視界の広がるあの場所で - 09
ふぅ、とため息を一つして、また二人の様子を見る。
そして、学の顔は、今も昔も一緒だ。
サングラスの暗さは、今もまだ慣れない。
でも、はっきりしてなくて、よかったかもとも想う。
だって、暗がりのなかで眼に映る、あいつの顔は。
……わたしの前では、決して見せない、明るい笑顔ばっかりだから。
(……っ)
自分の口元が、変なふうにヨっているのが、見なくてもわかる。
シワができやすくなるって聞いたから、やりたくはないんだけれど。
考えれば考えるほど、胸のなかの想いと一緒に、シワも出ちゃう。
(なによ、あんな顔……そんなに、本や、あの人の方がいいわけ?)
棚に詰め込まれた、文字の羅列。
これを読んだからって、人生に何の役に立つって言うの?
この本棚の本を読んで、いろいろ考えたからって、わたしの悩みが解消するって言うの?
でも、本の話をしながら、あいつが見ているのって、本当に本なの?
(……あの、お姉さんの方が、いいってわけ?)
ぎゅっと視線を強めて、隣の店員さんを見てしまう。
あの女の人に、悪いことはない。
お店の人として、あの夢見がちの相手を、きちっとやっているだけなんだから。
(むしろ問題があるのは、あいつの方だよね)
もう二十分以上、あの店員さんと話し合っている。
仕事の邪魔じゃないんだろうか。
そうして、わたしがギュッと見つめていると。
「……?」
店員のお姉さんが、こっちの方を見た気がした。
(!)
眼を合わされた気がして、手元の雑誌に眼を移す。
スポーツ雑誌へ眼をやりながら、わざとらしく記事を読むふりをして、ふつうのお客さんっぽいふりをする。
……そんなふり、する必要は、ないのかもしれないのだけれど。
(なんか、悪いことしてる気分……)
……問題があるって、わたしもそうか。
直接言えないで、こうして、変質者っぽい行為で独り悩んでいるだけ。
そういえば、覗き見ってこういうことを言うんだっけ。
……一番悪いのは、やっぱり、わたしだよね。
落ちこみながら、少しだけ雑誌をパラパラとめくる。
偶然、興味のある記事が載っていたから、気持ちをごまかすように、ちょっとだけ読んでみる。
暗くて読みづらかったけれど、自分の好きなことに関しては、文字を読むのも楽しいな。
(……いけない、つい読んじゃった)
集中しすぎるのも、わたしの悪い癖だ。
ちょっとだけ、学と女の人のことを忘れてしまう。
雑誌を棚に戻し、さっきの二人の位置にも、眼を戻した。
(あ、あれ?)
楽しげに話していた二人の姿は、もう、そこにはなかった。
カウンターの方から、「ありがとうございました」という声が聞こえたので、そっちへ身体を向けようとすると。
「あの」
「ひゃ、ひゃい!?」
背中から急に呼びかけられ、わたしは想わず変な声を上げてしまった。
「す、すみません、驚かせてしまいまして。大丈夫ですか?」
心配したような声に、慌てて反応する。
「は、はい、大丈夫です……」
頭を下げながら、顔が真っ赤になっているのがわかる。
動けなくなったわたしに、声をかけた人が、優しく話しかけてくる。
――少しだけ、聞き覚えのある声。
「本当に、大丈夫ですか。お顔が赤いようですけれども」
それは、遠くから耳に入ってきていた、あの人の声に似ている気がした。
下げていた顔を上げて、声をかけてきた人を、ちゃんと見る。
「……ぁ」
そして想わず、小さな声が口から出てしまう。
(あの、店員さんだ)
ショートボブのきれいな髪に、優しそうな顔をした、大人の女性。
……間違いない。
さっきまで、学が話しかけていた、あの女の人。
――そして、ずっと憧れている、憧れの店員さんだ。
ただその顔には、不安そうな感じが見える。
「もし、具合が悪いようでしたら休憩室にお連れしますけれど……」
その原因は、どうもわたしみたいだった。
心配してくれる声に、慌てて答える。
「あ、はい! だ、大丈夫です!」
答えた声がまた高くなっちゃって。
……顔が熱いのは、もう、どうにもならない。
(大丈夫じゃないのは、さっきまでなにを見てたかだし)
恥ずかしさと申し訳なさで、頭がぐちゃぐちゃになってる。
「あの、ちょっと考えちゃってて。本当、大丈夫ですから!」
心配させちゃマズいし、なにより、本当に大丈夫なのだ。
ばたばたと両手をふって、なにもないことを強く言う。
最初は不安そうな顔をしていた店員さんだったけれど、少ししてから。
「……わかりました」
一言だけ呟いて、ちょっとだけ微笑んでくれた。
その笑顔に、焦りとは違う驚きを、感じちゃう。
だって、包んでくれるような安心した笑顔が、すごく大人っぽいから。
(……ちょっと、ドキッとしちゃった)
同級生にはない雰囲気に、わたしは少し見とれちゃう。
熱くなっていた顔が、少しだけ、落ち着くのがわかった。
「考え事……。なにか、本をお探しですか?」
店員さんは、見た目そのものの親しみやすい声で、わたしにそう聞いてくれる。
事務的な言葉なんだけれど、どうしてか、答えたくなってしまう声だった。
「え、えっと……」
なのにわたしは、逆にうまいことが言えなくて、口が回らない。
(だ、だって、言えないじゃない)
それは、そうだ。
探しているのは、本じゃなかったから。
……違う、人の、姿だったから。
言葉の出ないわたしに変わって、店員さんが口を開く。
「いつもスポーツ雑誌を見られているのは、知っていたんですけれど」
「え? そんなこと、わかるんですか」
驚いて、想わず聞き返してしまう。
最近、来ている回数が増えたとはいえ、学なんかと比べれば全然だ。
雑誌も、毎回買っているわけじゃなかったのに。
そんなわたしにも、店員さんは学と変わらない笑みを向けてくれる。
「何度かご来店いただいている方は、覚えていますよ。もちろん、だからといって強要はしませんけれど」
当然とばかりに明るく言われ、わたしは、逆に居心地が悪くなる。
(見られてるんだな……)
つまり、と、わたしの気持ちが重くなる。
わたしが、ここに来ている理由。
……本じゃなくて、あいつと店員さんとの間を見ているのも、わかっているのかもしれない。