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白い世界の橋渡し

作者: ヤギ次郎






1

5月のある朝、人差し指を立ててみた。指の先端に白い糸が結ばれている。


「今日も大丈夫」

そう言ってぼくは深く息を吐き、そして感謝する。どこというわけでもなく、誰にというわけでもなく頭を下げる。

簡素な八畳間には、二段ベッドと机が2つ。テレビはない。その代わりはち切れんばかりの朝陽が部屋中に降り注ぐ。


首部を垂らしているぼくに、なにやってんだ、とルームメイトの高松が怪訝な顔をして言った。朝飯の時間だ、早く行くぞ。



食堂では、数人の寮生たちがいて、各々に飯を食べている。年齢幅は広い。20代から50代まで。ぼくは25歳で、高松は28だ。

食堂中央では、56歳最年長で寮長の山下さんが新聞を読みながら焼鮭をつついている。

彼は糖尿病持ちなので、白米は少ししか食べない。

おはよう、と山下さんがぼくと高松に言った。お前らいつも一緒だな、そう笑った。


高松はバイセクシャルなのだが、ノンケの人間には手を出さない。だからぼくとはそういう関係ではない。

もっとも周囲はそうは見ていないだろうが。

そのようにして、この寮には様々な人がいる。共通しているのは皆、修習生だということだ。


紐帯士(ちゅうたいし)になるための。




朝の身支度を整えると、我々は研修所へ向かう。寮から地下鉄2駅分の場所にそれはある。

修習生は100人弱。所定の科目を無事履修できた者だけが晴れて紐帯士になれるというわけだ。


午前は主に座学が多い。難関の国連試験を突破した者だけが集まっているだけあって、誰もが真剣に講義を聴き入り、教科書に目を落とし、ノートに書き込む。



午後は実践的な講義が主だ。

今日は2人一組になって糸を出す練習をした。


ぼくは、金沢りこという大学を卒業したばかりの女の子と組んだ。


「私は恋愛特化型の紐帯士になりたいんです。だから赤い糸を出す練習をします」


ぼくは作り笑いをした。そうなんだ。


「うん。そういうキューピッドになって恋人たちが甘いものを食べている姿なんかを微笑ましく眺めるの。それがわたしのしあわせなんです。それにわたし自身も甘いもの好きですし」


彼女はそう言って、ぼくの指先に触れ呪文を唱えた。彼女の温もりを感じるも、ぼくの薬指からは一向に赤い糸が出る気配がない。


彼女は真剣な顔で呪文を繰り返す。

額から汗が流れ、顔が紅潮している。首を回しながら唸ったり、奇声をあげたりするも何も変化がない。


――そこまで。


担当教諭が言った。彼女はまだまだだめね、とため息をついた。


それじゃあ、俺はそんな金沢さんに「笑顔」が繋がるよう水色の糸を出すよ。


ぼくはそう言って彼女と交代した。

りこの小さい手を包み込む。手順通りに3秒息を吸って6秒かけてゆっくり細く吐く。そして呪文を唱えた。


彼女の指先がぼおっと光り、水色の糸が出現し、その指先に絡み付く。そして糸はしなやかに延びていき、高松に繋がって行った。


授業終了のチャイムが鳴った。

――そこまで。

担当教諭が言う。


うまく行ったの?

りこが聞く。

たぶん、とぼくは自信ない声で答える。

それじゃあ、しっかり復習するように、と教諭は教室を出た。


高松がやって来て、金沢さん、確か甘いもの好きだったよねチョコートがひとつ余っているからあげるよ、なんでだろう、急に君にあげたくなったんだ、と言った。


ありがとう、とりこは笑った。そして口を両手で抑えてぼくに糸の効果あったね! とまた笑った。






2

月を眺めているととても気持ちが癒される。

勉強の合間に窓を開けて月を眺めるのが日課となっている。高松が寒いから窓を閉めろと言った。

それに聞こえないふりをして月を見上げている。


紐帯士とは、人と人、人と物、或いは、物と物だったり場所だったり、時にはあの世とこの世すらを結ぶ職業だ。



現代社会は何かと何かの繋がりが希薄になっているのが実情だ。

そこから生まれる孤絶や退廃思想、自死、暴力、殺人等、経済損失は計り知れない。


かつて自分もその希薄さの被害者の1人だった。


ぼくの父親は金貸しだった。

しかも違法な利息をつけて金を取り立てていた。

人々から怨みを買うにはそれだけで充分過ぎる理由だ。


当時ぼくはまだ9歳だった。


ぼくには3つ上の兄が居て、兄弟で千葉ロッテマリーンズの大ファンだった。いつも2人でキャッチボールをしていた。

兄が大好きだった。


ある日曜日に両親と兄との4人でロッテ対西武のデイゲームを観ることになり、家を出た途端、古びたブレザーを着た男に包丁で刺された。


両親は即死だった。

きれいに心臓を一突きされた。

兄はぼくを庇った。

そして親よりも多く刺されて絶命した。

変に逃げてしまったぼくだけが半端に刺された。

背骨の辺りに刃が入り、神経がずたずたに切断され障害が残った。左半身が思うように動かなくなったのだ。



そういう風にしてぼくは心を閉じた。


病室で誰ともまともに話をせず、言うことも聞かず、何年も過ごした。

リハビリを拒否し退院することも拒んだ。


医師や看護師たちもいつしか諦め、ぼくは腫れ物のような扱いになった。


身体の不自由は自らの意思ではなかったが、心の不自由は自分の選択だった。

それくらい選ばせてくれてもいいだろう? そう憎しみ込めて天に唾吐いた。




その紐帯士がやって来たのは、そんな荒廃した日々を送ってた春の日だった。


その時、彼女が病室で言った言葉は今でも覚えている。


どうか、私を助けて下さい、と。


彼女、つまり斉藤さんはそう言った。

斉藤さんは決して美人ではない。どちらかというと、不美人の類いに属すると思う。

眼鏡に薄い化粧にのっぺりとした幸の薄そうな表情。


こう言っては失礼なのだが、だからこそぼくは彼女と自然に接することができたのだとも思う。


その時斉藤さんはこう続けた。


実は私の知り合いがあなたと同じようになってしまい、身体だけでなく心もすっかり不自由になってしまったのです。


とても失礼だと承知していますが、あなたも心を閉ざしていると聞いてます。

そこで、どうしたら私の知り合いが再び心を開くと思うかあなたに尋ねてみたいのです。どうかアドバイスをください――それから、もうひとつ。今日は何日でしたっけ?




おい、聞こえないのか。いい加減窓を閉めてくれ。

高松が険のある声で言った。


そこでようやく窓を閉める。


高松は怪訝な顔で言った。


「どうして月を見ながらお前は笑っているんだ?」






3

――そういうわけで、古代マヤ人はイチジクの樹皮に絵文書を残したわけです。


その「コディクス」と呼ばれるこうしたマヤの絵文書のうち現存するのは4冊だけでした。


それ以外は16世紀にスペインからユカタンに着任したフランシスコ修道会出身のディエゴ ダ ランダの命令で焼却処分されたのです。


しかし、21世紀になって焼却から免れた5冊目のコディクスが発見されました。

それこそが、今日の紐帯理論の礎となる失われた呪文の数々が記されていた、知識と技術の宝、すなわち至宝の書だったのです。


そうして現代にも運命の糸を出す技術と、それを扱う紐帯士――当時のマヤでは「橋渡し役」と呼んでいたそうですが――復活したわけです。



教室で講師が熱弁している。


ふたつ前の席に座るりこはノートを取っている。

「コディクス」「ディエゴ ダ ランダ」「橋渡し役」そう言った単語は次回のテストに出てもおかしくない。

ぼくもノートに書き込んだ。


そして自分の人差し指を眺めた。「健康」を表す白い糸が、この教室と繋がっている。つまり紐帯士になる目標が今の心身を支えてくれている。


斉藤さんが結んでくれた糸だ。


当時、この糸は病院のリハビリ室と繋がっていた。

ぼくの境遇や環境、考えが変化する度に糸は繋がり先を変えた。



その汎用性の高さに、紐帯士の玉子の僕は改めて斉藤さんのスキルの高さに感心する。そして感謝する。

憧れる。

自分も斉藤さんのようになりたいと。


そしていつか、ぼくもかつてのぼくのような者の力になりたいと願う。

それはあくまでも専門家主導ではなく、当事者主体として。

中心にいるのはいつだって彼らでなければならない。我々はあくまでも橋渡し役なのだ。

そのようにして受け取ったバトンを誰かに渡して繋ぐ。


――斉藤さんがそうしたように。




だから、その日のグループ討論の授業のとき、高松が言った、糸を出して結ぶのは紐帯士だけの特権だ、という科白はどうしても受け入れられなかったし、それに深く同意して頷く金沢りこにも腹が立った。


確かに紐帯士は糸を結ぶことのできる業務独占資格であるから高松の言うことは間違いではない。


しかしながらその力があるゆえに紐帯士は常に倫理を重んじなければならないのではないか、ぼくがそう言うと、彼は別に軽んじている訳ではない、と鼻で笑った。


紐帯士だけができることを誇りに思ってなぜ悪い? そのために我々は時間を惜しんで努力しているのだから。

りこが頷く。


違う、紐帯士の本質は橋渡し役だ。我々は無意識に相手の理解に努め、観察力を磨き、透明感を心掛けて業務をする。前面に出るのはよろしくない。


よく言うよ。


高松は軽蔑した顔をぼくに向ける。


お前はあの世とこの世を繋げて亡くなった兄貴に会おうとしているくせに。

そんな個人的理由で紐帯士になろうとしている奴が、なにが橋渡し役だ。




その言葉はぼくを突き刺すには充分すぎた。






4

その週の土曜日、電車とバスを乗り継いでO市に行った。

海沿いの、やたらと坂と信号の多い街でもあった。


5月ももう終わりに近づいていた。空は夏空に近い。吸い込まれそうな青だ。


ぼくは目的地の施設住宅に続く坂道を上っていた。バス停からさほど遠くはないはずなのに、勾配の強さからすぐに息があがった。


施設に着き、ドアチャイムを押すと職員さんがやって来た。


あら、こんにちは。と言った。

ぼくも頭を下げる。


斉藤さんね。今ちょうどお風呂に入れ終えて髪を乾かしてあげていたところだったの。談話室に連れてくるからそちらで待ってて下さいね。



玄関先で今日の日付と時間、自分の名前と住所と電話番号を書いてから中に入った。


それは身分を証明するためのこの施設の決まりだった。

ぼくは一階にある談話室に入り窓際の席に座った。

窓からは小さな庭が見え、花壇にはチューリップとパンジーが咲いていた。


おまたせしました。


車いすに乗せられた斉藤さんが職員さんに連れられてきた。


「てつやさん、また来たの?」

斉藤さんが笑った。



てつやさんとは、昔の恋人の名前だということをぼくは以前、職員さんから教えてもらっていた。


斉藤さんに近づき手を握る。


斉藤さん、今日は機嫌いいのよ。さっきもお風呂のときにも鼻歌をうたっていたもの。ね?


職員さんはそう言った後、それじゃあごゆっくり。と自分の持ち場へと戻っていった。


ぼくはまた少し痩せた? と聞いた。彼女は何も答えない。目の焦点は合っていなかった。



若年性認知症アルツハイマー型。

兆候はぼくを支援していたころから見られた。今思えば。


斉藤さんは日にちを忘れることはよくあったし、料理のレシピもよく間違えた。

その時はおっちょこちょいな方だなと微笑ましく思っていたのだが、病魔は確実に彼女の脳を襲っていたのだ。



ぼくがリハビリを終え、手足が動いて歩けるようになり支援も終結した。

退院して学校に通うようになり自分も紐帯士になろうと国連試験の勉強を始めた頃、斉藤さんが若年性認知症で入院したと聞いた。


病院へお見舞いに行ったとき、彼女はすでにぼくのことは覚えていなかった。


退院して今の施設に移っても定期的に足を運んだ。覚えていなくてもいいのだ。

ぼくは彼女からしっかりとバトンを受け取ったのだから。


ぼくがリハビリを開始して手足がようやく動くようになった頃、リハビリ室で斉藤さんに言ったことがある。もう日は沈んでいて窓から月が見えていた。


俺も紐帯士になれるかな?


斉藤さんはそれには答えず「給料は安いわよ」と、悪戯な顔で笑った。





車いすに座る彼女の手を握りながら本当はもっと教えて欲しかったよ、と言った。



大事をなそうと知識と技術を求めたのに、最も教授して欲しかった人はなく、代わりに迷いを授かった。


人に優しくしたいがために愛情を求めたけど、家族は奪われ、強靭になるよう孤独を与えられた。


幸せになろうとして、力を与えて欲しいと願ったのに、謹み深く謙虚になるようにと否定を授かった。



求めたものは何ひとつ与えてもらえなかったけど、願いはすべて聞き届けられたと思っているよ。

祈りは叶えられたんだとね。だから今の俺は豊かなんだよ。



でもね、

ぼくは握る手に力を入れる。


それでも俺はこれから先どうすればいいのだろう?



斉藤さんは、窓の外を眺めていた。もしかしたら花壇のパンジーやチューリップを見ていたかもしれないが、それも知る由もない。虚ろな目であーあーと言うだけだった。



……ごめんなさい。また来るよ。


ぼくはそう言って車いすを押して談話室を出た。職員さんに挨拶をして車いすの斉藤さんを預けた。


外に出ると力強い日射しがアスファルトを照れさした。




夕食の時、寮長の山下さんがそういえば、おまえ充てにO市の施設の職員から電話があったぞ。なんでも携帯電話の番号にかけても繋がらないからこちらにかけたと。すぐに連絡が欲しいとのことだ。



どくん、とぼくの心臓は激しく動いた。嫌な予感がしたからだ。


斉藤さんの身に何かあったのだろうか?

直ぐ様スマートフォンを見たら充電が切れていた。舌打ちして部屋に戻り充電器を差し込む。


電話は生き返った。



そのまま施設に電話をかけると7コール目で職員が出た。



あ、良かった。電話が来ないから夜勤に引き継ぎして帰ろうとしていたところだったの。


昼間に対応してくれた職員さんが言った。


あのね、あなたが帰った後、斉藤さんがいつもと少し違ってたの。


泣きながらあの日は月が出ていたねって。


その後、こう続けたの。


「てつやさん、自分の価値観を信じてそれに従いなさい」


すごくはっきりした口調で。もちろんあなたはてつやさんではないけれど、この言葉はきっとあなたに向けられたものよ。

私には何のことかわからないけど、きっとそれは斉藤さんからのアドバイスだと思う。


聞いてる? ねえ? 声届いている?



ぼくはスマートフォンを握ったまま言葉にならない声で頷いていた。

堰を切ったように涙がぼろぼろとこぼれていく。


喉がざらざらとした。









深夜、外に出てみた。宙には満月が出ている。

月光が鈍い光りで周囲を照らしている。


ぼくは人差し指を立てる。

そして呪文を唱える。


斉藤さんが結んでくれた白い糸が銀色に変わりはじめる。


糸は、新たな結び先を求めて伸びはじめる。

ぼくはその行く先をじっと見つめていた。


白い世界につながるまで。













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