視界の広がるあの場所で - 36
かけたい言葉は、たくさんあった。
けれど最初の言葉は、じっくりと、抑え込んだ挨拶にした。
こちらに気づいて振り返った女性は、柔らかい笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ」
事務的な挨拶を小さくくれて、少し、眼を合わせると。
「……あっ」
女性は、小さな声を上げて、眼を見開いた。
そうしてから……柔らかい微笑みを、口元に浮かべてくれる。
あの頃と同じ、大人っぽい、落ち着いた雰囲気で。
「お久しぶりです。あの、覚えておられますか」
その様子を見て、少しは安心したけれど、言葉を出すときは緊張した。
前に会ったのは、もう何十年も前のことだ。
……少しの間だけ来ていた、独りの女の子のことなんて、忘れられていても仕方がない。
なのに女性は、あの頃と変わらず、優しい微笑みを返してくれる。
何度か頷いてから、懐かしそうに、女性は口を開いた。
「えぇ、もちろん。あの本……まだ、覚えてくれていますか?」
「はい! ずっと、大切にしています」
元気良く答える声に、優しい目線で答えてくれる。
「そうですか。苦手だって言ってた恋愛小説、楽しんでくれたか、不安だったんです」
「……ごめんなさい。覚えていて、くれたんですね」
想っていた以上に、私とのことを覚えていてくれたことに、胸がつまってしまう。
……本当に、わたしはなんで、あれからこの場所に来なかったのだろう。
恋愛小説の感想だって、何時間も語れるくらい、たくさん読みこんだはずなのに。
「お元気そうで、あの、なによりです」
「ありがとうございます。ただ、表に出していない部分は、たくさんありますけれど」
時間の流れは、本以外の話も、私達に与えてくれた。
当たり障りのない、たわいのない話を、少しして。
彼女の視線が、私の左手へ移った。
「……結婚、されたんですね」
懐かしむような声に、頷く。
「はい。――彼と、一緒に」
私の言葉に、女性はすぐに言葉を返さなかった。
代わりに、少しだけ眼を周囲へ向けて、なにかを探す仕草をする。
「一緒に来られは、しなかったんですか」
「まだ、仕事がありますから」
「あぁ、そうでした。今日は、まだそんな時間でしたね」
恥ずかしそうに笑う女性の様子に、私も、少しだけ合わせて笑う。
穏やかで、懐かしい空気。
だから、ずっと避けていた話題を、口にする。
「本当に、もう、閉店されるんですか」
「……なかなか難しいところが、ありますから」
苦いような、さっぱりしような、かすかな笑いとともに呟く女性。
記憶と重なる、優しい笑顔。
でも、その明るく柔らかい笑顔に、当時はなかった重みを感じてしまう。
(それだけ来なかった、んだろうし……。わたしが、わかるように、なったのか……)
本を差し出してくれた手は、今も変わらずに、とても綺麗だった。
けれど、以前よりも堅く、細くなってしまったようにも見えた。
――彼女の背が、低くなったように見えるのも。
私の目線が、同じような位置になってしまって。
今まで見えなかったものが、見えるように、なったのかもしれない。
「大きくなった彼の姿も……一緒に、見てみたかったのだけれど」
残念そうな、彼女の顔。
まるで、久しぶりに会った親戚が、子の成長を見たいかのよう。
そんなふうに感じてしまいながら、私は言う。
「変わらないですよ。彼は、彼のままです」
口下手で、でも、それを補うくらいに行動で示してくれるところも。
あの頃と変わらず、私と子供へ、まっすぐに向けてくれている。
「あの当時のまま……な、ところも残っていますし」
――けれど、変わらないその部分には、いろいろな面がある。
「まだ、大人になっていないような部分も、あるんですけれど」
親戚の子供達とふれ合い、友人の子育てを聞き、自分達の子供を育て。
大人になって、わかったような、ふりをしながら。
……私は、気づいていたんだ。
彼が、あの告白の日から、胸の奥にしまった想いがあるってことを。
それは、振り切れなかったんだろう、夫が見せる陰。
気づいたのは、大学時代になってから、ようやく。
彼の心に、まだ、その陰があること。
私だけが知っている、あの日の約束の、消しきれない陰。
「二人に来てもらうことは、叶えられそうにないのですか?」
女性の言葉に、私は、寂しさを混ぜながら言う。
「……あの人。あまり、本そのものを望まなくなってしまいましたから」
――そうなってしまった想いを、あの日から、整理できていないのだと。
私は気づきながらも、けれど、触れることができなかった。
彼の胸にしまわれた、その、行き場のない想いを。
「私が、あの人を縛ってしまったのかなって。そう想うこともあるんです」
……最近、昔に振り払ったはずの悩みを、よく考える。
もし、あの時、あの場所で……わたしが、想いを告げなかったら。
夫は、眼の前の想い人に、きちんと別れを告げることが出来たのだろうか。
今の、どこか好きなことを避けているような、夫の姿にはならなかったのではないか……。
「だから、あの人がもし、この場所に来るのだとしたら。……それは、嬉しいことだと想います」
そう口にしながら、私は。
……また、夫にしたような演技を、彼女にしてもいた。
だって、わたしには、できなかったから。
夫の抱えた、その陰を。
……胸の奥のトゲを、抜くことが、出来なかったから。
けれど……ひどい話だとも、想っている。
だって、彼女は、伝えられてもいないのだから。
――学の胸にずっと残ったままの、あの日の想いを。
「彼……来て、くれるかしら」
かすれた声で、女性はそう口を開く。
秋の枯れ葉のような、乾いた、寂しさを感じる声。
――そして、大切なのは、彼だけじゃない。
そんなふうに、寂しいお姉さんの姿は、わたしもつらい。
見るのも、嬉しくない。
「来ますよ。来させます。ですから……ちゃんと、見つけてあげて欲しいんです」
それは、わたしからの願いでもあった。
彼の心の、どこかにある、塗りつぶされた想い。
それを払ってあげられるのは……私、ではない。
ずっと想い続けている、というのは、美談だとも想うけれど。
それに縛られるのであれば、一緒にいる者には、辛い傷にも見える。
「昔のように……あなたと、嬉しそうに話していた、あの頃のように」
「あの頃のように……?」
「ええ。本と人が一緒だって、教えてくれた、あの頃のように。話してあげて、ほしいんです」
私の言葉に、女性は眼を少し開いて、何度かまばたきする。
不思議そうなその反応を、新鮮だと想いながら。
私は、言葉を続ける。
「あの人が、この場所に来ていた、本当の理由」
夫がこの場所に来ていたのは、本を買うためだけじゃない。
でも、あなたに会いに来ただけでも、もちろんない。
――それらが入り交じった場所で、違う世界を覗く本を、見つけてもらえたから。
わたし達は、何度も、足を運んでいたんだ。
「あなたと探して、自分で見つけた本を読む楽しさを、想い出させてあげてください」




