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視界の広がるあの場所で - 34

 ※※※




「これ……本当、なの?」

 忙しさの中で、忘れていた。

 地元情報誌の片隅で、その記事を見つけるまでは。


 ――あれだけ、大切な場所だったのに。

 私も夫も、いつしかその本屋へ、足を運ばなくなっていたから。


(行ける時間は、たくさんあったはずなのに)

 結婚してから、色々な場所に出かけたけれど。

 その本屋へは、お互いに寄ろうと言ったことがなかった。

 印象的な看板を見かけ、ふと、感じ入ることはあったように想う。

 けれど、中に入って本を買ったのは、もうずいぶんと昔のことだ。

 ……あの人と最後に言葉を交したのは、いったい、いつのことだろう。

 なんの話をしたのか、本を買ったのか。

 私は、想いだすこともできない。

(ひどい話、ね)

 二十年以上昔のことを、覚えていられる方が珍しい。

 大人になってしまった私は、そんな言い訳を当たり前にできるくらい、あれから歳をとってしまった。

 けれど……あの頃のわたしが、今の生活に至れたのは、あの人のおかげである部分が大きい。

(いえ……。あの人がいなければ、私は、今も独りだったかもしれない)

 いろいろな見方を知って、相手の胸の内にあるページを読み解く。

 わずかな一時を繰り返して、あの人は、私にかけがえのない時間を与えてくれた。

 この、夫と子供達との、愛しい時間をつないでくれた。


 ……なのに私は、あの日のまま、憧れの人を置き去りにしてしまった。

 お礼の言葉を、言うことも。

 友人として、食事に行くことも。

 ましてや、二人の結婚式に呼ぶことも。

 ……お礼らしいお礼を、私は、なにもしていなかった。


 プライヴェートな接点を持つことなく、途切れてしまったから、仕方のないことではあるのだけれど。

(……途切れてしまった、のではなく、離れてしまったのかもしれない)

 もう、過去のわたしではない、冷静な眼でそう考えられてしまう。

 そんな自分が、あの頃より変わってしまったことに、複雑な心地を覚える。

「知って、いるのかしら」

 想い浮かべたのは、私以上に、あの場所を大切にしていた人。

 幼かった日から通い続け、一緒に成長していった……夫のことが、気にかかる。

(……いえ。おそらく、知らないんでしょうね)

 小さく首をふって、そうだろうと想える。

 あの頃よりもずっと、私は、本を読む時間が減っていた。

 そして、彼もまた……本を読む姿を、以前より見かけなくなっている。

(あんなに、楽しそうだったのに)

 若い頃の記憶は、ひどく鮮明だ。

 あれだけ楽しげな夫の顔は、今の生活の中でも、あまりないように想えてしまう。

(……でも、もう、違うのかもしれない)

 私は、本を楽しむ彼の姿が、とても好きだった。

 あの人が好きなことを、一緒になっても、やめてほしくはなかった。


 ――けれど夫は、いつしか、いつも私の側にいてくれるようになった。

 本ではなく、私の横へと。


 それからというもの、夫は、本屋へ近寄ることがなくなっている。

 本を読まないわけではないけれど、以前のような笑顔を浮かべていることは……もう、ない。

(昔は、ちょっとした時間があっても、読んでいたのに)

 今は、私や子供との休日のウォーキングに、喜んで出かける方が多い。

 まるで、以前に本を読んでいた時と、同じような笑顔を浮かべて。


 ……とても、嬉しいことのはずなのに。

 どこかで、複雑な気持ちを抱えていたのは、忘れようとしていたからなのだろうか。


(忘れようと、していたのかな)


 大切で、けれど、あのままではいられなかったから。

 ……私は、あの店の自動ドアを、次第に進めなくなっていったんだ。


 ――変わらないものなどないと、わたしに教えてくれたのは、何の本だっただろうか。


「……」


 私はアウターを手にとり、玄関のドアを開ける。

 目的地へ向かいながら、私は苦笑する。

 ……サングラスの変装をしてまで、(まなぶ)の後をつけていた。

 あの日の気持ちを、想い出してしまったから。




 ※※※




 手元の情報誌を、リビングのテーブルの端へ置く。

 夫は、やっぱり、知らないのだろうと想えたから。

 そこへ置いておけば、読み物を求めて、夫はそれを手にとる。

 そのクセがまだ残っていることを、私は知っていた。

(文字が、嫌いになったわけではないのよね)


 ――もし、そうであれば。

 少しでも、あの当時の気持ちを……想いだしてくれれば、いいのだけれど。


 感傷的になりながらも、大人の時間は早い。

 以前はもっと、たくさんのことを考えても、時間の流れはゆっくりだった。

 でも今は、家のことや子供達のことで、あっという間に朝から夜に変わっていく。

 いつもの、慌ただしくも幸せな日常。

 子供が学校から帰ってきて、陽が暮れ、部屋の明かりをつける時間も過ぎて。

 夕食の準備が進み、親子で食事をとる準備が、すんだ頃。


 ――車のエンジン音が聞こえ、止まり、駐車場に入ってくるのがわかった。


 少しして、玄関の開く音。

「ただいま」

 仕事に疲れたのであろう、低い声

 会社から帰ってきた夫は、それでも、優しい笑みを私達に向けてくれる。

「おかえりなさい」

 私も同じように、穏やかな声を返す。

 ……昔のことを、想いかえしてしまったから、だろうか。

 こうして、たくさんの想い出をつないできた事実が、信じられないくらいありがたかったから。

 そうした心地で、リビングへと食事を運ぶ。

 その後は、いつもの家庭の時間。

 食事をすませ、みんながお風呂に入り、子供が自室へと戻っていく。

 テレビも落ち着いた番組が増え、夜の静けさも増した、夫婦だけの時間。


 ――彼が文字を求めるのは、その、穏やかさのなか。


「……!」

 イスを引く音が、大きく響く。

 たたんでいた洗濯物から、夫へと眼を動かす。

 立ち上がった、夫の手には……さっきの地域情報誌が、つかまれている。

(覚えて、いてくれたんだ)

 ……平静でいられなかったことに嬉しくなるのは、意地が悪すぎるだろうか。

 顔を見れば、どうして驚いているのかも、予想はできる。

 たぶん、さっきのわたしも、同じような顔になっていたはずだから。

「どうしたの?」

 演技する気分で、私は聞く。

 けれど、夫はなにも言わず、自室へと駆けだした。

 様子が気になって、応接間から追いかける。

 すると、急いでジャケットだけを羽織った夫が、部屋から出てくるのが見えた。

「ちょっと、出かけてくる!」

 息が荒いのは、急いで準備したからか。

 それとも、心が落ち着かないからか。

「どこへ行くの? もう、遅いけれど」

 夫が、どこへ出かけるのか。

 それを理解しながら、わたしは問いかける。

 あくまで、表面上は驚いたように装って。

 焦る彼は、そんな私の様子に、気づいてはいないだろう。

「……だよ。今日、閉店するらしい」

 行き場所を告げる夫の顔は、どこか不安そうだった。

 まるで、その店の名前を言葉にすることすら、ためらっているかのように。

「そう、なんですね」

 ただ、夫はなにも悪いことをしているわけでもない。

 なのにその顔は、ひどく、後ろめたいように陰っていた。


 ――それは、あなただけじゃないのに。


 私は彼ほどに、おそらく、罪の意識を感じていない。

 それは、あの場所で重ねた時間が、あまりにも違うからだろうか。

「わかりました。……いってらっしゃい」

 薄い微笑みで、罪悪感を隠して。

 お互いの不安を、和らげようとした。

「そうね。たまには、昔みたいに……両手いっぱいの本を、買ってきなさいよ」

「いいのか」

 むしろ、そう聞かれることが意外だった。

 ……そんなに気づいていない私は、やっぱり鈍感なんだって、苦い気持ちになる。

(あの頃のようには、ずっと、いられない)


 ――紅色の丘の上で、私達の時間は、変わり始めた。

 でもそれは、それまでの自分達を、否定することではなかったはずなのに。


「一度だって、わたしは……好きな本を買っちゃいけないって、言ったことはないわよ」

 家計を圧迫するほどには、もちろん困るけれどね。

 そう、付け加えるのは、忘れないけれど。

「いいのよ。だって……あなたは、本が大好きなんだから」


 ――だった、なんて、想ってほしくない。

 だからこそあなたは、今、あの場所へ向かおうとしているのでしょう?


 わたしの言葉を聞いた彼は、小さく吐息を漏らす。

 なにか、感じるものがあったのだろうか。

「そう、だな。そうだったな……」

 驚いたような顔を浮かべた後に、ぎこちない笑顔。

 少しだけ、感じていた陰りのようなものが、薄くなっているように想えた。

「一緒に、行かないか」

「一緒に?」

 微笑んで、気持ちが落ち着いたのか。

 夫は、あることに気づいたように顔を変えて、私を誘う。

 ……恋人になってから、一度も誘われたことのない、あの場所へ。

「会わせたい人が、いるはずなんだ」

(いる、はず……)

 微妙な言い回しに、複雑な気持ちになる。

 私は首をふって、玄関前で答えを待つ彼に、微笑んだ。

「あなた一人で、行ってきて。明日の準備もあるし、あの子を一人にするわけにもいかないでしょう」

 三人で、と言い出しそうな彼に、わたしは言い聞かせるように言った。


「――いいのよ。わたし達じゃなくて、あなたに行ってほしい。あの本屋も……そう、想ってるんじゃないかな」


「……わかった」

 そこまで言って、ようやく夫は決心が付いたようだ。

「行ってくる」

 車のキーを握りしめて、夫は、玄関を開ける。

 その背中に、もう、ふりかえる気配はなかった。

 バタン、と、玄関が閉められて。

 少しして、いつも三人で乗る、ファミリーカーの駆動音。

 ……しばらく私は、その場所で、出かけていった彼の名残を感じる。

(昔みたいに……一人でいることを、優先しはしないのね)

 恋人だった頃や、結婚したての頃は、まだそういった時間をお互いに持っていた。

 今は、どこか、知らずにそうした自分達を忘れていたように想う。


 ――自分の存在が、(まなぶ)に、違う考えを持たせてしまったのだろうか。

 もし、あの人と、一緒になっていたら。

 夫は今も、たくさんの本に囲まれながら、微笑む時を過ごしていたのだろうか。


(でも、それは……空想がすぎるわ)

 その未来は、もう通り過ぎてしまった、ありえない過去でしかない。

 現実は、空想の世界以上に、うまくいかない。

 なのに、とても奇妙で……今日のような日々も、訪れてくれる。


 巡り合わせの関係に、想いをはせながら。

 いつもの、母親としての自分に戻り、子供部屋へと向かう。

「まだ、起きているの?」

 静寂が戻ると、階段の先からなのに、ささやかな物音がした。

 遊びたい盛りなのはわかるけれど、夜更かしを習慣化しても、良くないと想えたからだ。

「もう少ししたら、寝るから」

「……早くね」

 でも、少しだけ、甘くなってしまう。

 だって……その手元にあったのが、私の部屋の、本であったから。

 私達の子らしからぬ聞き分けの良さを信じて、私は、階下へと戻る。

 洗濯物や食器の片づけが、まだ残っていたからだ。

 そうした細々とした雑事を片づけながら、明日の準備も同時に行う。


 ……毎日繰り返す、日々の行い。

 手慣れた手つきで、それらをこなしながら。

 当時のことを、また、想い出す。


 ――あの人には内緒の、わたしとお姉さんだけの、秘密の時間。


 わたしにとってあの本屋は、違う自分を見つけてくれた、大切な場所だった。


 ……だから、誘いを断った。

 心は揺れたけれど、一緒に行くのは、気が引けた。


 わたしがかつて、あの人と過ごした時間と。

 それを振り返る、今の想いは。

 ……夫とあの人が、過ごした時間へ、重ねてはいけないと想っている。


 ――わたしは、夫を騙しているのだろうか。

 それとも、騙したくないから、本当のことを言えないのだろうか。


 全ての準備を終えた私は、寝室に戻る。

 しばらく、夫は帰ってこないだろう。

 部屋の照明をつけて、誰もいない、静かな部屋を見つめる。

 夫と一緒の寝室に、あまり、自分のものはない。

 服や小物などは別の部屋だし、日々の娯楽も、今は子供が中心だからだ。


 でも、ふと、小さく置かれた本棚に眼が向かう。


 ここへ二人で移ってくる際、実家から持ってきた本や、新しく買った本。

 あの頃の本は、ほとんど残っていないけれど。


 ……初めて感動した、あの漫画だけは。

 今もずっと、本棚の片隅に、残っている。


 背表紙を見ながら、昼間のことを想いかえす。

 それは、さっき想いだしたお姉さんとの記憶より、ずっと新鮮で新しい景色。


 ……そう。

 わたしはもう、別れをすませてしまっていた。


 ――あの人と、あの本屋に。




 ※※※

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