってあげられなくて”
”死なないで”
”おねがいだから、死なないで”
続け様に母から送られてくる。
とっくに自分への興味などないのだと思っていた。そんな母からの言葉で通知音が鳴り止まない。
私は、気がつくと涙を流していた。
後ろから腕を掴まれる。
もう驚きもしない。怖れもない。
「いっしょに、行こう」
老婆は小さい子供のように言う。私は、私の腕を骨が軋むほどの力で掴んだ老婆の手を、そっと解く。
老婆は理解できないものを見るような目をしていた。その目をまっすぐに見つめながら、
「私は一人じゃない。あなたと一緒には行けない」
そう、はっきりと告げた。
もしかしたら、暴れ出すかもしれない、そう思って私は身構えていたが、老婆の姿は滲むように消えていった。
老婆だけではない。目に映るすべてのものが、輪郭を失っていく。病室も、ベッドも、スマホも。すべて、月の光に滲んで消えていった――。
◆◆◆
目が覚めると、真っ暗な部屋の中にいた。夢の中の病室とは違い、個室だった。傍らには、ベッドに凭れるようにして眠る母の姿が。眠りながらも強く私の手を握っている。涙の跡が頬を黒く染めていた。化粧を落とさずに、そのまま眠ってしまったようだった。
「心配かけて、ごめん」
眠っている母にそっと囁いた。
私は三日間眠っていたらしい。その間、母は毎日病室に泊まっていたそうだ。
ケガは夢の中でのものとは違い、左足だけで済んではおらず、もう二、三週間は入院していないといけないらしいことを母から聞かされた。
娘の無事を確認すると、母はすぐに仕事に戻っていった。相変わらず薄情な母親だ、と思いつつ、病室を出る直前の名残惜しそうな姿を思い出す。事故に遭う前なら、きっと気がつかなかっただろう。
病室から見る外の景色はとても美しく、眩しく、遠い場所に見えた。
マキとのトーク画面を眺める。
”さっきはごめん”
トークはそこで途切れている。
きっと、事故のことは聞いているはずだ。もしかしたら、マキのことだから自分を責めたりしているかもしれない。
”大丈夫だから”
怪我はしているけど。
”マキとの喧嘩は事故となんの関係もないから”
”すぐ授業にも出るから”
色々と、考えては却下する。違う。こうじゃない。
一つ深呼吸をしてから、私は、意を決して、スマホを操作した。
”こっちこそ、ごめん”