視界の広がるあの場所で - 23
どきり、と心臓が跳ね上がる。
……同じくらいの歳で、同じように話しあえて、同じように本を読む誰か。
「そ、そうなんですか。どういう子なんです?」
心の中をがんばって落ち着かせて、話をあわせる。
(そうよ。いったい、誰のことなんだろう)
頭の中に浮かぶのは、もちろん、一人だけ。
でも、もしかすると、違う子かもしれない。
学校の知り合いも、女友達も、たくさんここに来ているんだし。
――必死にわたしは、浮かぶ一人の顔を、違うって想おうとした。
なぜか、わからなかったけれど。
お姉さんに、彼の名前を、言ってほしくなかったから。
「不思議な縁、なんです」
「不思議な、縁……」
「ええ。すごく小さい頃から、知っている子なんですよ」
……でも、その一言で、誰を指しているのかわかってしまう。
そんなに昔から、この本屋さんへ通って。
そして、わたしが見ていたような笑みを、浮かべさせる人。
(やっぱり、覚えているよね)
――彼にとって、特別であるように。
――お姉さんにとっても、彼は特別なのか。
「小さいって、今は、わたしと同じくらいなのに?」
「この書店が出来て、すぐの頃ですから……十年近く、経つでしょうか。ご両親と一緒に、よくここへ来られていたんです」
「……女の子、なんですか」
わかっているのに、わたしは、問いかけずにはいられなかった。
変わらないお姉さんの笑顔が、この時は、なぜか胸の奥を締めつける。
「男の子ですよ。今も、いろいろな本を探しに、ここへ来られるんです」
……やっぱりその子は、学なんだろう。
「その子は、他の子と違うんですか」
抑えて、おさえて……。
そう想いながら話す、自分の声。
なぜか、他人の声を聞くみたいに、遠く硬く聞こえてくる。
「違う、ということはないんですけれど」
お姉さんの表情に、少し困ったような様子が見えた。
……そんな気がした。
「ずっと、成長しながら、一緒に見つけてきましたから」
――ずっと、一緒に。
その言葉は、わたしにも、当てはまるはずなのに。
「違わない、のに。……その子は、ちょっと、特別なんですか」
同じ意味だとわかっていても、わたしは、聞かずにいられなかった。
だって、今、わたしに見せたお姉さんの表情。
……いつも、お店で浮かべているものと、違うように感じてしまったから。
(もっと読んでいれば、調べていれば、聞いていれば。……もっと、わかったのかな)
手元の本を握りながら、そんな、もしものことを考えてしまう。
……知っていたとしても、むしろ、気持ちが暗くなるだけだってわかっているのに。
(どうして、そんなに言葉を、探しているんですか)
言葉に迷う姿を、始めて見た気がする。
どんな相談にも、どんな本でも、お姉さんは優しい返答をしてくれた。
わたしの耳と心に、心地よい言葉を、返してくれた。
……なのに、今のお姉さんは、すぐに言葉を選ばない。
視線は、何かを考えるように、本の間を行き来して。
手元は、なにかを探るように、もう一方の手を撫でている。
――言いよどんでいるお姉さんは、新鮮で。
でも、その新鮮さが、胸の奥を暗くさせる。
ゆっくり、お姉さんは口を開く。
少しだけ、困ったような笑顔を、造りながら。
「……そうですね。少し、違うのかもしれません」
「そう、なんですか」
答えを聞いて、ふっと、ある考えが浮かぶ。
お客さんたちのいる手前、『違います』と認めるのが、いけないことだったのかもしれない。
無理に、そうした答えを聞いてしまったんだろうか。
そう考え、わたしの気持ちが、また少し重くなる。
代わりに、認めたお姉さんの顔は、どこか晴れやかなものに変わっていた。
「そう、やっぱり違うのかもしれません。彼の成長を見つめるのは……私にとっても、とても大切な時間だったんですよ」
ゆっくりと熱が漏れ出るような、お姉さんの色づいた言葉。
「……そう、なんですね」
わたしは、無感情に、受け答えて。
(やっぱり、そう、なんですよね)
――手元の恋愛小説を、強く、握りしめてしまう。
この本の中に、どんな物語が書かれていたとしても。
……それは、今のわたしを、助けてくれるものなんだろうか。
わたしが今、感じている以上のざわめきを、越えるものがあるんだろうか。
八つ当たりなのは、わかっていた。
本に罪はない。
でも、そんな不安を感じてしまったわたしは、お姉さんから眼を離せない。
――彼女も、彼のことが、気になっている。
その、事実に。
「……あの」
「はい?」
「年下の男の子に……興味は、あるんですか」
「……えっ?」
戸惑うようなお姉さんの顔を見て、わたしは、ようやく冷静になった。
そして、自分がなにを言ったのかを、ちゃんと理解してしまう。
「……っ!」
顔を下げて、唇を強く閉じてしまう。
熱くなった頬に、顔がどうなっているのかわかったけれど、どうにもならない。
……初めて、お姉さんと会った時と同じだ。
ちゃんと顔をあわせて、向き合えない。
そんな、恥ずかしさでいっぱいの、感覚。
(なにを、言っているのよ)
……聞くべきなら、もっと、良い言葉があったはずなのに。
顔が見えなくなっても、お姉さんが、そこにいるのはわかった。
なかなか答えが返ってこなくて、それに違う話題も出てこないのは、困っているからなんだろうか。
「……どう応えればいいのか、困る質問ではありますね」
少しだけ、困ったように笑いながら、お姉さんはそう言った。
わたしは、頭を上げる。
ずっと頭を下げているのも失礼だから、ちゃんと、眼を見て謝る。
「そう、ですよね……。ごめんなさい」
わたしの言葉を聞いて、お姉さんの口元の笑みが、薄くなった。
それから、唇に指をよせて、考え込むように視線をそらす。
色づきのよい唇に、細くきれいな指先が、触れる。
その姿が、いつもよりもっと大人に見えて、どきっとする。
「……気になりますか」
その仕草のまま、眼だけを、わたしの瞳にあわせてくる。
いつもの優しい微笑みとは違う、面接のような、どこか怖い感じ。
でもなぜか、誘われているような、変な気分にもさせられる。
……そんなこと、ありえないのに。
(気になる、けど……なにが、気になる?)
心臓がどきっとして、落ち着かないのが、はっきりとわかった。
驚きすぎて、わたしの眼と頭のなかは、お姉さんの顔しか見えていない。
そこには、しっかりとこっちを見る、二つの瞳。
それは、本をすすめてくれたり、楽しそうに話をする時とは、違う輝き。
黒くて、考え深くて、惹きこまれる。
――お姉さんの見せる別の表情に、わたしは、不思議な魅力を感じていた。
(……今、気になるのは、どっち?)
自分に問いかけて、でも、答えは知っている。
二度、驚いたからだろうか。
わたしの顔からは、もう赤みも引いて、考えもすっきりとしたものになっていた。
だから、さっきは変だと想っていた質問も、今ならちゃんと言える。
「はい、すみません。どうしても、聞かせてほしいんです」
一度、深呼吸をして。
今、聞きたいことを、ちゃんと伝える。
――新しいページを、開くために。
「……彼のことを、どう想っていますか」
嘘のない、答えの欲しい、お願いを口にする。
……それは、今にして想えば、最初から持っていた疑問と不安。
お姉さんに、本当は、ずっと聞きたかったことなのかもしれない。
(いろいろ、お話しできること。……本当に、楽しかった、けれど)
もう、ここで見てはいない、二人の時間。
見なくても、お姉さんと話せれば楽しい。
……そう、自分をごまかして。
二人の時間を見るのを、避けていたのかもしれない。
想像でも、現実でも。
そんな考えも、頭に浮かぶけれど。
自分の本当が、わからない部分も、あるけれど。
――わたしは、二人が笑いあう姿に、苦味を感じていたのかもしれない。
(お姉さんの、彼への想い。……答えて、もらえるんだろうか)
……答えられたら、どうすればいいんだろう。
もし、「興味、ありますよ」って、答えられでもしてしまったら。
(珍しいことじゃ、ないもんね)
テレビや新聞でも、歳の差カップルの報道はたまに見かける。
お姉さんと私達が、どれだけ離れているのか、知らないと今気づいたけれど。
(わたしより、ずっと、彼のことを理解しているんだよね……?)
……わたしは、いろいろなことを、想像してしまっていた。
もし、こうなってしまったら、っていう妄想みたいなものだけれど。
その間も、お姉さんは、じっと立っていた。
いつもよりも、なにか言いたげに、口元を揺れ動かしながら。
……あぁ、そうか。
憂いを帯びた顔って、こんな顔を、言うんだろうか。
「……私ね」
しっとりと、まるで梅雨の時期を感じさせる息づかいで、お姉さんは言った。
わたしの想像できない、ある事実を、告げるために。
「――今度、結婚するんです」




