視界の広がるあの場所で - 15
※※※
心の片隅では、まだ、お姉さんへの複雑な気持ちを持ってはいた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。本日は、どのような本をお探しですか」
それでもわたしは、楽しみになっていた。
練習が少ない日や、たまの休日に、その本屋へ行くことが。
(気づけば、足が向いちゃうんだよね)
理由は、お姉さんと話してみたいのが一つ。
それと、あんまり負担にならないくらいで、今までとは違う種類の本を読んでみようと想ったのが一つ。
――その二つは、とても新鮮なことだった。
ふりかえれば、自分でも不思議だって想えるくらい、特別な時間をすごしてる。
それまでの自分とは、まるで違うことをしているって、感じちゃうくらいには。
「……この本の、このあたりのことが気になっちゃって……」
「なるほど……。それでは、こちらの本はいかがでしょうか」
お姉さんに、いろいろな本を薦めてもらい、少しずつだけれど読んでいく。
最初は、わたしの好みと少しズレたような本もあった。
……読んでてもよくわからなくて、頭が痛くなったこともある。
けれど、お姉さんの選びが当たるようになったのか。
それとも、わたしの頭がちょっとだけ慣れてきたのか。
――次第に、そういったことも少なくなって。
わたしは、なんとなくでも本を眺めるのが、楽になっていった。
少し前に、本棚が怖いだなんて想っていたのが、嘘みたいに感じる。
……あまり難しい字は、今も苦手だけれど。
(でも、聞けばいいんだもんね)
そう想えるようになったのが、なによりの変化。
一緒に、話し合える人がいる。
気に入った本を、教えあえる。
そんな相手がいるのは、とっても嬉しいことだった。
友達と遊んだり、新しいお店に行ったりしていたのと、似ているけどちょっと違う楽しさ。
――お姉さんと話して、今まで知らなかった、違うことを考えていると。
……逆に、部活で走っている自分が、どこか遠くに感じる時がある。
(……あの頃は、ぶつからなかった、のかな)
ふと、あることを想いだす。
部活に入って、ある程度を過ぎた頃。
仲が良くなった友達と、一緒に練習メニューを組んでいた、あの時を想い出す。
少しだけ意見が違うけれど、同じ目的に向かって、時間を作る楽しさ。
あの頃の自分と、今の自分。
その二人は、同じわたしなんだけれど、少し距離を持って考えられるようになった。
……どうしてその友達と、今、自然に話すことができないのか
一緒に、メニューを組むことを、していないのか。
わたしは、ちゃんと、あの子の意見を聞いていたんだろうか、とか。
(これも、本を読むようになったから、なのかな)
前より、ちょっと考えてものを見るようになった気がする。
……するだけ、だけれど。
(でも本って、いろいろなのがあるんだね)
お姉さんと話し始めてから、数えきれないほどのその世界に、わたしはずっと驚きっぱなし。
最初は漫画が多かったけれど、次第に人物の自伝や雑学の本、ちょっと避けていたファッション系の本も改めて眺めるようになり。
……そうしているうちに、気づいてしまった。
本を読むってことが、そんなにイヤじゃなくなっていることを。
そして、イヤだった理由も、今ちょっと読めてしまっている理由も、わかってしまった。
(わからなかったから、じゃなくて……)
――そして、ある日のこと。
お姉さんが横にいる時、わたしは、ぽつりと自然にもらしていた。
「わたし、全然知らないで……避けちゃっていたんですね」
この本屋も、自分のやっている以外のことも、お姉さんのことも。
学が、本を楽しみながら、読んでいる理由も。
部員のみんなが、自分達の考えるバランスで、目標に向かっているのも。
「わかろうと、していなかったのかも、しれません」
本当は、知らずにいて、楽をしようとしていたのかもしれない。
――色々な考えが、あるってことを。
部活のことも。
あいつのことも。
自分のことも。
……それはみんな、たくさんあるうちの、一つの考え。
でも、その一つの考えは、とても大切なもの。
わたしは本を読み始めてから、ちょっとだけ、そんなことを考えるようになれた。
(走ることの方が好きなのは、変えられないんだけれど)
そんな自分を振りかえりもできて、苦笑い。
身体を動かすのも、やっぱり、とても気持ちがいい。
(……いろいろな考えは、スポーツだって、そうだよね)
そして、その好きなことにも、本を読む影響は出ていた。
他のスポーツのことや、身体の仕組み的なもの。
好きなこと以外の基礎知識も、お姉さんはわかりやすい本を教えてくれた。
……先生や先輩にも、確か、教えてもらったことがある本もあった。
(あの時は、自分の考えばっかりで、ざっと眺めてるだけで終わっちゃった)
――見るのと読むのは、ぜんぜん違うこと。
書かれていることを、どう考えて、受け取るか。
ちゃんと調べながら読んでみると、自分の言っていた考えに、頭を抱えちゃう。
参考にした憧れの選手の、練習方法や環境。
考えもせず、ただそうした方がいいって、みんなをふりまわした。
……周りを見ずに、想いこんでいたんだって、すごく反省した。
(本当、ちょっとしたフォームの悪さだって、気づけなかったのに)
書かれていることを参考に、気づいた部分を直しただけでも、記録が良くなったのは嬉しかった。
――それは、つい、この間のこと。
少しだけ、また言葉を交わせた、あの時のこと。
※※※
ストップウォッチの音と、告げられた数字に、小さくガッツポーズした記憶。
(そう。ちょっとだけど、変わっていってる)
淡々と告げられた数字を、心の中で喜んだわたし。
今までの自己ベストより、少しだけど、縮んでいた。
喜びながら息を整えていると、耳に、ふっと入ってきた声。
「……よかったじゃない、記録」
それは、しばらく話していなかった、先輩のものだった。
「あ、ありがとうございます!」
小さな誉め言葉に、わたしは驚きながらも、満面の笑みで感謝する。
「少し変わったね、柔」
「そう、ですか?」
「あぁ。……さて、片付けしようか」
言葉は少ないけれど、その先輩の言葉は、以前よりも優しくなっている気がした。
……いろいろと物思いをするようになってから、部内の空気も変わっているのがわかった。
わたし自身も少しだけ、周りを見るように意識するようにしたのも、あるのかもしれない。
先輩達の表情をよく見たり、後輩達の動きに注意したり。
当たり障りのない範囲で、協力したり、アドバイスをしたり。
……以前みたいに、部活のこと以外も話すほど、戻りきってはいないけど。
(前からこうなら、もっと、ちゃんとできたのかなぁ……)
――そんな後悔を感じながら、でも、ぎこちなくだけれど。
あの頃の楽しさに、近づいているような気がする。
※※※
「……もっと早くにわかってればな、って、考えちゃうくらいに」
暗い声をしながら、わたしは、お姉さんに会いに来ていた。
少しずつ、気づいたことや想ったことを、話せるようになっていたから。
……本のこと以外で、本当は、迷惑かもしれなかったけど。
お姉さんは静かに、本の話をする時と同じように、優しい瞳を向けてくれる。
「もう、知っているじゃないですか。そんなに、ご自分を責めることはないと想います」
部活のことや学校のことは、詳しくは言っていなかった。
でも出会った頃から、わたしが悩んでいるようには、感じていたみたい。
それが、最近は少なくなったって、お姉さんは言ってくれた。
今の言葉も、そう想ってくれているから、なのかもしれない。
「……そう、ですね」
わたしも頷いて、そう考えるようにする。
悩んでいても、なにかが変わるわけではないのだから。
それに今のわたしは、部活以外にも、楽しみが増えたのが嬉しくてしょうがない。
もちろん、第一は部活の方だったし、友達との遊びもあった。
お金にも制限があったから、この本屋さんにも、いつも来れるわけじゃなかった。
――ただ、お姉さんと話す時間は、他の時間とおなじくらい嬉しいものだった。
もちろん、お姉さんの仕事の邪魔にならないように、気は使っていたつもり
……だけれど。
(でも、気を使われているのは、わたしなのかも)
学とブッキングしないように、店内の様子などを確認しながら来店してもいた。
何度か、店内ではち合わせしそうになったこともあるけれど。
見つかりそうな時は不思議と、あいつからは見えない位置に移動していることが多かった。
「すみません、今日はここまでで。またのお越しを、お待ちしております」
そう言って、お姉さんはあいつのところへ話しかけに行く。
(……わかって、るのかな)
お姉さんの笑みは、優しくて、嘘がないように想える。
ただ、学とその本屋で出会わないことは、不思議で奇妙なことだった。




