10話 異変
「ガァァァァ!」
大きな獣の様な叫び声が、夕暮れの森に響き渡った。
転生して8日めの今日は、それまで何の変哲もない一日だったんだ。
いつも通りの体操に朝練。味気ない朝食に、退屈な午後の授業。そしてまたスキル訓練のために周囲を走っていた、たった今まではね。
僕は足を母屋に向け、一目散に駆けだした。連日の訓練で、依然とは比べものにならない脚力が付いている。といっても、前世で言うと所の短距離走選手位の実力だが、それはさておき走った。
森を抜け、倒木を飛び越え、井戸の前を通って荒々しく家の玄関扉を開ける。
するとそこには――
リビングに這いつくばり、荒い呼吸を繰り返している少女の姿があった。
「フッ! フッ! フッ! フッ!」
ギロリと獣血に飢えた赤金色の瞳が僕を捉えた、次の瞬間。彼女の姿がぶれて、僕は壁際にまで吹き飛ばされた。
衝撃が肺を圧迫して、うまく言葉にならない。頭を少し打った様で意識が朦朧とする。
「くそっ、痛ぇ」
「大丈夫ですか善宏様!」
「ルパートさん? ここで何して」
「危険ですので下がって下さい!」
霞む頭で状況を整理しつつ立ち上がろうとしたが、まだ足にきていて無理だ。それでも吐き気を抑えて目を凝らすと、僕と変わり果てたファーラの閒に立つルパートさんの姿が映った。掲げた両手の前には魔法陣が浮かんでいて、それが少女の攻撃を防いでくれている様だ。恐らくさっきの衝撃は、ルパートさんが僕を守るために割って入ってくれたものだろう。
それにしても、こんな全身殺気立っている黒猫執事さんを見るのは初めてだ。僕は動揺していると、パーカーのポケットからルーシーの声が聞こえた。
「善宏様! スマホをファーラに向けて下さい! 早く!」
「あっ……あぁ、うん!」
おぼつかない手でスマホを取りだして、狼の様に唸っている少女に向ける。
「ファーラ・イル・アニエスカの現状況を鑑定するには、徳分ポイントが500必要です! 識別されますか!」
「くそっ! ここまできてまだポイントかよ! いい加減に」
「識別されますか!」
ルーシーは今までにない迫力でそう叫んだ。
「あぁっもう分かったよ! 承認だ承認!」
投げやりになって画面の決定ボタンをタッチする。するとスマホ全体から青白い光がファーラに向けて放たれた。
「情報解析中、終了まで40秒! ルパート、耐えて!」
「承知!」
ファーラの攻撃は一層激しくなったが、ことごとくルパートさんが張った魔法障壁により阻まれている。
「これが本当のファーラ……なのか?」
僕は呆然として、ただ嵐の様に荒れ狂う少女を見つめていた。
美しかった髪の毛は深紅に染まり、逆立っている。羊に似た二本の角も、すっかりどす黒く変色しており、禍々しい。そして今気が付いた事はあの牙だ。バンパイアの様に口からはみ出した上顎の両犬歯が、妖しい光を放っている。
所々破れたワンピースの背中からは、小さな漆黒の翼が今にも羽ばたかんと両翼を広げており、黒く細長い尻尾は不機嫌そうに揺れていた。
そしてあの目だ。僕を見る目。
あれは嫌いな者を攻撃するとか、そういう目じゃない。金色の瞳が赤黒く見つめるその先にあるものは、捕食の対象。そう言った方がしっくりくる。
僕は今、本当に命の危機にさらされているんだ。
ようやく自体が飲み込めた時、初めて膝が震えた。次に手が震えてきて、たまらずに叫んだ。
「一体……これはどうなってんだよ! なんなんだ!」
「善宏様、落ち着いて下さい!」
「落ち着けだって! ここっ、この状況で落ち着いてなんかいられるか! 何で僕が命を狙われなきゃいけないんだ!」
ルーシーは静かに語った。
「それは貴方様が人間だからです。我々眷属妖精とは違い、明確に血肉を持った存在だからなのです」
「識別結果が出ました。ファーラ・イル・アニエスカの異常行動の原因は、一つは今宵の満月にあります。月に魔力が満ちて、赤く輝く今夜は、血の満月と言い、数年に一度、モンスターの感情が高ぶって攻撃的になるという現象が起きます。そして魔族を含めたモンスター達は、他の生命体の血を欲します」
「次に、ファーラがまだ幼く、自分の内に潜む魔族の血を制御で出来ていないせいでもあります。通常の魔族同士ではなく、人間とのハーフなので、体内で血統と魔力の合流が出来ず、奔流の様に荒れ狂っているのです。彼女はこれに振り回されています」
「そして最後の要因ですが。あの子が今まで薬を飲まなかったためです」
「薬? あの包み紙の!」
「はい、その通りです。彼女はいつも食事を終えると、与えられた薬を飲まずに、花瓶の中に捨てていました」
「そんな馬鹿な!」
ルパートさんが叫んだ。今もなお攻撃は続いており、それを懸命に一人で防いでくれている。その額には玉の様な汗が滴っており、苦悶に顔が歪んでいる。
「いえ、事実です。このままでは少なくとも満月が沈むまで、彼女は狂い続けるでしょう」
僕達の閒に沈黙が流れた。ファーラは相変わらず歯をむき出して見えない壁に拳を突き立てていた。各々に落胆の色を隠せない。ルパートさんが重い口を開いた。
「聞いて下さい善宏様。このままでは私の障壁が持ちません。ですから善宏様は退去して下さい。ファーラが薬を飲むのを見届けなかったのは、私の罪です。責任をもって対処致します」
「責任をもってって……どうするつもりなんだ」
「最悪の場合、私が彼女を処分します」
「そんなの駄目だ!」
良い悪い関係なく、反射的に僕はそう叫んでいた。
「駄目だよ、まだ仲良くなってもいないのに! 僕はシャノンさんに頼まれたんだ、可哀想な女の子を助けてあげて欲しいって!」
「しかし、ファーラの力は想像以上です! 今はやや私が優性ですが、ここで禍根を断っておかねば、後顧の憂いを抱える事になります!」
「それでも何か、何か方法があるはずだ! そうだろルーシー!」
僕は一縷の望みをかけて、スマホに向けて叫んだ。
「ございます」
「やっぱり! そらみろ、何にだって解決方法は」
「ですが、シュミレーション結果による成功確率は20%です、そして善宏様の生存確率は――」
「3%です」
「そんな……冗談だろ?」
「あくまでも試算結果ですが、事実です。彼女の救出が成功するにせよ、失敗するにせよ。97%の確立で貴方様は死亡するでしょう」
ルーシーの声がやけに遠くに聞こえた。背中を冷や汗が伝い、視界が歪む。
今、なんて言ったんだ? 僕が死ぬだって?
ははっは……冗談だろ? くだらない社畜だった日常から抜け出して、この異世界で金髪ボインなわがままボディの持ち主を周りに侍らせながら、面白可笑しく暮らすんじゃなかったのかよ! どうなってやがる!
畜生! 畜生! 畜生! 畜生! あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
僕は四つん這いになり、ブルブル震えながら、祈る様に両手を組み合わせて額ずいていた。そして、何も言えないでいた。
「もう宜しいでしょう。善宏様は充分頑張られました。これ以上付き合って頂くのは酷と言うもの。この家から出て下さい」
「僕は……」
「私もそう思います。どうぞお逃げ下さい」
「だから僕は」
「善宏様、お名残惜しゅうございますが、これにてお別れです、どうか」
「いいから黙って聞けよ! 僕はやるんだ! 今そう決めたんだ! だからルーシー! さっさとあの子が助かる方法を教えろ! 早く!」
「僕の気が変わる前に!」