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視界の広がるあの場所で - 24

「えっ……」

 だから、驚いてしまった。

 結婚、だなんて言葉。

 普段は、聞くものじゃなかったから。

「そ、それって、その彼じゃないんですよね」

「はい。もう、何年も付き合って、婚約した方がいるんです」

「そう、なんですか……」

 頭に入ってきた単語が、残ってしまって、うまく反応できない。

 改めて、お姉さんの顔を見る。

(違う……)

 眼に入ってきたのは、さっきまでと同じ、お姉さんの顔。

 けど、そこに浮かんでいるのは、今まで見たこともない表情。

 なめらかな唇を甘く開いて、ふんわりした頬をゆるめた、泣きそうにも見える微笑み。

 それは、いつもこちらを包んでくれる優しい笑顔と、似ているのに違うもの。

((まなぶ)や、わたしに見せてくれる顔と、違うんだ)

 でも……とても、綺麗。

 もしかすると、幸せな大人の人って、こういう顔をするんだろうか。

 そう想いながらわたしは、結婚という話題を想い出し。

「あの……。おめでとう、ございます」

 どこかぼんやりとした心地で、ようやく、それだけを答えていた。


 ――この幸せな笑顔を、わたしは、見てしまってよかったんだろうか。


「ありがとうございます。あの、気を使わせてしまいましたね」

「いえ……。わたしこそ、プライヴェートなことなのに」

 頭を使うようになったって言われるけれど、やっぱり、性格はなかなか治らない。

 相手の私生活に気を使わなすぎて、反省する。

 お姉さんに怒っている様子はなくて、よかったけれど。

 ……わたしが、今の言葉を聞いてよかったのかは、やりすぎな気もした。

「彼には、まだ、伝えてないけれど」

 お姉さんの一言に、考えが追いつかない。

「彼って……」

 だって、そんな悩むような、お姉さんの声。

 困り事を考えているみたいな、声の低さは、聞いたことがなかったから。

「……それは、誰のことですか?」

 混乱しながらそう聞き返して、わたしも、誰のことなのかを考える。

 お姉さんが結婚する、彼氏のことだろうか。

(でも、わたしが知っているはずもない人を、話に出すだろうか)

 それに、結婚する相手なのに知らないって、そんなおかしな話はないよね。


 ――じゃあ、誰なのか。

 答えを知っているのに、それでも、聞くのを心が止めてしまう。


「雑誌コーナー……スポーツ系の、あたりでしたか」

 お姉さんは指先を伸ばして、ある一角を指さす。

「えっと……なんの話ですか?」

 全然違う話をふられて、さらに頭が混乱するわたし。

「あそこから、ずっと、見られていましたよね」


 ――そしてその言葉に、混乱が、違うぐちゃぐちゃを生んで。


 お姉さんの冷静な言葉が、なにを指しているのか。

 わたしの胸に、以前に感じた後悔と恥ずかしさが、ばっとあふれてくる。

「えっ、っと、う……!」

 驚いて、ちゃんとした言葉が浮かんでこない。

(もしかすると、ずっと、知っていたのかな)


 "何度かご来店いただいている方は、覚えていますよ"


(初めて会った時にも、そうだ、そう言われたんだ)

 それに、あの時感じた、知っているのかもって不安。

 そんな心を読んだように、お姉さんが言う。

「初めて見た時から、気にはなっていたんです。立場上、格好も気になっていたんですけれど」


 ――お姉さんは、気づいていた。

 そしてわたしが、なにを見ているのかにも。


 想いかえして、恥ずかしさがわき上がってくる。

 振りかえれば、サングラスにハンチング帽だなんて、漫画みたいなコーディネイト。

 なにより胸が落ち着かないのは、自分に対して。

 ……変装までして、(まなぶ)に会いたいだけなのをごまかして。

 ましてや、二人の様子を、覗き見するなんて。


(……最低じゃない)


 落ち込んだわたしに、お姉さんは優しく微笑む。

 その顔を見るのが恥ずかしくて、つい、眼を背けてしまう。

「もしかすると、って想って、注意はしていたんですね。本屋にとって、いろいろと気になるものも多いですから」

 声をかけられたのも、目立っていたからなんだ……って、今になって気づく。

「万引きとか、イタズラとか、そういうのですよね」

「はい。疑ったのは、申し訳ないと想っていますけれど」

 ごめんなさい、と、お姉さんの声が聞こえる。

 そんな必要、全然ないのに。

 わたしは急いで顔を戻し、逆に、お姉さんに謝ろうとするけれど。


「彼と話しながら、あなたの動きも注意していたんです」


 それよりも先に、お姉さんの言葉が続いた。

「でも、すぐにわかりました。その視線の先は、ずっと変わらなかったから」

「……変わらなかった、ですか?」

 はい、とうなずくお姉さん。


 ……やっぱり、初めて会った時から、この人はわかっていたんだ。


「あなたが来るのも、彼が来る時だけ。そして、本じゃなくて、彼と私に視線が向けられているって」


 ――出会う前から、ずっと、お姉さんはわたしを見ていたんだ。

 隣で微笑む、成長を見続けてきた、特別な男の子。

 彼を見るわたしの視線に、気づかないふりをしながら。


「どうして、彼に言わなかったんですか」

 少しだけ眼をふせて、お姉さんは答える。

「それは……私が、干渉することではないですから」

 干渉することでは、ない。


 ――それは、もちろん、そうなんだろうけれど。


 じゃあ、と想った口が、自然に開いていた。

「そんなわたしに、どうして、本をすすめてくれたんですか」


 もし、この人が全てに気づいていたなら。

 (まなぶ)が、隣にいて欲しいと。

 そう、願った人が。

 あいつのことばかり見ている、わたしに気づいて。

 初めから、お姉さんが彼と一緒に、走っていないのだとしたら。


「本を、探しに来たんじゃない……。気になる人の、好きなことも理解できないわたしに、どうして……」


 ――見ているばかりで、押しつけるばかりで、相手のことを聞こうともしていない。

 そんな、わたしに。

 (まなぶ)は、わたしがなにをしているのか見ていて。

 間違いも、教えてくれていたのに。


「どうして……」

 かすれた声を出すと、お姉さんと本屋の景色が、どんどんにじんでいく。

(うそ、やだ、おかしいよ……っ)

 両手を急いで、にじんだ眼の前に持っていく。

 ……両手には、少しだけ、流れ落ちる雫を感じた。

 子供の頃から、ケンカをしても、練習が辛くても、流さなかったものなのに。

 いったい、いつ以来なのか。

 ぜんぜん、わからない。

(眼の前が、溢れだして、止まらなくなりそうだよ……)

 声に出せない想いを、必死に、抑えようとしていると。

「……こちらを」

 そっと、柔らかい感触が手に当てられる。

 少しだけ、顔にある手をゆるめて、濡れた眼でそれを見る。


 清潔な匂いの、花柄のハンカチ。

 ふんわりした手触りが、すごく、優しくて。


「……」

 無言で、お姉さんの細い指先から、優しさを連れていく。

 眼に当てると、その優しさが、わたしの涙で濡れていくのがわかった。

「……すみません」

 お姉さんは小さく言って、わたしの背へ、軽く手を当てる。

「少し、よいですか」

 声といっしょに、空いている手にも、温もりが伝わる。

 それから、背中と手に少しだけ力を入れて、ゆっくりと歩きだした……みたい。

 わたしもそれにあわせて、お姉さんの動きのままに、足を動かす。

 顔と片手は、動かせずに、そのまま。


 ……目元にたまった涙を、こぼれ落ちないように必死だったから。

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