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初恋7

実家を出てひとり暮らしをする覚悟をもっての採用試験だったけど、私には翔平君が一番大切なんだと、改めて気づかされた。


いい加減、長すぎる初恋に区切りをつけて翔平君から離れる絶好の機会だと思っていたというのに。


ひとまずその機会は後回しにして、翔平君の近くにいることを選んだ。


こじらせた初恋を、いつまで抱えていればいいのだろうかと悩みながらも、目の前で傷ついている翔平君のそばにいたかった。


その後翔平君が退院し、仕事にも戻り日常生活が再会された頃。


私は今働いている「別府デザイン事務所」との縁があり、採用された。


翔平君が働いている事務所も魅力的だったけれど、私には規模が大きすぎて二の足を踏んでしまった。


マスコミに名前や顔が取り上げられるデザイナーが多く在籍してい事務所に私は向かないと思ったことと、別府所長の温かい人柄に魅かれたことが大きな理由だ。


「向いてるかどうかは入ってみなきゃわかんないだろ」


翔平君に背中を押されながら歩いていると、目の前には翔平君の顔があった。


いつも通り整いすぎたその顔、嫌味なほどだ。


私は、過去に思いを巡らせていた気持ちを切り替えた。


「それはそうなんだけど、私には翔平君みたいにばりばり仕事ができるとは今でも思えないし」


「何言ってるんだよ、別府さんに鍛えられていい仕事してるだろ? あのラベルの仕事だって評判いいし」


「え? 翔平君、別府所長のことを知ってるの?」


翔平くんの口から別府所長の名前が出たことに驚いた。


私が働いている「別府デザイン事務所」の所長であり、就職活動に迷いを感じていた私を採用してくれた恩人でもある。


世間が注目するような大きな仕事ばかりをするわけではないけれど、引き受けた仕事は確実に、ううん、依頼以上の仕上がりで納品する、知る人ぞ知る有名デザイナーだ。


今回私も参加させてもらった飲料水のラベルの仕事も別府さんの実績がモノを言って手に入れた仕事らしいし、奥の深い人だと思う。


けれど、普段の別府所長にはそんな気負いも何もなく、絵を描くことが大好きな紳士だ。


実力があるのはこの五年で理解したけれど、大きな仕事だけでなく、それほどのお金にはならない仕事だって興味があれば積極的に受けている。


先月納品した、雑貨屋さんの包装紙のデザインはとても評判がよく、雑貨屋さんの近所の書店からもブックカバーのデザインの依頼を受けた。


私も別府所長のサポートとして携わったせいか、書店からの依頼を聞いたときには飛び上がるほど嬉しかった。


ひとつひとつの仕事をしっかりと仕上げれば次につながるということを実感し、地道にのんびりと仕事を楽しむその姿に私は大きな影響を受けている。


就職活動中はデザインよりも自動販売機の設計をしたかったというのに、出会いの不思議か自分の気持ちの変化か。


別府所長のように周囲から信頼されるデザイナーになりたいと思うようになった。


翔平君のように世間からの注目を浴びるような大きな仕事を任されるのもすごいと思うけれど、私は別府所長のような、小さな仕事を気持ちを込めて進めることができるデザイナーになりたいと思っている。


そんな別府所長と翔平君の接点を考えていると、翔平君が言葉を続けた。


「別府さんと俺の上司が知り合いなんだよ。何年か前に上司と飲みに行ったらその店に別府さんがいて、それ以来何かと世話になってるんだ」


「そんなこと、初めて聞いた。今日も私が煮詰まってるときにシュークリームを差し入れてくれて一緒に食べたけど」


「へえ。相変わらず萌はシュークリームが好きなんだな」


「うん。翔平君もよく買ってきてくれたよね。あ、『ルイルイ』に開店前から一緒に並んで買ったこともあったね」


「太るからもう買ってくるなって言われてやめたけどな。萌が高校の頃か……あの頃からずっと同じ髪形だったのに、思い切ったな」


「え?」


「細い首が、綺麗だな」


背中に置かれていた翔平君の手が、すっと私の首筋を撫でた。


「な、なに……っ」


「今まで髪で隠してたんだな」


焦る私に構うことなく、翔平くんは何度も手の甲で私の首や耳に触れる。


それに反応するかのように私の心臓は大きく跳ねて息苦しくなる。


「翔平君、ちょっとやめて」


歩みを止め、翔平君の手をそっと拒むと、その手は再び私の腰に回された。


「メイクがいつもよりも派手に見えるのは、ライトアップのせいじゃないよな」


翔平君の顔が私の目の前にぐっと近づき、確認するように問いかける。


面白がっているように聞こえるのは何故だろう。


髪形のことといいメイクのことといい、どこか嬉しそうにも見える。


「髪が茶色になるだけで、大人っぽくなったな。ルージュもいつもより濃い赤だし」


翔平君の指先が、少しの躊躇もなく私の唇に触れた。


あっという間のその仕草に抵抗することもできず、私は驚いたままその指先が離れていくのを見ていた。


「どんな萌もかわいいけど、今の萌はどちらかというと綺麗だな」


「きれい……?」


「ああ。アマザンでエステをしてきたんだろう? メイクもプロにしてもらって、モデルのようだな」


大人になってから、ここまであからさまに私を誉める翔平君を見たのは初めてだ。


高校生の頃までは兄さんほどではないにしても私が喜ぶような言葉をくれることも多かったけれど、成長するにつれて保護者のように厳しさが混じった言葉をかけられることが増えた。


この間深夜のコンビニで会ったときにも不機嫌な顔で文句ばかりを言われたし。


体を寄せ合うような近い距離にも慣れていないし、溶けてしまうような甘い口調もどう答えていいのかわからない。


今私はどうすることが正解なのかわからなくて、何度も口をぱくぱくさせている。


おまけに翔平君の手が肩に回されて、押し出されるように歩き出した。


「しょ、翔平君、どうして、あの」


こころもとない足取りで翔平君と歩いても、どこに向かっているのかもわからないし、こうしてふたりでいること自体おかしい。


「翔平君、どこに行くの?」


「ん? こんなに綺麗にしてもらった萌を見せびらかしながら食事でもしたいところだけど、今日はこのまま帰ろうか」


「見せびらかし……? 帰るってどこに?」


楽しげに話す翔平君を見ると、私を見つめる視線とぶつかった。


私とこうして会ったことに驚いているわけでもなさそうだし、髪形を変えたり丁寧なメイクをほどこしてもらったこともなんとも思ってないようだし。


「アマザンで」と迷いなく言っていた気もする。


今日、エステでアマザンに行くことを兄さんから聞いていたのだろうか。


それに、今ここで会ったのが偶然ではないような気がして戸惑ってしまう。


髪形も変えて、きっちりとしたメイクもしている私を見て、これから私に用事があるとは思わないのだろうか。


ひと言くらい、何か聞いて欲しいけれど。


私が混乱していることは顔にも表れているはずなのに、翔平君は意地悪だとも思える笑顔を見せるだけだ。


「萌が好きなオムライスをテイクアウトしようか」


「あの、翔平君?」


「それともカツサンドがうまい店を事務所の女の子に教えてもらったんだけど」


「翔平君、オムライスでもカツサンドでもどっちでもいいけど、どうして一緒に帰るの? それに、どこに?」


いつまで経ってもはっきりしたことを言ってくれない翔平君に焦れて、思わず大声をあげた。


すれ違う人たちがちらりちらりと振り返り、恥ずかしくなる。


翔平君はそれが気にならないのか、私の肩を再び抱き寄せてくすりと笑った。


「じゃ、萌の家に一緒に帰って、テイクアウトしたオムライスを食べようか。どうして一緒に帰るのかと言われれば、今日から俺は萌と一緒に暮らすから」


翔平君の言葉を頭で何度も繰り返す。


「一緒……? え? 暮らすって、どういう……」


軽い足取りで駅に向かう翔平君に引きずられるように歩きながら、私は何度も気の抜けた言葉を繰り返した。


翔平君は私の問いかけに答えることもなく、嬉しそうに口元を上げて歩き続ける。


さらに近くに肩を抱き寄せられ、出会って以来初めてかもしれない密すぎる距離感に言葉を失ってしまう。


そっと見上げれば、ずっと想い焦がれていた人の横顔があり、ふたりの体温が重なり合っている


まるで恋人同士のような甘い触れあいが嬉しくて眩暈すら覚える。


彼はもうすぐ私じゃない女性と結婚するというのに。


そして、結婚相手に違いない三崎紗和さんに申し訳ないと思いながらも、今この瞬間がいつまでも続けばいいと、思わずにはいられなかった。


その後翔平君は駅には向かわず、ちょうどやってきたタクシーを止めた。


慌てる私を後部席に押し込み、当然のように自分も乗り込んできた。


「ちょ、翔平君、どうして……」


「萌の家に行くって言っただろ?」


「は?」


翔平君は私の気持ちは完全に無視したまま、運転手さんに行先を告げた。


それは間違いなく私の家の近くで、この間翔平君と偶然会ったコンビニの前という、ピンポイント。


「突然決めたから、泊まる用意を何もしてないんだよな。コンビニでいろいろ買っていくから」


「翔平君、私の家に泊まるっておかしいでしょ」


「おかしいって言われても、今日から一緒に住むって決めたし」


「だからそれがわからないんだけど」


「まあ、それはあとで話すから。まず一本だけ電話を入れさせてくれ。急いで事務所を出たから、できなかったんだ」


翔平君は私の戸惑いも何もかもを無視したままジャケットのポケットからスマホを取り出し電話をかけ始めた。


「急いで……?」


ということは、翔平君には何か大切な用事があったんじゃないのだろうか。


私と偶然出会って一緒にいるけれど、もしかして彼女との約束があったとか。


普段見る機会が少ないスーツ姿もかなり格好良く決まっているし、特別な何かがあったに違いないけれど、電話を始めた翔平君にそれを聞くこともできない。


聞くつもりがなくても耳に入ってくる翔平君の言葉を聞いていると、電話の相手は彼女ではなく、仕事関係の人らしい。


来週に予定している打ち合わせの日程を決めているようで、少しほっとした。


だからといって翔平君が結婚するという事実が変わったわけではないけれど、ふたりきりでいるときに、たとえ電話だとしても恋人の存在を感じたくはない。


そう思う自分はなんて身勝手だろうと思うし、恋人に申し訳ない思いもあるけれど、せめてふたりでいる今だけは、その気配を感じずにいたい。


流れる景色をぼんやりと見ていると、翔平君が私を引き寄せた。


後部座席は三人掛けだというのに、ふたりの間に距離はない。


おまけに、引き寄せられた勢いで翔平君の体に倒れ込んだ私は、そのまま肩を抱かれてしまった。


私の顔は翔平君の胸に押し付けられ、身動きがとれない。


体を離そうともがいたけれど翔平君の腕の力はかなりのもので、離れることができない。


それどころか指先で私のまぶたを撫でる余裕まで見せ、私の体から力という力すべてが消えてしまった。


ふにゃり、翔平君の胸に体を預け、何度か浅い呼吸を繰り返した。


そうでもしないと窒息してしまいそうなくらい私の体はどきどきと激しく震えている。


スマホを耳にあて誰かと話している翔平君の声が胸から耳にダイレクトに伝わってくる。


低く艶のある声が私の体に響くたび、心臓が止まりそうになる。


思わず目を閉じてふうっと息をつくと、今まで私のまぶたにあった指先は耳朶に移り、そして首筋をゆっくりとたどっていく。


「しょ、しょうへーくん、ちょっと」


肌をするりと撫でる指が私を試すように這う。


どうにか視線を上げると、相変わらず平然としたままスマホ越しに誰かと話している顔。


指先の動きは止まることなく、ゆるりゆるりと私の鎖骨あたりに沿って動いている。


微かな動きだというのに私への影響力はかなりのもの。


「翔平君……離して」


力なくつぶやいた私の言葉は翔平君の耳に届いたのかどうかわからない。


きっと、聞こえていたとしても無視しているんだろう。


翔平君に抱き込まれ混乱する私とは逆に、タクシーは私の家へと向かって順調に走っている。


一体これからどうなるんだろう。


翔平君が結婚すると聞いて以来、恋心を捨てようと作り上げた壁が一気に崩れていくようで、心もとない。


長く抱えていた想いを封印しようとジタバタし、ようやくお見合いというひとつの区切りを見つけたというのにこの状況。


翔平君の体に腕を回して縋りつきたい、抱きしめたい。


ここがタクシーの中ではなくて、誰もいないふたりきりの場所だったらそうしていたのかもしれない。


だけど、私以外の人と結婚すると決まっている翔平君に、そんなことはやっぱりできないくて、じっと我慢する。


翔平君が好んでつける香水の香りに目の奥が熱くなる。


そのとき、見慣れた景色が車窓を流れていることに気づいた。


私の家に近づいているとわかり、翔平君から逃げられないという苦しみが、私を縛り付ける。


諦めようと頑張っているのに、どうして気持ちは思うようにならないんだろう。


私は瞳を閉じて、涙をこらえた。















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