第6話 暗がりの怪物
秋も深まり太陽が昇っている時間は目に見えて短くなり、ちょっと前ならまだ夕食時でも僅かな明るさを残していたのだが、今の時期はもうすっかり夜の帳が降り切っていた。
日中は仕事をしていた人々も既に家路へと帰っていて、通りを行き交う人の流れは殆どない。酒場や食堂が軒を連ねる大通りなら、夜中まで賑やかさが続いているのだろうが、長屋や住宅地がある能天気通りの一帯は殆どの店が閉まり夜の静けさを迎え入れようとしていた。
水路を流れる水の音だけが聞こえる路地に、魔力灯に照らされた二つの影が映る。
ロザリンとカトレアだ。
黒マントに蝙蝠傘といういつもの恰好をしているロザリンと、仕事終わりで普段着を着用しているカトレアの二人は、それぞれ手に買い物かごを持っていた。
ロザリンは隣を歩くカトレアを、申し訳なさげな表情で見上げる。
「ごめん、ね。お買い物に、付き合わせ、ちゃって」
「ん~? 別に構わないわよ。ちょうど家の調味料が切れかかってたし、買い物に行くにはいいタイミングだったから」
各種調味料が入った買い物かごは、ずっしりとしていてとても重そうだった。
「それにしても霊薬作りって大変なのね。薬草だけでもそんなに量が必要だなんて」
言いながらロザリンが持つ買い物かごを覗き込む。
紙袋で種類別に包まれた根っこ付きの薬草や、乾燥した状態の物、それを更に粉末にした物など薬草と一口に言っても様々な物がある。大き目の買い物かご一杯に詰められているが、元が草花なので重量的にはそれほどでもない。
「やっぱり、学校とかで使うのかしら?」
「ううん、これは、個人の実験に、使うの」
「学校で勉強しているのに、家でまた実験とかするの!?」
カトレアは大袈裟に驚き目を見開く。
「宿題も出ているだろうに、凄いわねロザリン。感心しちゃうなぁ」
特別、勉学が好きではないカトレアにとっては理解し難いが、それでもロザリンの勤勉さは賞賛に値するだろう。
けれど当の本人は、目を細めちょっと微妙そうな反応を示す。
「実験とか、勉強とかは、楽しいけど、学校はちょっと……微妙」
僅かに言うべき言葉に悩んで、ロザリンはそう零す。
「どうして? 苛められたり……って、それは無いか。プリシアも一緒だし」
ロザリンは魔女として育てられていただけあって、魔術師としての才能は破格。恐らく同年代で彼女と張り合える存在は学校にいないだろう。故に嫉妬や妬みの対象になる可能性は高いが、人見知りはしても気弱な性格ではないので、下手に手を出せば頭のいい彼女に逆襲を受けるのは目に見えている。それに、クラスメイトのプリシアとは友人同士だし、正義感の強いプリシアが苛めなどを見逃すはずがない。
ならばロザリンが学校を『微妙』と評する理由は何なんだろうか?
「単純に、勉強が、簡単すぎる。でも、サボると怒られるから、授業が退屈」
「……あ~、そういうことね」
納得したと、カトレアは苦笑を零す。
なまじロザリンの頭が良すぎるのと、師事していた先代の魔女である祖母が優秀過ぎたのが弊害となり、クラスメイト達と足並みが揃わないのだろう。魔術学としてもっと専門分野に枝分かれした授業を受けるのは、カリキュラム的にもう少し話であるから、今の時期は共通の必須科目を学ばなければならない。その内容は基礎の基礎であり、ロザリンにとっては幼少の頃に全て修学した内容だ。
「確かに、新しい事を学びたくて入学したロザリンには、ちょっと酷かもね」
苦笑しながら同意するが、カトレアは「でも」と言葉を続ける。
「学校で学ぶ事ってのは、勉強だけじゃ無いと思うの。月並みな意見だけど、人と人との出会いとか接し方とか、いわゆる一般常識って言われる諸々の事。今は実感が無いかもしれないけど、そういった一日一日の積み重ねが、ロザリンにとっての大切な経験になってるんじゃないかしら」
「……経験」
言ってからカトレアは照れるよう、頬を赤くしてサイドテールを撫でつける。
「って、全然学べなかったあたしが言っても、説得力はゼロなんだけどさ。たはは」
「ううん、そんなこと、無い。カトレアの言葉、とっても、参考になった」
「そう? ならいいけどね」
妹を見詰める姉のような優しい眼差しで、カトレアは出会った頃に比べて前向きになったロザリンに確かな成長を見ていた。
暫く何気ない雑談を交わしながら、魔力灯が照らす人気の無い夜道を二人並んで歩く。
奇妙な違和感がある。例えるならレシピ通りに作った筈の料理なのに、いざ試食をしてみると一味足りない、そんな不思議な違和感。そして足らないのはわかっているのに、何を足すべきか全く思い至らない不自然な感覚に囚われながら、二人はいつしか無言で長い長い帰路を進み続ける。
その不可思議な現状を最初に認識し、警告を促がしたのはロザリンでも、カトレアでもなかった。
『……アンタらさぁ、気づいて無いのぉ? 罠に嵌められてるわよ』
酷く気怠い声がロザリンの脳裏に響き、進めていた足を止める。
「どうしたの、ロザリン?」
立ち止まったロザリンより数歩前に進んで止まったカトレアが、どうしたのかと不思議そうな顔で振り返った。彼女には今しがた聞こえた声は、耳に届いてないのだろう。
ロザリンは自分の左手に視線を落とす。
声の主はここ。ロザリンの左腕に宿る、かつてミュウと呼ばれた中位精霊だ。
「罠? ……どういうこと?」
ロザリンが左手に問い掛けると、ミュウはケケッと楽しげに笑う。
『路地に隅っこに点在して、結界魔術が刻まれているわぁ。ご丁寧にアンタが気づかないよう、探知阻害の術式まで施してね。でも、精霊である私の認識までは誤魔化せなかったようねぇ』
「結界魔術……?」
「ロザリン? 今度は走り出して……ねぇ、どうしたってのよ!」
戸惑うカトレアへの説明は後回しにして、ロザリンは近くの路地に走り寄っては地べたに伏せるようにして丹念に調べる。すると、魔力灯の影に隠れるようにして、拳くらいの大きさの石が置かれているのを発見した。
手に取って見てみると、石には奇妙な文様が刻まれていた。
「なによそれ。悪戯書きにしては、随分と手の込んだ模様ね」
後ろから覗き込みながら、カトレアは眉根を寄せた。
「人払いに、誤認の呪印。だから、周囲に人が、いないのに、気づけなかった」
「……そういえば」
カトレアはハッとなって周囲を見回す。
違和感はあったが、今までハッキリと認識できなかったけれど、理由が判明すれば原因は明らか。時刻が夜である事を差し引いても、誰ともすれ違わないのは不自然。それにいつもなら、こんな遠回りな道を歩いたりはしない。
「誰かに悪戯……ってわけじゃなさそうね」
頷いてからロザリンは立ち上がり、石を投げ捨てて魔眼に魔力を集中する。
結界は依然稼働している為、気配を察知したり魔力を感じ取る事は出来ないが、ロザリンの魔眼ならば周囲に張り巡らされた魔力の網を視る事が出来る。そしてそれを辿れば、大本となるこの結界を張った張本人を見つけ出す事が出来るかもしれない。
路地に連なる魔力の線を読み取り、ロザリンは我が目を疑った。
「なに……この、灰色の、魔力線」
ロザリンの魔眼に映った結界の元となる魔力は、ほんのりと灰色に光ながら路地に幾つかの線を描く。線は魔力の残滓でもあり、本来は固定された色彩は存在せず、人の魔力量や適応している属性によって複数の種類に分けられる。しかし、灰色という色は別だ。そんな色は今までに視た事は無いし、命ある生命体が発するべき色じゃ無い。
「――ッ!? ロザリン!?」
真っ先に反応したのはカトレア。彼女は素早くロザリンの腕を掴み、自分の後ろへと下がらせた。
『お出でなさったわよ……くくっ。化物が』
「いったい――ッ!?」
何が現れたというのか?
そう問い掛けるより早く、ロザリンの背筋に悪寒が走り全身が粟立った。
カトレアが睨みつける路地の先から、魔力灯に照らされシルエットが浮き上がる。カツン、カツンと靴底が足音を奏で現れたのは、長身で髪の長い存在感が奇妙なくらい希薄な男性。けれど、彼を見た瞬間、ロザリンを本能的な恐怖が遅い、奥歯がカチカチッと音を立てる。
男は笑みこそ浮かべているが、生気の薄い黒目がちの目で真っ直ぐロザリンを射抜く。
「ようやく、見つけたぞ……君が魔女だね」
気持ちが悪いほど優しい口調で、男はそう語りかけてきた。
ロザリンが何かを答えるより早く、彼女を守るようカトレアが左腕を横に広げる。
「生憎、人違いよ」
「ふふっ。嘘はいけない、俺は普通の人間より鼻が利くんだ」
つんつんと、自分の鼻頭を指で突く。
おどけた態度を取るがロザリンとカトレアの警戒心を解くことは出来ず、男は残念そうに肩を竦めた。
ロザリンには何となくだが、男の正体に関して予感があった。
「……もしかして、サイモン、ウィンチェスター?」
「ご名答。賢い子供は嫌いじゃない、探し求めていた君は優秀で安心したよ」
そう言って髪を掻き上げる男の手の甲には、十字架のタトゥーが刻まれていた。
二人の警戒心が更に深まるが、サイモンは気にする事無く近づく足取りを緩めない。
カトレアは右手の平を差し向けて。
「近づかないで。それ以上近づけば、敵対行動と見なすわよ」
警告を促がすが、サイモンは唇の端を吊り上げるだけで何も答えない。
一歩、また一歩と間合いを詰める。逃げるか? そう告げるようにカトレアは視線を向けるが、ロザリンは首を左右に振る。彼を捕まえようという功名心ではなく、結界が起動状態の為ここから逃げるのが難しいと判断したのだ。
得体の知れない気配に、対峙するカトレアは息を飲む。
緩める事の無い歩みが互いの間合いに……入った。
「――ッ!?」
風を切る音と共に顔面を狙って打ち出された打撃を、カトレアは寸前で弾いた。
「ほう。お見事」
軽く驚いたように目を見開き、サイモンは続けて拳を乱打する。
格闘技の経験があるらしく、肩を入れた鋭い突きがカトレアを襲う。腕を使って器用にガードするが、硬く握り締められた拳は石のようで痺れるような痛みが骨に走る。しかし、ずば抜けた腕力や技術があるわけではない。
「――ふッ」
攻撃を腕でガードするのではなく、円の動きで払うように捌く。
左、右とリズミカルに連撃の軌道を逸らすと、今度は此方の番だと言うようにカトレアは擦り足でサイモンの間合いに踏み込む。視線と口元まで上げた左拳で相手の意識を上段に釣り、透かさずがら空きになった横っ腹に右フックを打ち出す。
「……ぐっ」
弾力のあるゴムを叩くような感触と音だが、サイモンは僅かに息を漏らすだけに留まる。
それなりに力を込めた一撃だったがサイモンは下がらず、打ち合いを望むよう握った拳を繰り出してきた。しかし、インファイトならカトレアも得意分野。サイモンは腕が長いが故に初速が遅く、近接での分はカトレアの方にある。翻弄するように膝を使って上下に動くカトレアを追いかけるよう、サイモンは腕を伸ばすが動きを捉えられない。その隙間を縫ってボディ、ガードが下がれば顎への掌底と柔軟で切れのある技巧で、サイモンを寄せ付けない強さを発揮する。
「ほう、中々にいい動きをする」
「アンタはそれほどでもないわね」
外側に回り込むよう打撃を躱し伸ばされた左手首を掴むと、下から自身の腕と交差するようサイモンの顔面に裏拳を叩き込んだ。鼻を潰す確かな手応え。伝わる生温かな感触はサイモンの鼻血によるモノだろう。
(なに、この妙に掴みどころのない奇妙な感覚は?)
圧倒的優位に戦闘を進めながらも、カトレアは全く自分のペースで戦っている気がしなかった。「それほどでもない」と軽口は叩いたが、サイモンが強いのか弱いのか拳を交えて尚、計りかねていた。
その証拠に顔面を潰す勢いで拳を放ったにも関わらず、サイモンは苦悶の声一つ漏らす事は無かった。
「……ふふっ」
「――ッ!?」
サイモンは薄く笑い、裏拳を放ったままのカトレアの腕に右手を伸ばす。
本能が警鐘となって頭の中でうるさいほど鳴り響く。反射的に拘束していた腕を離すと突き飛ばすようにして、カトレアは慌ててサイモンから間合いを離した。
緩やかな動きで振り向いたサイモンは、血で赤く染まった鼻を親指で拭うと、拳を上げてまた同じ構えを取る。そして一言も発しないまま奇妙な微笑を浮かべつつ、今度は拳を握らす掴みかかるよう五指を伸ばした。
(アレに掴まれるのは、ヤバい気がするッ)
直感的にそう思い少し乱暴だが、腕を鞭のように撓らせ打ち付ける勢いでサイモンの腕を払う。そして一際硬く握り締めた拳を顎に狙いを定めて、足裏を滑らし腰を回転させて一気に振り抜いた。
刹那、サイモンと視線が交錯する。
「――ヤバッ!?」
完璧な軌道で捉えたと思われた一撃は、寸前でコンパクトに振り抜いたサイモンの拳に阻まれる。拳と拳がぶつかり合った瞬間、生まれたのは肩透かしを狙うような静寂。骨が砕けるような破壊音も、空気が潰されて爆ぜる破裂音も無く唐突に訪れた沈黙に、身動きも出来ず見守っていたロザリンの眉間にも皺が集まった。
そして真実を目の当たりにし、ロザリンは目を見開いて息を飲む。
「くくっ……本当に強いじゃないか、お嬢さん。もう少しで、指を四本、切り落とせていたのに」
「…………」
愉快そうに笑うサイモンと、顔を強張らせるカトレアが睨み合う。
接触したままの拳と拳……ではなく、カトレアが打ち出した拳を受け止めていたのは、いつの間に握っていたのか、サイモンの薄く鋭いナイフの刃だった。
四本の指にざっくりと食いこむ鋭い刃を伝うよう、ポタポタと鮮血が滴り落ちる。ギリギリのところで拳を引いたおかげで骨に当たって止まったが、あのまま振り抜いていたら指を切断。いや、切れ味から考えて手首までスライスされていたかもしれない。
「……痛ッたいわねぇ。冗談じゃないわよ、こんにゃろう」
遅れてやってきた激痛に頬を震わせながら、これは不味い相手と相対してしまったと、今更ながら後悔が湧き上がり始めていた。