表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/48

視界の広がるあの場所で - 36

 かけたい言葉は、たくさんあった。

 けれど最初の言葉は、じっくりと、抑え込んだ挨拶にした。

 こちらに気づいて振り返った女性は、柔らかい笑みを浮かべる。

「いらっしゃいませ」

 事務的な挨拶を小さくくれて、少し、眼を合わせると。


「……あっ」


 女性は、小さな声を上げて、眼を見開いた。

 そうしてから……柔らかい微笑みを、口元に浮かべてくれる。

 あの頃と同じ、大人っぽい、落ち着いた雰囲気で。

「お久しぶりです。あの、覚えておられますか」

 その様子を見て、少しは安心したけれど、言葉を出すときは緊張した。

 前に会ったのは、もう何十年も前のことだ。

 ……少しの間だけ来ていた、独りの女の子のことなんて、忘れられていても仕方がない。

 なのに女性は、あの頃と変わらず、優しい微笑みを返してくれる。

 何度か(うなず)いてから、懐かしそうに、女性は口を開いた。

「えぇ、もちろん。あの本……まだ、覚えてくれていますか?」

「はい! ずっと、大切にしています」

 元気良く答える声に、優しい目線で答えてくれる。

「そうですか。苦手だって言ってた恋愛小説、楽しんでくれたか、不安だったんです」

「……ごめんなさい。覚えていて、くれたんですね」

 想っていた以上に、私とのことを覚えていてくれたことに、胸がつまってしまう。

 ……本当に、わたしはなんで、あれからこの場所に来なかったのだろう。

 恋愛小説の感想だって、何時間も語れるくらい、たくさん読みこんだはずなのに。

「お元気そうで、あの、なによりです」

「ありがとうございます。ただ、表に出していない部分は、たくさんありますけれど」

 時間の流れは、本以外の話も、私達に与えてくれた。

 当たり障りのない、たわいのない話を、少しして。

 彼女の視線が、私の左手へ移った。


「……結婚、されたんですね」


 懐かしむような声に、(うなず)く。


「はい。――彼と、一緒に」


 私の言葉に、女性はすぐに言葉を返さなかった。

 代わりに、少しだけ眼を周囲へ向けて、なにかを探す仕草をする。

「一緒に来られは、しなかったんですか」

「まだ、仕事がありますから」

「あぁ、そうでした。今日は、まだそんな時間でしたね」

 恥ずかしそうに笑う女性の様子に、私も、少しだけ合わせて笑う。

 穏やかで、懐かしい空気。

 だから、ずっと避けていた話題を、口にする。


「本当に、もう、閉店されるんですか」

「……なかなか難しいところが、ありますから」


 苦いような、さっぱりしような、かすかな笑いとともに呟く女性。

 記憶と重なる、優しい笑顔。

 でも、その明るく柔らかい笑顔に、当時はなかった重みを感じてしまう。


(それだけ来なかった、んだろうし……。わたしが、わかるように、なったのか……)


 本を差し出してくれた手は、今も変わらずに、とても綺麗だった。

 けれど、以前よりも堅く、細くなってしまったようにも見えた。


 ――彼女の背が、低くなったように見えるのも。

 私の目線が、同じような位置になってしまって。

 今まで見えなかったものが、見えるように、なったのかもしれない。


「大きくなった彼の姿も……一緒に、見てみたかったのだけれど」

 残念そうな、彼女の顔。

 まるで、久しぶりに会った親戚が、子の成長を見たいかのよう。

 そんなふうに感じてしまいながら、私は言う。

「変わらないですよ。彼は、彼のままです」

 口下手で、でも、それを補うくらいに行動で示してくれるところも。

 あの頃と変わらず、私と子供へ、まっすぐに向けてくれている。

「あの当時のまま……な、ところも残っていますし」


 ――けれど、変わらないその部分には、いろいろな面がある。


「まだ、大人になっていないような部分も、あるんですけれど」

 親戚の子供達とふれ合い、友人の子育てを聞き、自分達の子供を育て。

 大人になって、わかったような、ふりをしながら。


 ……私は、気づいていたんだ。

 彼が、あの告白の日から、胸の奥にしまった想いがあるってことを。


 それは、振り切れなかったんだろう、夫が見せる陰。

 気づいたのは、大学時代になってから、ようやく。

 彼の心に、まだ、その陰があること。

 私だけが知っている、あの日の約束の、消しきれない陰。


「二人に来てもらうことは、叶えられそうにないのですか?」


 女性の言葉に、私は、寂しさを混ぜながら言う。

「……あの人。あまり、本そのものを望まなくなってしまいましたから」


 ――そうなってしまった想いを、あの日から、整理できていないのだと。

 私は気づきながらも、けれど、触れることができなかった。

 彼の胸にしまわれた、その、行き場のない想いを。


「私が、あの人を縛ってしまったのかなって。そう想うこともあるんです」


 ……最近、昔に振り払ったはずの悩みを、よく考える。

 もし、あの時、あの場所で……わたしが、想いを告げなかったら。

 夫は、眼の前の想い人に、きちんと別れを告げることが出来たのだろうか。

 今の、どこか好きなことを避けているような、夫の姿にはならなかったのではないか……。


「だから、あの人がもし、この場所に来るのだとしたら。……それは、嬉しいことだと想います」

 そう口にしながら、私は。

 ……また、夫にしたような演技を、彼女にしてもいた。


 だって、わたしには、できなかったから。

 夫の抱えた、その陰を。

 ……胸の奥のトゲを、抜くことが、出来なかったから。


 けれど……ひどい話だとも、想っている。

 だって、彼女は、伝えられてもいないのだから。


 ――(まなぶ)の胸にずっと残ったままの、あの日の想いを。


「彼……来て、くれるかしら」

 かすれた声で、女性はそう口を開く。

 秋の枯れ葉のような、乾いた、寂しさを感じる声。


 ――そして、大切なのは、彼だけじゃない。

 そんなふうに、寂しいお姉さんの姿は、わたしもつらい。

 見るのも、嬉しくない。


「来ますよ。来させます。ですから……ちゃんと、見つけてあげて欲しいんです」

 それは、わたしからの願いでもあった。

 彼の心の、どこかにある、塗りつぶされた想い。

 それを払ってあげられるのは……私、ではない。


 ずっと想い続けている、というのは、美談だとも想うけれど。

 それに縛られるのであれば、一緒にいる者には、辛い傷にも見える。


「昔のように……あなたと、嬉しそうに話していた、あの頃のように」

「あの頃のように……?」

「ええ。本と人が一緒だって、教えてくれた、あの頃のように。話してあげて、ほしいんです」


 私の言葉に、女性は眼を少し開いて、何度かまばたきする。

 不思議そうなその反応を、新鮮だと想いながら。

 私は、言葉を続ける。


「あの人が、この場所に来ていた、本当の理由」


 夫がこの場所に来ていたのは、本を買うためだけじゃない。

 でも、あなたに会いに来ただけでも、もちろんない。


 ――それらが入り交じった場所で、違う世界を覗く本を、見つけてもらえたから。

 わたし達は、何度も、足を運んでいたんだ。


「あなたと探して、自分で見つけた本を読む楽しさを、想い出させてあげてください」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ