14話 嵐の後で
角を曲がって、ひょこっと顔を覗かせた少女は、ひどく不安げに見えた。何となく、どうしたらいいか分からないって感じだ。
案の定そこから動こうとしないので、もう一回呼びかけてみる。
「そんなとこにいないで、こっちへおいで」
僕は隣の空席をポンポンと叩いた。
やや間があってから、おずおずと歩いてきたファーラが、僕の隣ではなく。対面の椅子に腰掛けた。でもずっと俯いたままで、こちらを見ようともしない。
今着ている白いワンピースは新品同様で、破れたり汚れた様子は見られない。新しい服を着てきたか、もしくは不思議能力で修復されたかのどっちかだな。
「お早う。もう身体は大丈夫? 痛いところはない?」
「……うん」
ためらいがちながら、こくりと頷き、やっと返事をしてくれた。仲直りは最初が肝心だ。ある意味ここが、この瞬間こそがもっとも肝心なんだ。
自然と肩に力が入る。全力の笑顔を作って慎重に言葉を選びながら、なるべく優しく語りかけた。
「お腹は減ってない? 何か作ってあげようか?」
「……いらない」
「じゃあ喉渇いてない? お水汲んでこようか?」
「……渇いてない」
「そっ、そっかぁ」
詰んだ。
あっさり会話詰んだ。
居心地の悪い沈黙が流れて、顔面に貼り付けた愛想笑いが凍り付き、口角が引きつる。これは焦る。
やべぇ、もう話す事無いよ。無理矢理でも話す事はできるけど、そうすると余計に彼女の心を閉ざしてしまう気がする。白々しい。ぐぬぬ。
でもなんちゅうか本中華、耐えきれない。
何に耐えきれないって、この沈黙に耐えきれない。未だかつてこんなに緊張する食卓があっただろうか。いや、ない!
もう話題なんて大した事じゃなくてもいいから、話しかけてしまえ! それしかない! 気まず過ぎる!
「あ、あの……えっと」
しかし何を話したらいいものか分からず、口をパクパクさせていると、急に幼い声が聞こえた。
「……なんで」
「えっ?」
「なんでファラに優しくしてくれるの?」
昨日の大暴れとは似つかわしくない、か細い声で、彼女は聞いてきた。
「そうだね。僕も君と同じなんだから、かな」
「……同じ?」
「うん。僕も両親から離れて育ったんだ。顔も見てないし、どんな人だったかも知らない。子供の頃いた施設。いや家には、自分みたいな子が沢山いてね。みんなで一緒に暮らしていたんだ」
身の上を話し始めると、それまで俯きがちだった少女の瞳が徐々に上向いてきた。
「そこで仲が良かった女の子がいてね。最初は喧嘩したけれど、そのうち仲良くなったんだ。その子にね、似ては……いないんだけど。何となく思い出しちゃってさ。その、ほっとけないっていうか。なんていうか」
「今、その子どうしてるの?」
「死んじゃったよ。もう、随分昔にね」
今度は僕が俯いた。何故だろう、今になって妙に懐かしいのは。
あの日、みっちゃんが病院で死んだ日に大泣きしてから、たまに思い出して泣く事はあっても、大人になってここ暫くは忘れていたのに。
忘れたはずなのに、涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。今はそんな事思い出してる場合じゃない、この子の心を開いてあげないといけないんだ。
でもそう思えば思う程に、涙が後から後から湧いてくる。いつの間に自分はこんな涙もろい性格になったんだろうか。
「ちょっ、ごめんね。大丈夫だから」
僕はメガネを取って、袖でごしごしと涙を拭いた。嗚咽が出そうになる所を必死に堪えて、鼻をすする。
すると不意に左の頬に、柔らかい感触がした。
テーブルの上に乗り出したファーラが、その右手の平で、僕の涙を拭ってくれたんだ。
「泣かないで」
金色の大きく無垢な瞳が、真っ直ぐに僕を見た。それで気が付くと立ち上がって、彼女を抱きしめていた。
ルパートさんとルーシーは驚いた顔をしていたけど、ファーラは抵抗する事はなく、大人しく僕に抱かれてくれた。
なんて優しい子なんだろう。誰だ怪力幼女なんて言った奴は。許さないぞって僕だったか。
身体全体で感じる温もり。そうか、人ってこんなに暖かかったんだ。
暫くむせび泣きながら、ぼんやりとそう思った。
それから、どれくらい時間が経ったんだろう。実際は4、5分位なんだろうけど、もっとかかった気がする。やっと落ち着いた僕は、ゆっくりとファーラを床に下ろした。そして左手でファーラの髪をかき分け、真白くか細い首に触れる。昨日、首を絞めた痕は残っていない。
「ごめんな。痛かったよね。女の子にする事じゃ、ない、よな」
反省を口にすると、収まった涙がまた溢れてきた。鼻をすする。
「ファラもしたから……ひどいこと」
「そっか。じゃあ、おあいこだね」
「おあいこって、何?」
「お互いに悪い事をしたから、今まであった事を許して、仲良くしましょうって事かな?」
「……」
ファーラは不意に俯いた。
「ファラと仲良くしてくれるの?」
不安げな上目遣いで少女はこちらを見る。だから僕は膝を折って目線を合わせた。
「うん、いいよ」
「ファラは、半分魔族だよ?」
「うん」
「それで半分人間だよ?」
「知ってるよ」
「気持ち悪くないの?」
「全然」
今度は少女の瞳に大粒の涙が浮かんだ。試しに両手を広げてみた。でもまだどうしたら良いか、ためらっているみたいだ。
「おいで」
その一言で、少女が胸に飛び込んで来た。僕はそれを優しく抱きしめた。
「なぁファーラ。君が良ければ、僕達、家族にならないか?」
「え?」
「君のお父さんやお母さんにはなれないけど、お兄さんにならなれるんじゃないかって思ってさ。嫌かな?」
背中に伸びた幼い腕が、キツく僕の胴体を絞めた。ちょっと苦しいけど、感動的場面なので黙っておこう。
「本当に?」
「あぁ本当だよ」
「本当にファーラのお兄ちゃん?」
「本当にファーラのお兄ちゃん」
自然と笑みがこぼれる。
「あのね……本当はずっと……ずっと寂しかったの!」
さらに身体がキツく絞まるが、我慢して優しく頭を撫でた。
「もうこれからは一人じゃないよ。一緒に頑張ろう」
「うん!」
ようやく泣き止んだのはいいものの、さらに力を込めて抱きしめられるので、肋骨は軋み、内臓が圧迫されてかなりヤバくなってきた。このままでは本気でマズい事になる。何とか空気を壊さずに、この場を切り抜ける良い方法はないもんか。
はっ、そうだ! あの技を試してみよう!
僕は首を傾げ、ファーラの幼い頬に口づけをした。瞬間にしてその試みは成功し、バッと飛び退いた彼女は、真っ赤な顔をして両手で頬を押さえていた。
「なななな、今、何したの?」
「何って、キスだよ」
「キスって何?」
「う~ん、特別に親しい閒の人とだけする事って言えば分かるかな? でもファーラはもう家族だからいいでしょ?」
「う、うん。でもファーラの事は、ファラって呼んで。その方が、好きだから」
「分かったよファラ。これでいい? 可愛いお姫様」
「かわ……いい? ファラが?」
「うん、そうだよ。ファラはとっても可愛いよ」
「うっ……」
「う?」
「うわあああああああああああっ!」
何だろう、前に見た気がする。ファラは叫びながら2階に駆け上がって行ってしまった。バタンと大きな音を立てて閉まるドアもそのままだ。
これから気まずくならないか心配してたけど、この分なら大丈夫そうだな。
そう思い、ちょっと安心したら、どっと疲れが押し寄せて来て、ぐったりと椅子に腰掛けた。すると具現化したルーシーとルパートさんが机の上で、しずしずとお辞儀をした。
「あぁ、二人にはお世話になりました。これからも迷惑をかけると思うけど、宜しくお願いします」
居住まいを正して、こちらも礼儀正しくお辞儀を返した。親しき仲にもなんとやらと言うしね。
でも、なんだか猫ちゃんズの様子がおかしい。二人とも何か言いにくそうに、もじもじしている。
「はい、この度は無事に血の満月を乗り越えられました事を、お慶び申し上げます。つきましては、その」
「どうしたの?」
「善宏様、大変申し上げにくい事なんですが……」
ふぅ、なんだなんだ、次から次へと。全く落ち着かないなぁ。でも今は一仕事終えた満足感と充足感で一杯だ。苦しゅうないぞ、白猫さんや。
「いいよ、言ってみて」
流石に昨日の今日でピンチになることはなかろうと、この時僕は、高をくくっていた。
「はい、では申し上げます。結論から申し上げさせて頂きますと、この度の騒動の復旧に、善宏様の徳分ポイントを使わせて頂きました」
「へ?」
「その結果、現在の残高は……」
い、嫌な予感がする。ゴクリと唾を飲む。
「マイナス6842ポイントになります」
「な、なんだってぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
叫びながら立ち上がる。
「そんな馬鹿な。借金だけは作らないのが自慢だったのに」
ぼそっと呟いた後、がっくし項垂れて、机の上に突っ伏した。
「よ、善弘様。大丈夫ですか!」
ルパートさんが心配して顔を覗いた。
僕は大丈夫と言おうとして、先に大きなため息が出た。