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1121記録

作者: 楓麟

 芸能人のNが学園祭ゲストとして来ると聞いて足を運んだ。


 場所は某大学の屋外ステージで、前座に呼ばれた三流芸人が十分ほど場を温めてから司会進行を務める。

 会場には学生、幼児、若者に老人と老若男女問わず集まって、学生の漫才に笑い声を上げながら今か今かとその時を待っているように見えた。漫才で「どうせNの席とりで来たんだろ!」と言ったときにはもっともだとその場が爆笑に包まれた。彼らのコントは客の求める笑いを追求しており面白い。

 Nは俳優・ミュージシャンであるが、芸能人企画と題されたそのイベントの内容はトークショー。隣に座る中年夫妻はパンフレットを捲りながら「歌はうたわないのね」と話をしている。あまり期待はしていない様子であった。


 だが、彼は登場した瞬間から人々を魅了した。男女問わず歓声と拍手があがり、彼もそれに応えた。

 彼は客の様子を見ながらのびのびと話した。常にその顔に微笑をたたえて、司会進行の芸人が質問紙を読み上げるまでのわずかな間に観客に手を振り、また違う席で手を振る客に気づくとすぐに振り返したりを繰り返していた。そうして話をし、ファンサービスに応える。この繰り返しを見ているだけで鼻の奥がじんと熱くなった。

 実は芸能人企画にはあまり期待はしていなかった。その言葉の響きから、既に自分はいい印象を持っていなかった。他所の学祭ではチケット代をとったり、またゲストの芸能人が気だるげに話をしたりしていたという噂を聞いていたからである。今回もその噂に漏れぬイベントになるのではないかと考えていた。

 ところがこの予想はいい意味で裏切られる。彼は最初から最後まで「いいイベントにしよう」と口に出しており、その発言通り皆を楽しませようと行動していた。こんな田舎の大学に集まった数百人のために、一生懸命であった。……ちなみに、観覧にお金を取られることもなかった。

 箱の中身を当てるコーナーでも彼はサービス精神旺盛だった。スタッフが準備をしている間は箱を見ないよう後ろを向いて待ってもらうわけだが、その間もステージ横のテントにいる人々に向かって手を振り続けた。箱の中に手を突っ込んだ時は、メロイックサインをつくって周囲を沸かせていた。


 自分は何年か前、音楽番組でNの曲を聞いてから彼を知った。同時に彼の人柄にも惹かれていった。

 この人柄は司会の芸人二人のそれとかなり差があった。正直に白状してしまうと自分はこの芸人が好きになれなかった。司会進行はちゃんとこなせるが、トークがいまいちで、詰まったときは周りの誰かを加虐する傾向にあった。いっぽうNは周囲に気をつかっていた。ゲーム対決相手の生徒をフォローし、場を笑わせるために自虐や誰かを傷つけるような発言は絶対にしなかった。それは、いつもテレビで見ていた彼と何ら変わりがなかった。

 さらにそれは計算や媚びのためのものではなかった。Nは自らの手札を明かして馬場抜きをするかのように、自分がデビューしたきっかけや将来の計画を話した。「最後に一言お願いします」と言われたときは、彼らにツッコミを受けるまでCDや番組宣伝を長々行った。だが、どれもこれも嫌味ではなかったし、心からの本音であると分かって好感がもてた。そんな人間がいるということに、驚いた。



 もっとも衝撃だったのは、退場の時間のことだ。Nのバンドグループの楽曲が流れ、退場する空気に包まれている中でNはステージの端から端まで歩いて観客に手を振り続け、声を掛け続けた。時間が経つにつれてその言葉が別れの時間を引き延ばしているものに感じられた。間違いではなかったが、それ以上の企みが彼にはあった。


 曲がサビに差し掛かった途端、彼は表情を変えた。マイクを構え、姿勢を前のめりにして曲に合わせて歌いだしたのである。もちろんそんなことは予定にはなかっただろう、これはトークイベントであったからだ。周囲はどよめいたが、やがてひとりまたひとりとリズムに乗り、手を上げ体を揺らし出す。最初から最後まで彼は観客を惹きつけて離さなかった。

 Nが退場して、客も散り始めた。皆口ぐちに「よかった」「恰好よかった」と満足げであった。自分もそのひとりだった。しばらく呆けたようにその場に立ち尽くしていたが、Nが、どれだけ大きな存在であるかに突然、気付いた。

 彼は一時間という僅かな時間で、これだけたくさんの人を幸せにしたのだ。それは簡単にこなせるようなものではない。Nはこれからも、誰かを笑顔にするために一生懸命動くだろう。そういう人間になりたいから、自分はNに魅力を感じているのかもしれない。

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