表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/48

視界の広がるあの場所で - 25

「――調子が悪くなられたようなので、休憩室で様子を見ます」

 お姉さんの声が、耳に聞こえる。

 でも、少し遠いから、わたしにじゃない。

 おそらく、他の店員さんに、言っているんだろう。

(迷惑、かけちゃったな……)

 そう想うけれど、大丈夫です、とも言えなくて。

 手を引かれるまま、眼を開けず、暗い気持ちでずっと歩く。

 ……つないだ細い手は、暖かくて、柔らかかった。

 目元のハンカチと、同じくらいに、心地よかった。

「少し、待ってくださいね」

 お姉さんの声がかけられて、つないだ手が離される。

 ひやりとした手元に、気持ちもまた、すっと冷えそうになるけれど。

「さぁ、こちらへ」

 暗い視界のなかで、すぐに、手の温もりがまた灯される。

 そのまま手を引かれて、次にばたん、という音が聞こえてくる。

(ドアの音……なのかな)

 誘われるままに腰を下ろすと、腰にふんわりとしたイスの感触。

「落ち着かれましたか」

 ……こんなに迷惑をかけても、まだお姉さんは、優しい声のまま。

(いけない。もう、やめないと)

 ここまで来て、ようやくわたしは、目元からハンカチを離すことができた。

 まだ、濡れてはいるけれど……溢れてくるものが収まっているのは、わかったから。

 ゆっくり、腫れたようにぼんやりした眼で、正面を見る。

 にじんだ視界に見えたのは、さっきまでと同じ、お姉さんの笑顔。

 今もわたしを見つめてくれる、優しい、大人の女性の瞳。

「……あの、ごめんなさい」

 ぎゅっとつかんだハンカチを、手元に抱える。

 手元を包む柔らかさが、どこか、心を落ち着かせてくれる気がした。

「あの、ハンカチ、ありがとうございます」

 上品で綺麗な刺繍が入った、大人っぽいハンカチ。

 お姉さんに、とてもよく似合う。

「きちんと洗濯して、お返ししますから」

 ……でも、今はわたしの涙でにじんで、申し訳なさがいっぱい。

 当たり前のことを言ったのに、お姉さんは小さく顔を横にふる。

「いえ、お気になさらないでください」

「で、でも……」

 優しくしてもらったのに、甘えっぱなしだなんて、ぜったいにだめだ……。

 そう、わかっているのに。

「あ……の」

 わたしは、ハンカチを預かってお返しするって、なぜか言えなかった。

 代わりになにを言うべきかも、寝起きみたいにすっきりしなくて、想いつかなくて。

(感謝した方が、いいのかな。謝った方が、いいのかな)

 どちらもしたい気持ちで、でも、どちらが優先かも決められなくて。

 言葉を、選んでいると。


「どうして、本をご紹介したのか。……でしたよね?」


「本を、ご紹介……?」

 話しかけられた話題に、わたしはなんのことか、頭が追いつかなかった。

 ふりかえって、そうだ、と想い出す。

 どうして自分が、こんなことになってしまったのかを。

「そ、そうですね。だって、わたし……」

 また、溢れそうになる。

 じわりと熱いものが、勝手に、目元へ集まってくる。

(おかしいよ、泣いていいはずないのに)

 必死で抑えながら、心のなかの言葉を掘り返して、話を続けなきゃって想う。

 そう、さっき言った、最初の気持ち。

 ……この本屋に訪れるための、わたしの、最低な気持ち。


 『――本が目的じゃ、なかったんですよ。この店のこと、どうでもよかったんですよ』


 そう、言ってしまおうとした。

 でも、それよりも先に。


「あなたが、この場所に来てくれたからです」


 ……お姉さんは、言わせてくれなかった。


「えっ……」

 さえぎったお姉さんの顔は、いつもの優しい瞳とは、ちょっと違うように見えた。

 そう、言うなら……。

(わたしが勉強をしてる時の、見守ってくれるお母さん。無理なメニューを言った時の、心配そうな顔の先生)

 少し遠い場所からわたしを見てくれる、大人の人の視線。

 今のお姉さんは、いつも本を教えてくれる身近さより、ちょっとだけ離れているように感じた。

「この場所に来ていただいたあなたに、本を紹介する。私はそのために……この場所に、いるんです」


 ――わたしが、この場所に来たことを、受け入れてくれている。

 言い聞かせるような声で、お姉さんは、そう言ってくれたんだと想う。


「で、でも、わたしは……」

 だからといって、安心して、納得しちゃいけなかった。

 わたしが、ここへ来始めた理由が、それで変わるわけじゃなかったから。

「……あの子を、見に来るために」

「私はあくまで、この場所で本のご相談を受けるだけです」

 すっと差しこむように、お姉さんはわたしの言葉へ割って入った。

 それから、どこかきっぱりとした声で、こう言った。


「私は、この書店の店員でしかないのです。それ以外にはなりませんし……なにより、お客様をご案内することが、私の役目なんですよ」

「……っ」


 ――理由は、わからないけれど。

 その言葉に、わたしの背中がふるえる。


「ですから……もし、お客様が、変わられたなら」

 そっと、濡れたハンカチを持つ手が、綺麗な指先に包まれる。

 暖かい熱が伝わり、心臓の鼓動はあがるのに、変に落ち着いた気持ちにもなる。

 ……夢を見るって、こんな心地なのかな。


「それは、お客様ご自身の努力なんです。なので……この場所に来られたことを、ご自分で、否定なさらないでください」


 お姉さんの言葉は、すごくしっかりしたもの。

 名前も知らない、お客の一人であるわたしに、あまりにも優しすぎる。

 だから、胸に上がってきた、泣き出しそうな熱をおさえながら。

「ありがとう、ございます」

 わたしは、必死に言葉をしぼりだした。

(そうだね。今の、ここにいる自分を否定したら、この気持ちもわからなくなっちゃうもんね)

 初めて、このお店に来た時の、自分。

 お姉さんと(まなぶ)の仲を、疑って、考えて。

 でも……なにもしない。

 しようとしないけれど、ただ、感情だけをたくさん爆発させる。

 (まなぶ)にも、もしかしたらお姉さんにも。

 それは、相手のことを考えない練習メニューと、似ているのかもしれない。

 相手と一緒に走ろうとしないで、ただ、それがいいって決めつけることと。

(ぶつかって、ばっかりだったんだ)

 でも、そのぶつかりも。

 わかろうとしない、独りぼっちの気持ちも。

 ……この場所のおかげで、優しくしてもらえた気がする。

「わたし、いろいろ教えてもらえて……本当に、嬉しかったんです」

「私も、楽しかったですよ」

 どうしてか、わたしは今初めて、ようやくお姉さんという人と話せたような気持ちになっていた。


 だから……つい、気がゆるんで。

 もう一つの泣いた理由を、言ってしまった。


「でも……お姉さんは、ずるいです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ