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初恋9

小心者の私は、何がどこにあるのかがわかっていないと居心地が悪い。


食器棚の食器はしまわれる場所が決まっているし、はさみやペン、爪切り。


小さなものにも定位置があって、使ったら元の場所に戻さなければ気が済まないのだ。


冷蔵庫の中だって、食材ごとに保管する場所は決めてあるし、クローゼットの中の洋服もアイテムごと、色ごと、そしてサイズごとに分けてある。


そのおかげで、私の家はいつも整理整頓されていて綺麗だ。


もちろん掃除もちゃんとしているから、いつ誰が来ても散らかっていて恥ずかしい思いをすることはない。


「へえ。最後に萌の部屋に入ったのってかなり前だけど、あの頃と変わらず綺麗にしてるんだな」


リビングのソファに腰を降ろした翔平君が、部屋を見回している。


まさか今日、自分の家に翔平君が来るとは思っていなかった私は落ち着かない。


ここは自分の家だと言うのに、翔平君のほうがリラックスしている。


「最後に私の部屋……私が高校生の頃だよね。必死で受験勉強をしているのに兄さんとふたりで突然飛び込んできた」


私は上ずった声でそう答えた。


「ああ。たしか、樹が大きな仕事を終えて気分よく酔っぱらってそのまま萌の部屋に乱入したんだったよな。あのとき萌は数学の問題が解けなくて泣きそうで、俺が酔っぱらった頭で教えたんだっけ」


「うん。翔平君に教えてもらって数学は助かったけど、もう二度と突然入ってこられるのは嫌だから次の日には私の部屋に鍵をつけたもん」


「くくっ。覚えてる。樹が『萌が部屋から俺を追い出すんだー』って言って泣きついてきたし。でも萌は絶対に鍵を外さなかったよな。だけど、樹はあれに懲りて、酒にのまれないように注意するようになったから良かったんじゃないか?」


「うん。まあ、兄さんもあれからすぐに異動になったから会社の近くでひとり暮らしするようになったんだけど」


「ひとり暮らしは、異動っていうより、恋人と会える時間を増やしたかったからだろ? ただでさえ遠距離だから、こっちで会えるときにはふたりきりで過ごしたいだろうし。……あ、あの写真」


「え?」


何に気づいたのか、翔平君は立ち上がりキッチンとリビングを仕切っているカウンターに近づいた。


そして、カウンターの端に飾っているフォトフレームを手に取った。


白い枠にパールの飾りがいくつか輝いているフレームには、私と翔平君のご両親が笑顔で並ぶ写真が納まっている。


先週、引っ越し祝いにといろいろ持って訪ねてきてくれたときに撮ったものだ。


ふたりは今も変わらず忙しく、その日も撮影の合間をぬって時間を合わせて来てくれた。


『このソファで翔平といちゃいちゃしてもいいのよー。いつ萌ちゃんが翔平のお嫁さんになってくれるのかって楽しみにしてるんだから。でき婚、ううん、今は授かり婚って言うのよね、私はそうなってもOKだからね〜』


明るくそう言って、さっきまで翔平君が座っていたベージュの二人掛けのソファをプレゼントしてくれた。


それにしても、“授かり婚”と言われたとき、それを期待してしまう自分にドキリとしたことは翔平君には絶対秘密だ。


そして、事前になんの連絡もなく突然運び込まれたソファにはかなり驚いたけれど、そのソファには見覚えがあってさらに驚いた。


翔平君のお母さんである美乃里さんが去年出演した映画の試写会に招待されたとき、映画の中で使われていたソファが気になってどこのソファなのかと聞いたことがあった。


そのソファが運び込まれるのをまじまじと見ながら、何度も「え? え?」とつぶやきながら美乃里さんを振り返った私に、彼女は大きな笑顔を見せて教えてくれた。


『萌ちゃんがマンションを買ったって聞いたから、お祝いは何にしようかなって考えたときにこのソファがすぐに浮かんでね。あの映画のスタッフやらいろんなルートをたどって取り寄せたのよ。この部屋にサイズも合ってるし雰囲気もばっちりね』


昔から思い立ったらすぐ行動の人だったけれど、いきなりのソファには驚かされた。


たしかに次のボーナスでソファとオットマンを買おうと思っていたし、私の好みにもぴったりのソファは嬉しかったけれど、安いものではないとわかっているだけに申しわけなくて、何度も頭を下げた。


おまけにそれ以外にも食器や電化製品が部屋に積み上げられ、その量に圧倒された。


申しわけないと遠慮する私に美乃里さんは「これまで萌ちゃんのご両親が翔平にしてくれたことを考えたらこれくらい、まだまだよ。なんならローンも引き受けてあげたいくらいなのに」とけらけらと笑っていた。


「この写真って、このリビングで撮ってるよな?」


翔平君はとがった声をあげ、写真と私を交互に見ながら聞いてきた。


「うん。ソファを運んでもらったあと、お寿司をとってうちの家族と一緒に引っ越し祝いをしたの。そのときの写真だけど?」


「はあ? 俺、呼ばれてないけど」


「……うん。呼んでないよ」


「俺の両親が呼ばれてるのに、なんで俺のことは無視なんだよ」


突然大きな声をあげた翔平君は、手にしていたフォトフレームをカウンターに置くと、不機嫌な顔を隠そうともせず私に視線を向けた。


「翔平君? あ、もしかして、お父さんとお母さんに会いたかった? このところ撮影が続いているからなかなか会えないって美乃里さんも言ってたし」


「……お前、それ本気で言ってる?」


「うん。だって、呼ばれなかったって拗ねてるし」


「拗ねるかよ。それに、とっくに30過ぎてる男が親に会えなくて拗ねるってひくだろ、普通」


「そう?」


「あー、もういい。とにかく、俺ひとりが萌の新居を知らなかったってことだよな」


投げやりにそう言うと、翔平君はするりするりと一歩ずつ私に近づき、私の前に立った。


「えっと、翔平君?」


今の会話の何が彼の地雷を踏んでしまったのだろうか。


躊躇しながらも、翔平君を見上げた。


「で、この写真を撮ったのは樹? それともおじさん?」


「……兄さん」


「ふーん」


翔平君は低い声でつぶやくと、私を囲うようにカウンターに両手を突いた。


あっという間に翔平君の胸が目の前にあり、さっきコンビニの前で抱きしめられたことを思い出した。


あのときも翔平君のシャツやらボタンを見ながらそれに触れたくて仕方がなかったっけ。


そのときと同様、鼓動がとくとくと鳴ってうるさい。


翔平君にも聞こえているんじゃないだろうか。


今日はやたら翔平君が私との距離を詰めてくるし甘すぎるし。


というより、この状況。


「翔平君、あの、どうしたの?」


「どうしたって? かなりむかついてるだけだけど。樹がこの写真を撮って? で、その様子をおじさんおばさんが見てたんだろ? 俺のことは無視して? 俺の家はこのマンションから歩いて十分もかからないって知ってるよな? 何度か樹と一緒に遊びに来たもんな」


「あ、うん。コンビニから歩いて五分くらいで、茶色い外壁の」


「それを知っていながら、俺抜きで引っ越し祝いとやらをしてたって?」


「あ、ごめん。別に仲間外れにしたわけじゃなくって、兄さんが、翔平君は恋人と楽しくやってるだろうし邪魔しちゃ悪いって言って」


「あいつ……今度会ったら殴る」


「翔平君?」


本気で怒っているとわかる低い声に、ぴくり、体をすくめた。


「樹は俺が萌に近づくのがよっぽど嫌なんだな。っていうか、いい加減、妹離れしろよな」


翔平君は、私を腕に閉じ込めたまま、ぶつぶつ言っている。


兄さんと翔平君のけんかというかじゃれ合いはしょっちゅうだから、とくに気にすることもないだろうけれど、本当に悔しそうな声でつぶやいている。


よっぽど私の引っ越し祝いを一緒にしたかったのだろうか。


翔平君は否定しているけれど、滅多に会うことのないご両親と会いたかったのかもしれないし、私たちだけで楽しく過ごしていたと知って寂しいのかもしれない。


恋人と一緒だと聞いて声をかけずにいたけれど、それは間違いだったのかな。


だけど、もしも恋人と一緒に来たらどうしていいのかわからない。


結婚を考えているという恋人に優しくしている翔平君を見るのは、正直つらすぎる。


あの日、もちろん翔平君を呼ぶことも考えたけれど、そんなことを考えているうちに呼ぶタイミングを失くしてしまった。


三崎紗和さんとふたりで私の家に来られても、笑える自信もなかったし。


でも、さっきのコンビニで聞かされた翔平君からの言葉を思い出して、わけがわからなくなる。


私と一緒に暮らすだとか、プロポーズだとか、たしかに言っていた。


そして、ずっと我慢をしていたと言っていたけれど、翔平君の口から出た言葉だとは思えない。


「翔平君、さっき言ってたけど……我慢って何?」


私は思い返すように聞いた。


「ああ。望んでいた仕事を諦めた萌が、縁あって就いた今の仕事に満足できるようになるまで。そして、満足するだけでなく成果をあげて認められるようになるまで。

俺は萌を自分のものにするのを我慢していたってこと」


打てば響くように返ってきた答えに、たじろいだ。


今日会ってからずっと、曖昧に言葉を濁され続けていたせいか、私の問いに、こうもすんなりと答えを出してくれるとは思っていなかった。


コンビニでもなかなかはっきりとしたことは言ってもらえなかったのに。


そんな私の気持ちが顔に出たのか、翔平君は小さく笑った。


「この五年、言わずにいたことを言って驚かせてもいいか?」


「驚くのは、嫌だけど……え、五年?」


「ああ。俺が萌の就職をだめにしたあの日からずっと言わずに我慢していたことだ」


「あ、あのことなら違う。翔平君がだめにしたんじゃない。私が自分で決めたことだから、翔平君が気にすることはないし、それに、採用試験を受けても落ちていたかもしれないし」


翔平君の低い声を聞いて、私は慌ててそう答えた。


これまで、翔平君も私も、あの事故によって私が諦めた採用試験のことを話題にすることは滅多になかった。


もちろん、翔平君からは「申しわけなかった」と言って頭を下げられ、翔平君が働いている事務所への就職を所長さんにお願いするとまで言ってくれたけれど。


私が採用試験を受けなかったのは翔平君が悪いわけではないし、自分で決めたことだから、それはおかしいと言って断った。


翔平君というコネを使って入ったとしても、当時の私にはあんなに大きな事務所で仕事をこなせる自信もなかったから。


申し出を断った私に、翔平君は残念そうな顔をしていたけれど、その後縁あって今の事務所に採用が決まったときには「萌に合っている事務所かもな」と言って喜んでくれた。


それを境に、あの事故によって私が諦めた就職のことはクリアにされたと思っていたのに、どうして、五年も経った今になって再び口にするんだろう。


「もちろん、あの事故が俺のせいだとは思っていない。それに、萌が予定どおり採用試験を受けても落ちていたかもしれない。だけど、夢を叶える可能性を捨てさせたのは俺だ」


カウンターに両手を突き私を包み込んでいた翔平君は、その手を私の背中にすっと回した。


そして、ゆっくりと私の肩に自分の額を乗せた。


首筋に触れる翔平君の頬、そして唇。


今日何度も翔平君に抱きしめられているせいか、どきどきしながらも抵抗なくそれを受け入れている自分に驚いてしまう。


「萌」


翔平君は、私の耳元で小さくつぶやいた。


「萌が高校生の頃、志望大学をどうするか悩んでいただろ。萌の家族は行きたい大学が遠いならひとり暮らしも仕方がないって言ってたけど、俺はそれに反対したよな。女の子のひとり暮らしにいいことはないって言って、俺の目の届く場所に置いた」


「うん、わかってる……けど?」


当時の翔平君は何がなんでも私を遠くの大学には行かせないという決意を露わに見せ、家族の誰よりも私の大学受験に一生懸命だった。


志望大学を決める三者面談に顔を出してもいいとまで言っていたけれど、さすがにそれはまずいと兄さんが止めてくれた。


私のことに関しては普段の落ち着いた姿からは想像できない口やかましさ……というか人一倍熱い想いを持っていたけれど、それも今では笑い話のひとつだ。


当時を思い出して、口元だけで笑っていると。


「いよいよ就職活動が始まって、萌が希望している会社はかなり遠いって樹から聞いたときも、そんなの認めないって言ったんだ」


「え? 兄さんに?」


「そう。仕事帰りに樹に呼び出されて飲みにいって、そのときに知らされた」


予想もしなかった話にどう答えるべきかわからなくて、私はじっと聞いていた。












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