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緋に記す  作者:
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緋に記す

 その唸りは、狂人を思わせる、獣じみた響きを宿していた。

 喉を震わす悲鳴に、自覚を持ち得たのはいつまでだったろう。祖父の短刀はくりかえし背をえぐり、伴いもたらされる激痛に、視界は赤黒く塗り込められていく。喘ぎのなかで、娘の声が訥々と歴史を語るのを聞いていた。

 蒼期八年、夏の候、男キリサメ、娘に相対す。

 蒼期十二年、冬の候、娘に男子おのこ生まれたり。キリサメの子なり。野花にあやかりセセリと名づく。

 声をくぐもらせるのは娘自身のすすり泣きだ。端から上擦っては掠れてをくり返していた語りも、そこに至ってぴたりとやんだ。

 祖父の手が止まる。かれの背に坐した娘が、両手で顔を覆ってさめざめと泣いた。

「もう、もうやめてください、セツが死んでしまいます」

「死なぬ」

 老爺は一言に切って捨て、あくまでも続きを促す。しかし娘は首を振るばかりだ。

「いやです、わたし、こんな」

「コハル」

 その日、俺が水を口にしたのは半日も前のことだった。無論喉はがらがらにかわいている。娘が呼びかけに気付いて、縋るようにして手を握るので、顔を上げてそれに応えてやった。

「泣くな、コハル。泣くな。おれと、おれのととと、そこな祖父じいさまが決めたことだ」

「でも、セツ」

「祖父さま、続けてください。まだ百とんで二字だ。昨日より少ない」

 幾重もの皺に覆われた眸で、そのとき祖父が何を思っていたのか――当時十一を数えたばかりの俺が理解していたはずもない。だが俺も、幼いながらに、祖父の負う重荷の存在は悟っていたのだろう。ただ懸命に、老いた血縁の憂いを除かんとしていたことだけは覚えていた。

「続けよ」

 一拍の静寂。消え入りそうな声が、はいと答える。

 思えば酷なことをした。かたくなな老爺とその孫に説かれれば、聡明なコハルのことだ、折れるほかに何を選ぶこともできはしないのだから。

 ふたたび紡がれ始める歴史の一節を、墨を塗り込めた短刀をもって、祖父は孫の背中に彫り入れる。

 記述されるのは、ひとりの男の生涯だった。

 キリサメの名を持つその男は、俺にとって「ひい」をいくつも数えた果ての先祖にあたる。先の皇帝の寵姫をたぶらかし、息子セセリを産ませた挙句、その息子を抱いて郷を離れた大罪人。忌むべき過去とされたその男と息子の存在は、後の皇帝の令により戸籍ごと抹消された。同じ名を刻む書物は端から焚書の憂き目に遭い、先帝の寵姫を探る歴史家はその歳も地位も別されぬまま身を焼かれていった。キリサメが姿を消してから五百年を数えた今でさえ、かれの名は災いの象徴として忌避される。今や史実を知り得るのは、キリサメの子孫、すなわち忌み子セセリの裔のみであった。

 女はキリサメを愛していた、という。キリサメはそれをよくよくセセリに説いた。皇帝の手を逃れ、正史を違いなく継ぎ残すべく、一族が長子の体に記録を刻むようになったのも、そう後の世のことではなかった。

 ならば俺たちは、先祖の汚名をすすぐべく、絶えぬ刻苦をくり返しているのか。

 答えは否だ。

 キリサメという男の生涯は、今の今に至るまで、とうとう俺という泉の中にひとつの波紋も生むことはなかった。祖とはいえども顔を見たことがなければ赤の他人に過ぎず、貴人と農民の恋愛譚も、夢想家の女をして陳腐と言わしめるであろう類のものでしかなかったのだ。

 なぜキリサメの名が忌まれるのか、もはや誰も覚えてはいまい。執着することに何の意味があろうか。そう己に問いかけるたび、しかし、父のまなざしは、意味をもって俺に迫ってくるのであった。

「忘れてはならぬぞ」

 俺の背にまだ傷のひとつもなかった頃、父は折に触れてはそう言った。

「祖父さま、つまりお前にとってのひい祖父さまも、そのお父上も、みな刑死を遂げた。背にキリサメの生涯を刻んだ者の行く末がわかるか。我らは人とも見做されぬ。書物、それも禁忌を記した書だ。ゆえに体を石柱へくくりつけられ、その足元から火であぶられる……書を焼くのと同じように。誰もかれもが、そうして命を落としていった」

 ならばなぜお逃げにならないのだと問うたこともあった。俺の幼さを叱ることもせず、父はただ首を振ったものだ。

「お前にもいつかわかる、セツ。父がこの地を離れぬわけを。キリサメの裔が、この地を捨てられぬわけを」

 思えば父は激情家だった。そして人一倍義に篤い人でもあった。飢饉に故人が死んだと聞けば、一夜は声を上げて泣き明かし、一日は重税を課す国を呪った。

 そうして積もり積もった怨みに駆り立てられたのか、あるいは別の契機があったのか。父はある日、忽然と姿を消した。

 明くる日俺と祖父の前に運ばれてきたのは、握りこぶしほどの大きさの炭、だった。

 俺には初め、それが何を示すものなのか理解できなかった。だが祖父はそれを見た途端、顔を覆い、天を仰いで唸った。うう、う、うう、と、あの厳格な祖父が泣くところを初めて目の当たりにした時分には、ずいぶんな衝撃を受けたものだ。

 苛烈なる最期であったと、父の朋友は言う。父は王自らが開いた宴に乗りこみ、その背を明かして、現王、先王が行った非道の数々を、異国の客人に訴えたそうだ。腕を折られ、足を斬られながらも、体が火に捲かれ朽ちるそのときまで、父は天に裁きを乞い続けた。

 父の執着が実を結んだか、否か。俺はまだ、答えを見定められていない。しかしその日を境に、祖父の口がいっそう固く閉ざされるようになったことだけは確かであった。

 衰えたかれの背にもやはり、キリサメの生から死までが克明に記されている。彫り残した者の篤実さの伺える、粒の揃った筆跡だ。祖父の拾い子であるコハルはそれを見たとき何を思ったことだろう、震える唇は今の今まで小指の先ほどの怯えも舌の上に乗せることはなかったが、肉を裂いた痕跡など、女子おなごが見て心地の良いものではあるまい。

「火みたいね」

 と言われたことがある。

 一日の彫りを終え、祖父が床に入っていった後のことだ。俺の血を拭い、腫れた皮膚に薬を塗り込めながら、コハルはおもむろにそうこぼしたのだった。

「血のことか。背中の爛れか」

 くすぶる痛みは、なるほど背を焼かれる心地に近いのかもしれない、と思ったが、コハルはかぶりを振った。

「お祖父さまやお父さま、それにセツ、あなたのこと。炎は自分を焼かずには燃えていられないでしょう」

 片付けをするコハルを顧みる。瞳の黒耀には、憧憬じみた気配がよぎった。それに続いて憐憫が、しかして諦念が、次々と現れては消えていく。

「痛々しいか」

 問えば、すこし哀しげに眉を寄せられたのを覚えている。

 やさしい娘だ。世俗に触れぬうちに捨てられたためだろう、擦れたところがない。自分の境遇に愚痴のひとつもこぼさないくせに、俺達の業を思ってはぼろりぼろりと涙を流す。

 そのときコハルは、どこか遠くを見つめるようなまなざしをしていた。

「ねえセツ、考えたことはある? どうして背中に文字を刻むのか」

「……書は見つかって燃やされればそれで終いだ。ものに記せば風化するし、紙を得るにも金が要る」

「それは体に掘り入れる理由でしょう。私が言っているのは別のこと」

 ――腹でもなく、腕でもなく、背中に文字を書く理由、であると。

 背に指先が添えられた。俺が答えに窮する間を縫い、一字一句を辿るように、コハルの指は列の中ほどまでをなぞっていく。

「お祖父さまの字を読み上げるたびに感じるの。私は試されている、意志を測られているんじゃないかって。あなたの字は、いつも私が泣いてしまうせいで、形や大きさがばらばらだけれど……お祖父さまの背中には、そんなところがないでしょう」

 整然と並び、途切れも曲がりもしない字列。衰えた背にあってなお、黒塗りのそれは眩しい。

「背中に歴史を刻むのは、キリサメの一族に寄り添う女を見定めるためだわ。逃げない女を探し、火種を残し続けるため。だとしたらお祖母さまは、たいそう気高い方でいらっしゃったのではないかと思うの」

 祖母が死んだのは、俺が生まれる数年前のことだった。

 母が死んだのは、俺が生まれて数日後のことだった。

 だがそのどちらも、否、キリサメの一族に関わった女の誰も、ついぞ一族の告発に走ったことはなかったという。コハルの言い分が全てだとは思わないが、皆が皆、逃走の日々の最中にしたたかに子を産み育ててきたことは、今の俺があることからも明らかであった。

 ともなれば、俺の生い立ちは、一族の中でも特異なものであったのだろう。父は俺が幼い頃に命を絶ったから、俺とコハルを育てあげたのは、実質祖父ひとりの手によるものだった。食事を与え、文字を教える、その生活が、老いた男にとりどれほどの労苦であるものか。――死した我が子に代わり、孫の背にまで業を押し付ける、それがどれほどの心痛であったものか。


 その祖父が、今日、火刑にかけられる。


 黒衣の役人に背を押された祖父は、ひとまわり小さく見えた。

 かれが捕らえられる理由はどこにあったのだろう。隣村に住む農民の密告であったやもしれない。あるいは俺の背の彫りを終えた祖父自らが、為すべきことは為したと悟ったのやもしれない。しかしいくら原因を探したところで、眼前で石柱に磔にされた老人の姿が消えてなくなるわけではなかった。

 死刑場に人の気はない。そこは草一本も根付かぬ枯れた土地、死した大地。幾千幾万の書物を焼き、同じほどの骸を葬ってきた場所だ。砂利を踏む足に力を込めれば、怨嗟の声が鳴り渡るように思われた。刑吏の落とした松明の上、炎が揺らぐ。薪が焼ければ火の粉がはぜる。熱の気配はもうもうとくゆり、大気の色を捻じ曲げた。漂う臭気、押し殺された唸り、否が応にも跳ねる足先、五感のすべてが死の気配を連れてくる。

「泣くな」

 おのずから、呟いていた。

 俺の袖を握った手には、今や指の爪が真っ白になるほどの力が込められている。右の手で俺の衣を掴み、左の手に赤子を抱いて、コハルは唇をきつく噛みしめていた。

「泣くな、コハル。泣くな。……祖父さまの意を、無碍にするな」

 五日前、俺達を家から追い出した日にはもう、祖父は己が身の行く先を知り得ていたのだろう。孫に死を見届けられることも望んではいなかったに違いない。あの老爺はそういう人だ。祖父のつてがなければ、俺とてこの場に来ることはかなわなかった。

 風が立ち、黒煙を吹き上げる。忽然と晴れた視界の彼方、崩れた肉塊に、祖父の面影は塵と消えた。骨が焼けても、墨が割れても、刑吏がそれを拾い灰を撒いても、俺はその場に立ちつくしていた。指先ひとつ、動かすこともできなかったのだ。

 背が熱い。皮膚と肉とをじりじりと焼かれている。

 押し付けられているのは焼き鏝のようにも、祖父や父の掌であるようにも、短刀の切っ先であるようにも思えた。あるいは死せど消えることのない呪いが、俺の背で自ら熱を放っているようにも。

 そうして、もはや、逃げられぬことを悟る――俺を縛りつけていたのは、執念でも、怨念でも、ましてや義というものでもなかった。

 これは血だ。

 キリサメの血ではない。セセリの血でもない。父の血であり、祖父の血であり、曾祖父の血だ。炎にも似た緋色の血だ。意志、本能、恐怖、そのすべてをも灰塵に帰せしめる呪いだ。同じ血を継げば、もう逃れることはあたわない。

 解放はなく、救いもない。ならば継ぐよりほかに道はない。

 空いた手で赤子の掌をさらう。そうしていつまでも、ふくれた手の甲を撫ぜていた。

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