こころの距離
「ただいま」
そう言いながら、僕は引き戸を開けた。目に映るのは、正面にある窓から延びる日射しに照らされた白い机。それに繋げるようにして存在する白い大きなベッドと、そのそばに置かれた一つの丸椅子。
そして、ベッドの中に微睡む、僕の最愛の人。
僕は部屋に入るとすぐに扉を閉めると、彼女の眠るベッドの近くに置かれた丸椅子に静かに座った。そして、彼女に向き直ると優しく声をかける。
「今日はいいニュースを持ってきたよ。」
そう言ったが、彼女に反応はなかった。
それでも僕は話を続ける。彼女の手を両手で握りながら――
「なんと、明陽が結婚するんだ!」
――大袈裟な位に感情を露わにして、彼女のすぐそばで話しかけているのに――
「君のウェディングドレスを着たいって言ってね。着れるのかって訊いたら、焦ったような顔をして、『今すぐ着れなくてもダイエットする!!』っていってたよ。よく僕達の結婚式の時の写真を見ていたし、よっぽど着たいんだろうねぇ」
――それでも彼女は微動だにしなかった。
「あの子ももう結婚かぁ……あの子ももう24歳、時の流れは早いものだね」
僕は彼女の手を離すと、彼女を潰さないように静かに彼女の胸に耳を当てた。
部屋に響き渡る心電図の音の通り、彼女の鼓動は規則正しく動いている。仄かに頬から伝う熱が、彼女が生きている事を教えてくれる。
今、僕と彼女の距離は限りなく零に近い。だが、これで彼女に逢えたといえるのだろうか?まるで音信不通の文通のような一方的なやり取りに、酷く寂しさを覚える。
――触れたい……彼女の心に。
その時、視界の片隅に映るあるものが目に入った。彼女の頭を顔を覗いて覆い隠す無骨な装置に接続されたモニター、『脳波測定器』は、彼女が今、何かを感じていることを表している。
――わかるんだ……聞こえているんだ!僕の声が、温もりが……。
僕は、彼女に体重をかけないように気を付けながら起き上がると、再び彼女の手を取って彼女に向き合った。彼女と会話をする為に。
「相手の方もいい人そうだよ。あの子の事をよく見ていると思った。もっとも、娘をちゃんと見れなかった僕の感想だけどね。君も彼に逢って、是非感想を聞かせて欲しい」
そこまで言い終えた時、背後から扉が開く音がした。
「またこちらにいらしていたのですね」
聞き慣れた声だった。僕の妻担当の看護師の声だ。思えばこの人にも随分助けられたな。
そう思い立った僕は振り返り、彼女に感謝の意を伝える事にした。
「御池さん、いつもありがとう。今日もまた、お世話になるよ」
彼女は顔色一つ変えずに、されど穏やかな声音で答える。
「いえ、それが仕事ですから。それより院長、そろそろ脳内科の担当時間なのでは?」
反射的に腕時計を確認した。一見まだ余裕がある時間に見えたが、準備時間を入れるとそれほどの猶予が残されて無い事が脳裏に浮かんだ。
「そうだった。それじゃあ、後はお願いね」
立ち上がる前に部屋の主に、「じゃあ、行ってくるよ」と笑いかけ、僕は部屋を後にした。
伝えたい事は、まだたくさんある。彼女の部屋の棚にある『あれから』15年もの間の、言葉では説明できない出来事を記録した、幾つものアルバム。あれを彼女と見る時を夢見て、僕は今日へと旅立つ。
これからも僕は、諦めることはないだろう……。
――いつか、君とまた逢える。その日まで……。