真相と決着
「なっ……」
僕の言葉に、野呂は一瞬固まった。だが、すぐにぎこちない反論を返してくる。
「な、なに言ってるんだ、貴様は? 頭でも沸いたか? 俺はココアなんて――」
「お前の元カノから、全部聞いたよ」
「……」
野呂は絶句してしまった。しなしなと、全身から覇気が抜けていく。風船が萎むような勢いだった。
「野呂、お前、カカオアレルギーだったんだな」
僕が確認の言葉を投げかけると、野呂は力なく頷いた。
野呂の元カノから聞いた話は、こういうものだった。
野呂は小さい頃、ココアが好きだったらしい。いや、ココアだけではない。甘い飲み物はみんな好きだった。
だが、野呂家ミルクティー派の跡継ぎとして産まれた野呂は、親から飲み物を制限されていた。すなわち、ミルクティー以外の嗜好飲料は飲むな、というわけだ。
野呂は掟を破り、隠れていろんな嗜好飲料を嗜んでいた。ココアは中でもお気に入りだった。
だが、ある日突然、野呂はカカオアレルギーを発症してしまう。
鼻血が止まらなくなり、下痢や吐き気が野呂を苛んだ。それはもう死にたくなるほどのつらさだったという。
さらに、カカオアレルギーを発症したことにより、両親に隠れて嗜好飲料を飲んでいたことがバレてしまった。野呂はこっぴどく叱られ、以降、監視の目が厳しくなった。
それからの野呂は、次期当主としてミルクティーの腕を磨いた。他の飲み物には見向きもしなくなった。むしろ、忌み嫌うようになった。それが自分の勤めだと考えるようになった。親の教えを破ったから、自分はあんなに痛い目を見たのだと。
とりわけココアに対しては、かなり強迫的な恐怖を抱くようになった。目に入れるのもいやだというふうに。
野呂は、ココアを見たらつい飲んでしまいそうで怖かった。またあんな症状が現れるのも、親に叱られるのも、さらさらご免だった。だが、なぜか頭から離れないのは、幼い頃に飲んだココアの味だった。
親の勧めで私立嗜好飲料学園に入学した野呂は、何度もココアの誘惑に負けそうになった。すべてはココア学やココア部があるのがいけないのだと思った。それらが目の届かないところ、耳の聞こえないところにあれば、苦しむことはない。意識することはない。野呂はそう考えた。
祖父である理事長に頼み込み、ココアやココアに関する物事に接触しない環境を作り出した。野呂が逃げ隠れするのではなく、ココアのほうを末梢するという荒業だった。
「自分でも異常なのはわかってる。だが、駄目なんだ。俺はココアが怖くてたまらない」
野呂はいやいやをするように首を振る。僕はその肩にそっと手を置いた。
「つらかったんだな……ココアが飲めないなんて、僕なら死んでるよ」
カカオアレルギーなんて残酷なものが、どうしてこの世にあるのだろう。僕はそれが憎かった。
「さっきの話が事実なら、疑問があるわ。どうしてこの勝負を受けたの? 勝負を受ければ、ココアを飲むことになるわ。それはあなたが最も避けるところだったはずよ」
宮本の問いに、江田や阿久津が同意する。僕はなんとなくわかっていたので、口を挟まなかった。健二も同じだろう。
野呂がか細い声で語り始める。
「ココア部が再建されると聞いて、俺は全力でそれを止めなければならないと思った。教職員には圧力をかけていたはずだが、どういうわけか、一致団結して反抗してきてな……俺が自分で動くしかなくなった」
宮本のお姉さんを初めとする先生方が頑張ってくれたおかげだろう。『生徒の問題は生徒が解決するしかない』と言ってたお姉さんの言葉の意味が、今ならよくわかる。
「何度妨害工作を働いても、貴様らはめげなかった。だから、少々手荒な真似をした。俺は、貴様らが楽しそうにココア部の活動をしてるのが許せなかったんだ」
野呂にしてみれば、苛立たしいことこの上なかっただろう。野呂の心情を考えると、胸が痛んだ。
「勝負を持ちかけられたときは、驚いた。だが、もっと驚いたのは、自分が勝負を受けてしまったことだ。本当は一蹴すべきだったのに……」
野呂はふうっとラウンジの天井を仰いだ。
「承諾した理由はいくつかある。俺は鬱屈してたんだ。ココアによる抑圧にな。もう、我慢できなかった。一口くらいならアレルギーも起きないだろうと思ったし、ここらでこの強迫的な恐怖を克服しようという気持ちもあった。いろいろな要素が混ざり合った結果、俺は勝負を受けてしまったんだ」
野呂は自嘲気味に笑う。いつもの「ククッ」という笑い方はなりをひそめていた。
「滑稽だろう? そのくせ、いざとなったら飲むのが怖くなったんだからな! 笑うがいい!」
「笑わないよ」
僕は、きっぱり言った。
「一口とはいえ、お前は飲んだじゃないか。アレルギーも、出てないだろう?」
「……今のところはな」
「おいしかったかい?」
尋ねると、野呂の肩が震えた。
「おいしかったさ……! 久しぶりのココアは絶品だった! それに、このココアには作り手の魂がこもっていた。だが、俺は飲めても一口が限界なんだ……」
「そんなことはないよ」
僕はココアが入ったカップを指差す。
「全部飲んで、いいんだ」
「無理だ! こんなに飲んだら、またきっと……!」
「大丈夫」
僕が断言するので、野呂は怪訝な顔をする。
「なぜ、そんな……」
あまりもったいぶってもかわいそうだ。僕は種明かしをした。
「このココアには、カカオを使ってないんだ」
「なに……?」
野呂はほうけたように僕を見返してから、弱々しくかぶりを振った。
「そんなわけあるか。確かにココアの味だった。それに、カカオを使ってなかったら、その飲み物はもうココアと呼ばないだろう」
「そうだね。ココアとは違うかもしれない。実は、カカオの代わりにキャロブを使ってるんだ」
「キャロブ……?」
これこそが、野呂攻略の鍵だった。
カカオアレルギーの野呂にココアを楽しんでもらうためにはどうすればいいか、僕は真剣に悩んだ。そうして仕上がったのが、このキャロブココアだった。
「キャロブは、イナゴマメっていう地中海地方原産の植物を粉末状にしたものだよ。現地ではコーヒーやココアの代用品として使われてる」
野呂ははっとしたようにカップを持つと、おそるおそる中の液体に舌をつけた。
「本当だ……! さっきは気づかなかったが、ココアとは少し味が……」
「できるだけココアに近づけようと頑張ったんだけどね。やっぱり完璧に、っていうのは無理だった。それでも、お前を一時的に騙せるくらいのクオリティーにはできたみたいだ」
苦労の甲斐があったというものだ。僕は嬉しくなって、硬直している野呂を促した。
「さあ、飲んでくれ。いくら飲んだって、お前がカカオアレルギーを発症することはないんだから」
「いいのか……? 飲めるのか、ココアが……?」
信じられない、という口調の野呂。「飲んでいいんだ」と僕が噛んで含めるように言うと、ココア部の面々がそれに追随した。いつの間に集まってきたのか、ミルクティー部員や他の二年生たちも、野呂にエールを送っていた。
「部長!」
「野呂、頑張れ! 過去に負けるな!」
「が、頑張って空也くん!」
声援を受けて、野呂はキャロブココアが入ったカップを口に運んだ。かたかたと震えていたカップが、ある時点からピタリと止まった。ごくごくと喉が動く。カップがテーブルに戻されたとき、中身は綺麗さっぱりなくなっていた。
しんと一瞬だけ沈黙が落ち、そして、
「うまい……!」
野呂が涙を流しながらその一言を零すと、わっ、と周囲から歓声が上がった。