視界の広がるあの場所で - 26
「ずるい、ですか?」
「特別じゃなくても、他とは違う……。それは、ずるいことです」
「そう言われると……困り、ますね」
「ごめんなさい。そうですよね……すみません」
謝りながら、でも、手を堅く握って。
柔らかいハンカチと、包まれる手に、甘えるように。
かすれるような声で、続けてしまう。
「でも、やっぱり、そうです。……ずるいです」
――特別だと想われながら、お客である。
お姉さんは、あくまで、この店の店員でしかない。
確かに、そう言った。
……それは、たぶん、わたしにだけじゃない。
「彼、気づいてないんですよ」
それを知らずに、嬉しそうに微笑む姿が、頭に浮かぶ。
ずっとこの場所で、大切な人と過ごしてきただろう、大切な時間。
彼が、どんな想いで、お姉さんと話してきたのか。
わたしには、想像することしかできない。
……けれど。
(普段の学なら、あんな顔、してくれない。……わたしに、対しても)
だからお姉さんの言葉は、優しいのに、とてもつらいことだってわかってしまう。
そのことを、もし、彼が知った時を想像して。
……胸が、つまる。
「本が好きって気持ちと、本のことを話せる楽しさと、お姉さんと会える喜び。……みんな、混じっちゃってるんです」
一つの場所で、全部解決する。
学の好きな、本と場所と人。
ここには、みんな、そろってる。
――わたしは、違った。
部活もがんばって、新しい目標ができて。
お姉さんに、いろいろ話を聞いてもらって。
もちろん、学との新しい時間も、とても大切で。
自分のやりたいことや、楽しいことが、たくさんある。
……たとえ、この書店に来ることが、なくなったとしても。
でも、学は?
本当に、一つが、全部じゃないの?
「だから、ずるいです。そうして、わかっているのに、触れないのって」
わたしは、一方的に、話し続ける。
――触れてしまえないことを、さっき、教えてもらったばかりなのに。
「わたしだって……お姉さんに、こんなにしてもらって」
ぎゅっと、手元の柔らかさを、また握りしめる。
「……ずるいです。優しすぎて」
そこまで言って、もう、言葉は出てこなくなって。
……勝手な話を、ずっと、しちゃった。
言われた方も、どうすればいいのか、困るだろうな。
そんな後悔ばかりが、頭に浮かぶ。
そしてわたしは、じっと、待っていた。
……勝手な話を、お姉さんが、どう応えてくれるかを。
ただ、わたしの手を離さず、お姉さんは話を聞いてくれた。
はいともいいえとも、なにも言わず、じっくりと聞いてくれた。
――少し。
ほんの、少しだけ。
つないだ手の温もりが、少し、硬くなった。
「私は、優しくありませんよ」
その声を聞いて、頭を上げる。
いつもより、なにかを抑えたような声と、少しだけ苦い表情。
「彼が望むような……この店の本では、ありませんしね」
「この店の、本? あの、それってどういうことですか」
どうしてここで、本の話が出てくるんだろう。
不思議に想って、聞き返してしまう。
お姉さんは、わたしに触れている指先を、そっと動かす。
その先にあったのは、指のなかで硬く握られた、一冊の本。
さっきの恋愛小説に触れながら、ゆっくりと、お姉さんは口を開く。
「本は、書いている人の鏡。……人生の一部を映したものと、言われることもあります」
「インタビューとか、自伝とか。そういうものですか」
「それも、そうですけれど……」
お姉さんは、不安そうに瞳をさまよわせて、口ごもる。
何度も口を開き、そのたびに眼をそらして、また同じことの繰り返し。
(言いたいことを、上手く言葉にできない……のかな)
いつもなら、知らない言葉をわかるように、すらすらと話してくれるのに。
(まるで、言葉を探しているみたい)
始めて見るその姿に、わたしもまた、なにを言えばいいのかわからない。
ただ、なにかを探し求めるお姉さんの姿を、見つめることしかできない。
「……書かれている中身も、そうですし。その、書かれたり作られたりしている裏にも、やっぱり、人がいると想うんです」
「裏って……」
「本は、文字だけでできているわけでは、ないでしょう?」
問いかえられるような言葉に、わたしは、本というものを考え直す。
手元に握られた恋愛小説は、いったい、なんでできていたっけ?
「紙とか、印刷したり、とか?」
ぱっと想いついたのが、表紙。
カバーの下にもちょっと厚い紙があって、そのなかにページがある。
想い出せば、本によって大きさもデザインも違うから、そうしたものを決めている人がいるんだろう。
(カラーだったり、白黒だったり。インタビューも、独りじゃできないよね)
言われてみれば、いろいろな人の活躍や頑張りがあるから、ああした本が出来ている。
漫画でも、小説でも、情報誌でも、インタビューをまとめる人でも……。
学校で昔、グループ活動で資料っぽいのをまとめたことが、あった気もする。
本ももしかしたら、同じなのかもしれない。
一冊の本は、いろいろな人の想いがあって、ようやく一つの形になっているのかもしれない。
「もしかすると、彼には……」
彼。
お姉さんは、ようやく、言葉を見つけることができたのかもしれない。
「……この場所で出会った私も、ここにある本と同じように、想えているのかもしれませんね」
しっかりとした声でゆっくりと、わたしに、そう話してくれたから。
「……え、えっと……?」
とはいえ、その言葉がどういう意味なのか、わたしにはすぐに理解できなくて。
想わず小さく呟いて、どう答えればいいか、迷ってしまった。
「そ、そんなことはないと想いますけれど」
そうは言ってみるけれど、なにがそうでないのか、自分でもわからなかった。
だって、人が本と同じって……。
(……あっ)
自分の記憶力の低さに、ちょっと嫌気がさす。
そう。
そういう話は、さっきしたばかりだったのに。
『お一人お一人、考え方や読まれるものは、様々ですから。――まるで、この本達のようですね』
さっきのお姉さんの言葉が、ふっと浮かんでくる。
……もしかすると、それを意識しながら、今の話をしているのかもしれない。
(本も人も、一緒。……でも、一緒じゃないなら、それはなに?)
「さっきの、お話、ですよね。人が違うのは、まるで、ここの本みたいだっていう……」
本と人は、とてもよく似ている。
さっきお姉さんは、確かにそう言った。
「はい。本と人は、出会うべき時に出会い、出会った誰かに変化をもたらす。とてもよく似た、すてきなものだと想います」
「じゃ、じゃあ、彼がそう想っているのも……」
――あなたを、とても大切に、想っているからじゃないですか。
わたしの口から、痛みとともに出そうだった言葉。
「……本には、理解できないものもあります。全てを理解できることは、どれだけ大切な本であっても、難しいものです」
でもそれは、こぼれ落ちる前に、お姉さんの声でさえぎられた。
そして、驚いてしまった。
……だって、あれだけたくさんの知識と本を持っている、お姉さんなのに。
「もし、私のなかに文章が、あったとしたら……それが、本のようで、あったとしたら」
こんなに、辛そうな顔をして。
「自分にも、たまに読めないものが、あるのだと想います」
――わからないことがあるって、言うんだよ?
(自分のことは、読めない……)
お姉さんの言葉は、難しくて、よくわからないところがあった。
――でも、後々。
この時の記憶が、痛みのないくらい、先の未来で。
ふりかえった時に、想ったことがある。
お姉さんも、実は、わたしと同じように動揺していたんじゃないかって。
それくらい、お姉さんは。
わたしに、伝えようとしてくれたんだと想う。
「……自分でも、読めないなら。他の人には、彼には、もっと読めない」
できるだけ頭を使って、お姉さんの言葉を理解しようとする。
「……そういう、ことですか」
なぜか頭のなかに、英語の教科書の文例が、ずらっと出てくる。
言葉なんだけれど、意味がわからなければ、読む方も読まれる方も困惑する。
あの時の気分に、似ていたからかも。
「読むことは、できるとも、想います」
「読むことは、できる……?」
「ただ、そこになにが書かれているか、本当の意味はなにか……」
そう答えるお姉さんの言葉は、やっぱり、わたしの考えとそう変わらないのかもしれない。
「私という文章を、本を、一番に理解してくれる人は……もう、別にいるんです」
――学のための本を、お姉さんは、選び続けた。
――でも、お姉さんのための本を満たしたのは……学では、なかった。
――たぶん、そう、言いたいのかもしれない。




