視界の広がるあの場所で - 25
「――調子が悪くなられたようなので、休憩室で様子を見ます」
お姉さんの声が、耳に聞こえる。
でも、少し遠いから、わたしにじゃない。
おそらく、他の店員さんに、言っているんだろう。
(迷惑、かけちゃったな……)
そう想うけれど、大丈夫です、とも言えなくて。
手を引かれるまま、眼を開けず、暗い気持ちでずっと歩く。
……つないだ細い手は、暖かくて、柔らかかった。
目元のハンカチと、同じくらいに、心地よかった。
「少し、待ってくださいね」
お姉さんの声がかけられて、つないだ手が離される。
ひやりとした手元に、気持ちもまた、すっと冷えそうになるけれど。
「さぁ、こちらへ」
暗い視界のなかで、すぐに、手の温もりがまた灯される。
そのまま手を引かれて、次にばたん、という音が聞こえてくる。
(ドアの音……なのかな)
誘われるままに腰を下ろすと、腰にふんわりとしたイスの感触。
「落ち着かれましたか」
……こんなに迷惑をかけても、まだお姉さんは、優しい声のまま。
(いけない。もう、やめないと)
ここまで来て、ようやくわたしは、目元からハンカチを離すことができた。
まだ、濡れてはいるけれど……溢れてくるものが収まっているのは、わかったから。
ゆっくり、腫れたようにぼんやりした眼で、正面を見る。
にじんだ視界に見えたのは、さっきまでと同じ、お姉さんの笑顔。
今もわたしを見つめてくれる、優しい、大人の女性の瞳。
「……あの、ごめんなさい」
ぎゅっとつかんだハンカチを、手元に抱える。
手元を包む柔らかさが、どこか、心を落ち着かせてくれる気がした。
「あの、ハンカチ、ありがとうございます」
上品で綺麗な刺繍が入った、大人っぽいハンカチ。
お姉さんに、とてもよく似合う。
「きちんと洗濯して、お返ししますから」
……でも、今はわたしの涙でにじんで、申し訳なさがいっぱい。
当たり前のことを言ったのに、お姉さんは小さく顔を横にふる。
「いえ、お気になさらないでください」
「で、でも……」
優しくしてもらったのに、甘えっぱなしだなんて、ぜったいにだめだ……。
そう、わかっているのに。
「あ……の」
わたしは、ハンカチを預かってお返しするって、なぜか言えなかった。
代わりになにを言うべきかも、寝起きみたいにすっきりしなくて、想いつかなくて。
(感謝した方が、いいのかな。謝った方が、いいのかな)
どちらもしたい気持ちで、でも、どちらが優先かも決められなくて。
言葉を、選んでいると。
「どうして、本をご紹介したのか。……でしたよね?」
「本を、ご紹介……?」
話しかけられた話題に、わたしはなんのことか、頭が追いつかなかった。
ふりかえって、そうだ、と想い出す。
どうして自分が、こんなことになってしまったのかを。
「そ、そうですね。だって、わたし……」
また、溢れそうになる。
じわりと熱いものが、勝手に、目元へ集まってくる。
(おかしいよ、泣いていいはずないのに)
必死で抑えながら、心のなかの言葉を掘り返して、話を続けなきゃって想う。
そう、さっき言った、最初の気持ち。
……この本屋に訪れるための、わたしの、最低な気持ち。
『――本が目的じゃ、なかったんですよ。この店のこと、どうでもよかったんですよ』
そう、言ってしまおうとした。
でも、それよりも先に。
「あなたが、この場所に来てくれたからです」
……お姉さんは、言わせてくれなかった。
「えっ……」
さえぎったお姉さんの顔は、いつもの優しい瞳とは、ちょっと違うように見えた。
そう、言うなら……。
(わたしが勉強をしてる時の、見守ってくれるお母さん。無理なメニューを言った時の、心配そうな顔の先生)
少し遠い場所からわたしを見てくれる、大人の人の視線。
今のお姉さんは、いつも本を教えてくれる身近さより、ちょっとだけ離れているように感じた。
「この場所に来ていただいたあなたに、本を紹介する。私はそのために……この場所に、いるんです」
――わたしが、この場所に来たことを、受け入れてくれている。
言い聞かせるような声で、お姉さんは、そう言ってくれたんだと想う。
「で、でも、わたしは……」
だからといって、安心して、納得しちゃいけなかった。
わたしが、ここへ来始めた理由が、それで変わるわけじゃなかったから。
「……あの子を、見に来るために」
「私はあくまで、この場所で本のご相談を受けるだけです」
すっと差しこむように、お姉さんはわたしの言葉へ割って入った。
それから、どこかきっぱりとした声で、こう言った。
「私は、この書店の店員でしかないのです。それ以外にはなりませんし……なにより、お客様をご案内することが、私の役目なんですよ」
「……っ」
――理由は、わからないけれど。
その言葉に、わたしの背中がふるえる。
「ですから……もし、お客様が、変わられたなら」
そっと、濡れたハンカチを持つ手が、綺麗な指先に包まれる。
暖かい熱が伝わり、心臓の鼓動はあがるのに、変に落ち着いた気持ちにもなる。
……夢を見るって、こんな心地なのかな。
「それは、お客様ご自身の努力なんです。なので……この場所に来られたことを、ご自分で、否定なさらないでください」
お姉さんの言葉は、すごくしっかりしたもの。
名前も知らない、お客の一人であるわたしに、あまりにも優しすぎる。
だから、胸に上がってきた、泣き出しそうな熱をおさえながら。
「ありがとう、ございます」
わたしは、必死に言葉をしぼりだした。
(そうだね。今の、ここにいる自分を否定したら、この気持ちもわからなくなっちゃうもんね)
初めて、このお店に来た時の、自分。
お姉さんと学の仲を、疑って、考えて。
でも……なにもしない。
しようとしないけれど、ただ、感情だけをたくさん爆発させる。
学にも、もしかしたらお姉さんにも。
それは、相手のことを考えない練習メニューと、似ているのかもしれない。
相手と一緒に走ろうとしないで、ただ、それがいいって決めつけることと。
(ぶつかって、ばっかりだったんだ)
でも、そのぶつかりも。
わかろうとしない、独りぼっちの気持ちも。
……この場所のおかげで、優しくしてもらえた気がする。
「わたし、いろいろ教えてもらえて……本当に、嬉しかったんです」
「私も、楽しかったですよ」
どうしてか、わたしは今初めて、ようやくお姉さんという人と話せたような気持ちになっていた。
だから……つい、気がゆるんで。
もう一つの泣いた理由を、言ってしまった。
「でも……お姉さんは、ずるいです」




