1話 プロローグ
ある朝、目が覚めるとそこは見知らぬ花園だった。
明るい日差しの中、色とりどりな花々の中心に白いテーブルセットがあり、ティーセットやお菓子等が並べてある。
僕は夢を見ているんだろう。
昨日は会社から帰ってからの事を思い出す。
あれ? どうだったっけ。会社を出る所までは覚えてるんだけど、その後があやふやだ。畜生。ブラックな会社に勤めていると、段々感覚が麻痺してくるけど、そのうち絶対止めてやるからな。
それにしても、やけにリアルな夢だ。この森や、花。机やティーカップなんかもまるで本物みたいだぞ。
ふらふらと歩いてカップを手に取ってみると、驚いたことにちゃんと質感が感じられた。今までにも夢は何度も見たけれど、ここまで具体的なのは初めてだな。
「そう突っ立ってないで、お座りなさいな」
突然、言葉が投げかけられた。見るといつの間にかテーブルの向こう側に髪の長い女性が座っており、神秘的な眼差しを僕に向けている。
「あっ、はい」
思わず返事をして、言われるままに椅子に座ってしまった。よく見ると、女性は目が覚めるような美人だった。抜けるように白い肌と、同じく白い髪。青い瞳は澄んでいたけれど、どこか眠たげに見える。只何よりも気になったのは、彼女の耳だ。人間のそれではなく、明らかに尖っている。ファンタジーで言うところのエルフってやつか。
「まぁその認識で間違ってないわよ」
突然彼女はそう言った。僕が驚いた顔をしていると、それが可笑しかった様でクスクスと笑った。
「あらご免なさい。気を悪くしないでね。ここは私の庭だから、言葉にしなくてもある程度の事は分かるのよ」
笑う美女の正視に耐えきれず、思わず俯いてしまう。僕はものすごく不細工でもないが、取り立てて見た目が良い訳でもないので、美男美女の知り合いは出来なかったんだ。だから美人さんの前に出ると恐縮してしまう。それが外人さんならなおさらだ。
ん? あれ? 何で外人さんと僕、話が通じてるんだ?
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、すぐに自分で打ち消した。
あぁそうか。夢だからだよな。何考えてるんだ僕は……
「夢じゃないわよ」
透明感のある声がまた、僕の耳に響いた。
「諏訪 善宏さん。貴方はもう亡くなっているの」
美女はそう言って、お茶を啜った。
「私はシャノン・トゥーイ・イー。ようこそ我が楽園へ」
あんぐりと口を開ける僕を見て。彼女は少し、いたずらっぽく笑った。
「僕が死んだって……え? そんな」
事態が飲み込めなくてアタフタしていると。目の前のシャノンと名乗った女性が手を小さく振った。すると途端に辺りが暗くなり、足下にある映像が映し出された。
これは葬式か? 参列者が見える。結構大きな式だな。
あそこで泣いているのは、世話になった児童養護施設の高橋先生かな? あぁそうだ。暫くぶりに見ると、結構老け込んじゃったな。
げっ! あそこにいるのは社長じゃないか! しおらしく頭を垂れているけど、こんなところで何してるんだ?
「貴方は会社から帰る途中で心不全になり、そのまま命を引き取ったのよ。死因は過労死。自分でも心当たりがあるでしょ?」
いつの間にか側に来ていたシャノンさんが、そう語りかけてきた。ちょっとドキドキする。
「ええまぁ、心当たりはありまくりですけれど」
零細ゲーム会社でプログラマーとして働いていた僕は、一週間会社に缶詰にされ、やっと解放されたところだったんだ、そう言えば。
前々からヤバいとは思っていたけれど、ここ最近の労働は地獄だったからな。身体の調子が悪いのも、いつもの事だったから気にしないようにしてたけど、それがかえって良くなかったのか。でも――
「自分の一生って何だったんだろう」
思わず呟いてしまった。
それなりに仲の良い友達もいたけれど、恋人も出来ずじまいだったし、特別な才能があった訳じゃない。ただ会社の言いなりになって働いてただけだ。
僕は何も映画俳優や大金持ちの実業家なんかになりたかったんじゃない。何かやりがいのある。人に感謝されて、自分も幸せになれる様な、そんな当たり前の実感が欲しかっただけなんだ。
あり得ない事だけど、今こうして自分の葬式を見ていてそう思う。失ってみて始めて分かるものがあるって色んな人が言ってたけれど、まさにそれだ。でも後悔しても遅い。もう自分は死んだのだから。
僕は改めてシャノンさんの方へ向き直ると、深々と頭を下げた。
「分かりました、ありがとうございます。おかげで決心が付きました」
「そう、それは良かったわ」
「はい、大人しくあの世に行こうと思います。連れて行って下さい」
「それはいいんだけれど、貴方が思っている所とは、全く別の所よ?」
「はい?」
いつの間にか辺りは元の花園に戻っており、シャノンさんは優雅にお茶を嗜んでいた。
「これは提案なのだけど、次の人生はやりがいのある一生を送りたくはない? もしそう思うならば私達の世界に来なさい」
「私達の、世界?」
「そう、貴方達の言うところの、異世界ね」
穏やかな風が吹き抜けて、シャノンさんの美しい白髪を揺らした。その姿を見れば、全ての画家が描きたくなるだろうというほどの神々しい微笑を湛えて、彼女は驚くべき事を僕に打ち明けたんだ。
「もし貴方が望めばなのだけど、私達の世界に魂を移すことが出来るわ。身体の方も安心して、こちらで用意するから」
「はぁ」
「勿論、私の提案を蹴り、このままこの世界の因果で再誕も出来るわよ。300年もすれば生まれ変われるんじゃないかしら」
シャノンさんは淡々と言うけれど、いまいち頭の理解が追いつかない。どういうことだ?
「あ、貴方は地獄の閻魔大王様とか、そういった感じの方ではないんですか?」
「えぇ違います。そうね、例えるならこの世界にリクルートに来た異世界の神様って言えば分かりやすいかしら? まぁいいとこ中堅なんだけど」
「か、神様、ですか。でもなんで僕なんですか? そんな、特に特技とかもないですし」
「いえ、貴方は持っているわ」
俯いた瞬間に、シャノンさんはいきなり目の前に現れた。驚いて顔を上げると、その瞳に僕の姿が映る。
「生前に使い切れなかった徳分を、ね」
「徳分ってなんですか?」
聞き慣れない言葉だけど、どういう意味なんだろう。
「徳分とは、分かりやすく言えば、人を幸せにしたら貯まる、善のカルマよ。仏教用語にもあるんだけど、知らないかしら?」
「はは、すいません。高卒なもんで」
「いいわ、時間はあるんだからゆっくり説明しましょう――」
その後僕は、着席を促されて因果法則の説明を受けた。良いことをしたら徳となり、悪いことをしたら劫になって、僕等の目には見えない帳簿に付けられている事。それらは、前世から連綿と引き継がれ、基本的には相殺されないそうな。
それらの要因を踏まえ、魂の修行をするために、僕達人間は生まれ変わり死に変わりする――らしい。
「この法則は、例え異世界であると言えども同じよ。ただ魔法の概念が発達しているだけでね」
「魔法ですか?」
「そうよ善宏さん。私達の世界に来てもらえるのなら、それ相応の贈り物をさせて頂きます。勿論徳分に応じた限度はあるのだけど」
上品に紅茶を飲むシャノンさんを余所に、僕は興奮していた。魔法だって? 何それ、夢あるなぁ。
「で、でもその代わり、何かしなくちゃいけないとか、あるんですか?」
少しおっかないけど、勇気を出して聞いてみた。何事にもうまい話には罠があるもんだ。あの会社に入社した当初も、ウチは残業ないからみたいな嘘をしれっと言いやがるもんだから、ころっと騙されたもんだけど、同じ手を食いたくはないからね。
するとシャノンさんは、すうっと目を細めた。
「そうね――善宏さん、貴方にはある女の子を育てて頂きたいんです」
女神様のおっしゃった条件は、予想だにしない意外なものだった。
「とても可哀想な子なの。色々と難しいところはあるけれど、貴方の様な優しい方に面倒を見てもらえれば、あの子もきっと幸せになれると思うの。引き受けて頂けないかしら?」
ついさっき始めて会ったとはいえ、神様から直々にこんな風にお願いされてしまうと信仰心の欠片もない自分だとしても、調子よくこんな風に言ってしまうんだ。
「あっ、はい。まっまぁそれぐらいなら、出来ないこともない……かな? あはは」
この時僕は、あまり深く考えず、穏やかな雰囲気に流されるままに了承してしまったのだけれど、これが後の大騒動の繋がって行くとは知る由もなかったんだ。
まぁシャノンさんだけは分かってたと思うけど。