奇妙な猫――作 黄色い金糸雀
「……ということでそれ以降その猫を見ることはなかったんじゃよ」
老人はそこで口を閉じると、険しい表情をすっと仕舞いこんだ。そして目を輝かせながら自分を見上げている孫に柔らかく微笑んだ。
「お前は本当にこの話が好きじゃな」
その子供は祖父が話す物語が本当に好きだった。暇がある度に祖父の元へ訪れた。一方の老人も今年十になる孫が可愛いのか、嫌がることなく何度も何度も同じ話を語って聞かせた。
そして全てが終わるとその子供――クタは必ずあることを尋ねるのだった。
「それっておじいちゃんの昔の話?」
だが、老人は必ず曖昧に微笑むだけで何も言わなかった。
祖父の家を出てからもクタはずっと祖父の話す不思議な物語のことをかんがえていた。
その内容自体はとても単純な話だった。ある男が失踪した自分の飼い猫を探し、見つけたが結局その飼い猫は戻って来なかったという話だ。
誰にも思いつきそうな、どこにでもありそうな作り話だ。だが、クタはどうもただの作り話とは思えなかった。
話している時に彼の祖父は時々遠い目をしている。まるでここでないどこかを見ているように。そして、その直後の話はどこそれまでは違う生々しい響きを持っているのだった。まるで自分が体験してきたように。
だが、それをクタが何度指摘しても適当にはぐらかされるだけだった。
クタが何度聞いても本当のことは教えてくれない。きっと孫に教える気はないのだろう。
「だったら自分で確かめよう」
そう決意し、彼は駆け出した。
猫の専門店に行って猫の好む道具、餌などを店員に聞いて買い、クタは街中の猫を見て回った。路地に道具や餌を置くと、それに釣られて多くの猫が続々と集まってきた。白、黒、茶色、縞模様……様々な特徴を持つ猫が集まってきたが、皆普通の猫ばかりだった。彼の祖父の物語のように、二本足で立っている姿はどこにも無かった。
クタはそれでも根気よく続けた。場所を替え、時間を少し置くなど工夫してみたが、最後には猫を探すより餌の方が早くに尽きてしまった。
結局、お金を無駄に使っただけかぁ……と失意のまま、クタはねこじゃらしを片手に街をぶらぶらと歩いていた。ねこじゃらしに惹かれてやってきたのか、何匹かの野良猫が、彼の後ろに着いてきたが、やがてその数もだんだんと減っていた。
猫も数も減ってきた頃、クタはあるきみょうな場所に自分がいることに気がついた。
いつの間にか、少年の目の前には真っ暗な小路地が口を開けていた。
(たしかおじいちゃんのお話では、この先に行っていたよね……)
話の中ではこの先をずっとまっすぐ歩いていくとケット・シーに会える。だが、この中に入れば帰って来ることのできる保証は無かった。
この街は周りに新たな建物を建てることで、発展してきた。最初はごく小さな建物を建て、不要になればそれを壊さずに、その外側に新たな建物を建て、それを街としてきた。人口が増えれば、外に新たな街を作り……どれほどそれを繰り返したのだろうか。はじめは二人だったと伝え聞くこの街も、今や千人以上の住む街となっていた。もし、路地を真っ直ぐに行くことができれば、この街が出来た時に始めて建てられた建物にたどり着くことができる。しかし、一度迷えば決して出ることはできない。殆ど目立つ目印も無く、ただ壁だけが延々と続く小路地は迷宮そのものだ。
小さな子供が肝試し、と称して路地に入り、そのまま帰ってこなくなったということも珍しいことではない。だから、この街の子供は路地に入ることを厳しく禁止される。
多少大きくなったといえども、クタも入って戻って来ることのできる自信はなかった。
(すぐに行ってすぐに帰ってくれば大丈夫だよね?)
クタは一つ覚悟を決めると奥へ一歩、足を踏み出した……
裏道はクタが思っていたより複雑ではなかった。しかし、その道は奥に進めば進むほど不気味さをだんだんと増していった。
はじめは生活感がまだ残っていたが、進むにつれて両脇を挟む壁は劣化していった。
クタはふと横を見、そして小さく悲鳴を上げた。壁の僅かな汚れが何か恐ろしい者の顔に見えたのだ。
クタは激しく後悔していた。来ないほうが良かった、行くことを禁止されている理由がよくわかった――もう後悔しても遅かった。クタは自分が辿った道など既に忘れていた。
漠然とした不安がクタを襲った。もうずっとここで彷徨い続けるのかもしれない。そして過去の無謀な子供のように、誰にも知られずに人知れずここで果てるのだ。諦めにも似たことを考えていた。その時だ。
「こんなところまで来てどうしましたか? そこの貴方」
どこからか声がした。柔らかい女性のような、しかしどこかきみょうな訛りを持つ声だった。その方向を向いてクタははっと息を飲んだ。
そこにいたのは猫だった。だが、それはただの猫ではなかった。
それは二本足で立っていた。どのようにバランスを取っているのか、何かに寄りかかるということもなく、ただ自分の細い後ろ足だけで全体重を支えていた。
普通ならただただ気味悪がるだけだろう。しかし、クタが見せたのは全く別の反応だった。
「お爺ちゃんの猫?」
その猫は彼の祖父の物語、その中の『ケット・シー』と呼ばれる猫の特徴にそっくりだった。
「……猫探しですか? 人、いや猫違いでしょう」
その猫は静かに告げた。
「タックお爺ちゃんのこと知ってる?」
するとその猫はまじまじと、クタを凝視した。灰色の毛並みの中、二つ浮かんだ青い光が彼をひたと見つめた。しかし、すぐに何かを振り切るように
「迷ったのでしょう。こっちです。着いて来なさい」
クタはその猫に着いていった。途中、猫は全く喋る気配を見せなかった。クタから話しかけても猫は、まるで何も聞こえていないかのように進み続けた。
その猫は二足歩行にも関わらず、すいすいと路地を歩いていった。周囲を囲む建物がだんだんと新しくなっていき、クタにもどんどん出口に近づいているのがわかった。
そして光が見え出した頃、猫は突然振り返った。
「もし、あなたに祖父がいるのならこう伝えてください。『私は今も生きています……』と」
クタは頷いた。そして光の中に飛び込んだ――
「……クタ、お前無事だったのか!」
気づけば目の前に祖父がいた。周囲はクタのよく見慣れた街の景色だった。
「心配したんじゃぞ……帰ってから未だに帰ってきてないと聞いてな」
もう街には暗闇が訪れていた。クタは自分が彷徨っていた時間が長いことに内心驚いた。そしてそれと同時にあの猫のことを思い出した。
「おじいちゃん、路地の中で僕猫を見たんだ」
クタはそこで一旦言葉を切って祖父の反応を見た。彼は驚くと同時に、普段見せない、昔を懐かしんでいるような、たまに見せるあの表情が浮かんだ。
「その猫が言っていたよ。『私は今も生きています……』って」
彼は何かに気がついたような、クタをじっと見た。まるであの時の不思議な猫のように。
それをどう思ったのか、クタは、
「どうしたのおじいちゃん?」
そう尋ねるが、彼はいつもどおりただ微笑むだけだった。