約束――作.黄色い金糸雀
その世界ははるかに想像を超えておりました。
ただ窓を通してのみ見ることのできた世界――決して触れ合うことを許されなかった世界。部外者だったが特別にその世界に入ることを許された異邦人。そんな私を世界は暖かく迎えてくれたので御座居ます。
と、その時私の目の前を何かが横切りました。小さな其れ(それ)は、真っ黒な二つの羽を器用に動かしながら、ヒラヒラと私の目の前を行ったり来たりを繰り返して居ました。
何でしょうか――そう、これは蝶です!
本で何度か読んだことが有ります。絵で見た時も、美しさに酷く心を動かされましたが、動いた其れは絵のときとは別の感動を受けます。ただ綺麗だと云うのではなく、動かなかった其れが動いて居るということに生き物の瑞々しさを感じるのです。
見とれていると蝶が私の目の前を離れ、ひらひらと何処かに旅をするように飛んでいってしまいました。かろうじてそれを追っていると、
「あ」
余りに蝶に夢中になり、人とぶつかってしまいました。若い男の方でした。十八か其処らでしょう。上下とも黒の服で、さらにその上から黒い外套を羽織っています。
「お怪我はないでしょうか」
彼は優しく声をかけてくれました。
「すみません、何時も有難うございます」
其の男の方は恥ずかしそうに少し肩を竦めただけでした。
初めて此の世界に踏み出した際、彼と偶然出会ったのです。彼は十七に成っても何も知らない、生まれたての赤子のような私に様々なことを教えてくれました。
それ以降私が外に出ると、彼と必ず会いその度に色々なことでお話しをしたり、知らないことを聞きました。
ふと、私は先ほどの蝶がまだ近くに居ることに気が付きました。折角です。私はその蝶の事について彼に訊いてみました。
「嗚呼、あれは黒揚羽という名前の蝶ですよ」
「くろあげは……?」
「羽が真っ黒だからそう呼ばれているのですよ」
其の『くろあげは』という蝶は彼の周りをぐるぐると飛んで居ました。まるで、彼も自分の仲間だと言いたげに。
「まるで貴方のようですね」
全身が真っ黒。ということはあの蝶も私が知らないことを教えてくださるのでしょうか、ふとそんな事を口にすると彼は苦笑しました。
「然うかもしれないし、然うで無いかも知れませんね」
その後、二人で近くの丘の上に行きました。途中、私は知らない物を見ると矢継ぎ早に彼に疑問を投げかけました。さぞ迷惑でしょうに、彼は其の一つ一つに丁寧に答えてくれました。その度に私は彼の知識の多さに感服致します。私が何程かかっても、きっと彼と同じ事は出来無いでしょう。其れ程に彼は偉大でした。
やがて丘の上に着きました。其処には木が一本在りました。私の背丈より少し高いぐらいのまだ小さな木です。二人で其の木の下に座りました。
丘の上からは近くの街が見渡せます。私は此処の風景がとても好きでした。普段、私が遠くに感じ、憧れている物が、まるでそのまま小さくなって目の前に現れた様に感じるのです。そして、その度に遠いものが少し近づいてくる心地がするのです。
私が街に見下ろしている間、彼は背後の木を見ていました。
「此れも何十年と経てばとても大きな木になるでしょう」
彼はまだ自分と同じぐらいの木を見て言いました。吃驚して思わず私は彼に、
「貴方はどうして其れほどに多くのことをお知りなのですか?」
「私は旅をしていたのです」
私は納得しました。何年も閉じこもっていた私と違って、彼はこの世界の隅々を歩き回ったのです。こんなに差がついても可笑しい(おかしい)ことではありません。
「旅をして様々な者を見てきました。今はもう此処に留まる心算ですが」
しばし彼とお話をし、空が黄昏色になると私は帰路に着きました。丘から降りそこから少し歩くと私の家に着きます。
街からは少し離れた場所にぽつんと、一つ大きなお屋敷があります。其処が私の家でした。
ゆっくりと誰にも気がつかれぬように中に入ると、そのまま自分のお部屋を目指しました。途中、使用人に見つかりそうになりましたが、何とかやり過ごし、お部屋に帰りました。
程なくして、使用人がご飯を持って部屋に入って来ました。若い方ですが、私の事を善く気遣って呉れます。迎え入れようとして、私は突然咳き込んでしまました。すると彼女は慌てて駆け寄ってきます。
「無理を為され無いで下さい。お体に触れて仕舞います」
彼女の余りにも心配に、私は思わず苦笑しました。然し(しかし)、彼女の心配も強ち大袈裟でも無いかもしれません。
私は幼い頃から在る病にかかって居ます。以前診ていただいたお医者様が仰るには、今まで生きていることが奇跡だとか。最近体調は良いのですが、いつ悪くなるかは分かりません。
彼には病気のことは言っていません。其れで心配をさせたく無いのです。
「大丈夫です、此の位。其れより最近の街の様子は如何ですか?」
尚も彼女は不安そうな顔をして居ましたが、
「街では戦の話ばかりでございます。何でも清国の次は露西亜との戦が始めるとか何やらで……」
彼女はその後も街の様子を語って呉れました。街で流行っているもの、噂、其れらは私に異国の情報を与えてくれました。
「ところで、最近お屋敷から出ておられて居ませんか?」
一瞬どきり、としました。心臓が飛び上がって仕舞う程緊張しながらも、なんとか不自然に見えないように彼女に頷きました。
病によくない影響を与えるらしく、本当は家から出てはならないのです。私はそれを幼い頃から守ってきました。両親がお金持ちということもあり、お屋敷にはなんでもありました。特に不自由する事は無かったのです。
そんな私に異世界を勧めてきたのはお屋敷の窓でした。薄い硝子一枚を隔てて見えた景色は、私にとっては、しかし遠く離れた異国のように感じ、とても心惹かれました。時によって移り変わる空、いつ見ても違う景色に魅せられました。そして想像するのです。
(もしあそこに私が居れば……)
何度然う思いを馳せたことでしょう。最早自分でも忘れる程です。しかし強い憧れだけは初めから存在し、決して消えませんでした。
そんな或る日、私は等々(とうとう)誘惑に負けてしまいました。誰も居ない時間を見計らって部屋を抜け出し、黒く重い扉を白く細い腕で押しのけ、漸く私は新たな世界へと踏み出したのです。
幸いなことに彼女はそれ以上追求してきませんでした。然して彼女が部屋を出ようとした時、ふと思い付き私は彼女に声を掛けました。
「貴方は旅をした事が在りますか?」
彼女は何を言われたのか解からなかったのか、きょとんとした顔をして居ました。私は慌てて理由を付け足します。
「私は旅など夢の又夢……せめて自分で出来ぬなら誰かのお話だけでも聞こうと思いまして」
彼女は私に同情的な視線を向けました。私が病の治療を諦めてしまった、と思われているのでしょう。
然し、実際には私は決して諦めて仕舞おう、とは思っておりません。何時の日か病を治して、然して堂々と街に行くのです。彼女が毎日語ってくださる彼の光景を自分でも見に行きたいのです。
「私は小さい頃からずっとこの家に使えてまいりました故、何処にも行ったことはありません」
私は少し気抜けしてしまいまいた。彼女ならば常の様に語って呉れると思ったのです。
「ですが、きっと善いものと思います。希に街で旅人を見かけることが在りますが、何方も明るく楽しそうでしたよ」
「旅とはどの様なものでしょうか?」
次の日、私は彼に訪ねました。
昨日或れから考え、然して旅人に聞くのが一番だと思ったのです。彼ならば旅のことをきっと教えて呉れます。
其の私の願いが伝わったのか、彼は嫌な顔一つせずに答えて呉ました。
「旅は良い物ですよ。其れ迄の自分を忘れさせて呉れる。どんな悪き事が有っても其れを考えさせずに只々(ただただ)楽しませてくれる」
彼は自らの旅の経験を私に語って呉れました。とても大きな神社や、帝都「東京」の様子などを聞かせて呉ました。其の間私の耳には彼の声だけが聞こえて居ました。鳥達の美しい鳴き声や、風が木を揺らす穏やかな音も、何も聞こえてきませんでした。
唯、彼の声と、私の心臓の鼓動、それらだけが五月蝿い(うるさい)程に聞こえてきました。
(何と素晴らしいのでしょう)
彼の生き生きとした口調からは、其れ以上の何かが伝わってきました。まるで私がその場所に居る様な心地がしました。
私は何か不思議な事が在ると、その度に彼に疑問をしました。彼も優しく、丁寧に言葉を選んで教えて呉れます。只、其れだけの事ですが、私にはとっては此の上なく素晴らしい事でした。知らぬ異国を彼と歩き、然して知らぬ事を尽く彼に聞く――其れに等しい心地がしました。
旅、という物が少し解った気がします。然して其れに焦がれ、自らも経験為る旅人の気持ちも解った気がします。恐らく彼に其れを言うと、全く解ってないと笑われる事でしょう。
それでも良いのです。私では未だ其れを深く知らないのですから。
気が付くと異国の物語は終わっていました。其れ程に没頭していたのだ、と少し恥ずかしくなって顔を伏せてしまいました。
「有難うございます。宜しければ又、お聞かせください」
すると彼は僅かに何かに躊躇うような様子を見せました。如何されたのでしょうか、お体のご調子でも悪くなって仕舞われたのでしょうか。様々に想像していると、やがて彼は其の重い口を開きました。
「近頃、露西亜との戦が囁かれているのは御存知でしょうか」
丁度昨日聞きました。彼の様子を見るにどうやら本当の事のだった様です。
「其処に私の友人も出陣する事になって仕舞いまして……最後に二人で旅をしたいのです」
戦場に行って仕舞われると、生きて帰ってこられるかは分かりません。知識としては有りましたが、実際そのような人を知っておられるとさぞお辛いことでしょう。
「それで……何時行かれるのですか?」
彼は何も言わずに、唯目を逸らしただけでした。然してその動作が彼の出した結論を物語って居るようでした。
「済みません。もう明日出発することを決めて仕舞いました。それでは、さようなら」
「……若し、誰かと別れなければいけない時は如何しますか?」
お部屋にやってきた使用人に私は聞きました。
彼の後私は如何して善いか解らず別れてそのまま帰って仕舞いました。
彼は明日発って仕舞われます。もう、お会いできないやも知れません。旅が終わっても此処にはもう帰って来られないかも知れません。ずっと居られると思った方が永遠に目の前から消えて仕舞うのです。
然う考えると、何故か胸の奥から鈍い痛みがするのです。病の所為でしょうか? しかし、この様な今迄には有りませんでした。考えれば考える程分かりませんでした。
「お嬢様がお思いなるように為されば良いですよ。唯、後悔され無い様にしてください」
彼女の言葉は深く私の中に入ってきました。私の後悔がどんどんと湧き出てきました。
彼とは最後に今日の様な形では別れたく有りません。彼の様な最後なら初めから何もなく、別れたほうが良いです。
もう一度彼に会いたいです。未だ言いたいことが在るのです。
彼は本日に発つと仰って居ました。なら、まだ出られる直前に彼にお会いできれば……。
彼女は部屋を出て行く前に私の耳元に小声で囁きました。
「明日は朝早くからお屋敷の扉を開けておきます。どうぞお外へ」
私は彼女の方を思わず振り返りました。然し、彼女は何事も無かったかの様に私の部屋から去って行きました。
彼女には知られていたのです。私が外に出ていることを。途端恥ずかしさがこみ上げてきましたが、其れと同時に尚好きにさせてくれる事に感謝しました。
次の日の朝、私はこっそりとお屋敷を出ました。
彼に会うためです。旅立つ前に、今会っておかないと後悔するように思えたのです。
会えるという確信も何も有りませんでした。唯、彼が旅立つ前に居るかもしれない場所とすれば、一つだけ予想ができました。
お屋敷を出て、急いで駆けていきました。彼との思い出の場所へと。
丘が見えてくると“くろあげは”が丘の周りをふわふわと飛んでいることに気が付きました。その蝶はまるで私を待って居る様でした。
然して丘の上、あの木の近くには一つだけ人影が在りました。木と同じ位の背丈の方です。誰でしょうか、という疑問は一切抱きませんでした。
「よく此処に居るのが分かりましたね」
私を見ると彼は驚いたような、嬉しいような様々なものが溢れ出ているような表情を見せました。
私は息を整えると、
「私、貴方を待ち続けます」
ずっと言いたかった事を一気に吐露しました。
「貴方が再び此処に戻って来る時を待っています。其の時は……又、この前の様に旅のお話を沢山聞かせて下さい。そして次は私も……」
私も病が治れば旅に連れて行って下さい――
最後の言葉は心中のみでこっそり言いました。今は未だ早いのです。此の言葉は私が病を克服した後に彼に言います。
彼は突然私の頭に優しく触れました。あっと言う間も無く、彼は私の頭を大きな手で包んでしまいました。
「私も貴方と出会えて良かった。妹が出来た様で楽しかったです。また必ず戻ってきます。又お会いしましょう」
彼は私を優しく抱きしめました。黒い服を通して温もりが伝わってきました。其れが不思議と心地好かったのです。
暫く素のままでいましたが、やがて彼は、ゆっくりと私から手を離しました。そのまま名残惜しさを振り切るように黒い外套を大きく翻すと、街の方へと歩いて行ってしまいました。
と、その時まわりを飛んでいた黒い蝶がひらひらと舞い上がっていきました。青い空と緑の大地に突然、ぽつんと現れた二つの黒い点を、それが消えるまでずっと見つめて居ました。
彼を見送ると私はその場を後にして丘を降りました。
これからは一人でも外に行きます。何かを教えて下さる方は居られなくとも、彼と会うまでに私も今より多くの事を知っておきたいのです。
然して彼が旅のお話をして下さる様に、私も彼にお話しするのです。彼が居ない間私が見たこと、あの丘の上の木が育つ様子、何もかもを彼に語るのです。其れが旅を出来ない私が彼に返せるものだと思ったのです。
お屋敷に着くと、いつものように誰にも見られないように静かに自分の部屋に戻ろうとしました。ですが、気の所為でしょうか? 何時まで経ってもお部屋に辿り付きません。何故か、お部屋が遠くに在る気がします。
(私……何うしたのでしょうか?)
その時、突然胸が激しく痛み始めました。その場で何度も咳込み、終いには立って居られなくなり、その場に座り込みました。
(まさか病が……)
私に気がついた使用人が何人も駆け寄ってくるのが見えました。然し、私にはもう彼らに声をかける力も有りませんでした。