初恋6
お見合いを週末に控え、母さんがエステを予約してくれた。
両親にしてみれば、初恋に右往左往している可哀そうな娘にお見合いを強いた申し訳なさがあるのかもしれない。
とはいっても、毎日遅くまで仕事に追われて睡眠不足の肌は荒れているし髪も伸び放題。
女性としての手入れを怠っている私にはありがたい話だ。
エステと併設されているサロンで思い切って髪もカットしてもらった。
大学時代から肩下10センチあたりで揃えていた髪を顎のラインまで切ってみると、意外に似合っていて驚いた。
明るすぎないブラウンにカラーリングすると、鏡に映る私はまるで別人だ。
エステでつやつやになったお肌にメイクしてもらえば一気に心も明るくなった。
「お見合い当日、よければメイクしますよ」
「あ、いえいえ、そんなことしたら、先方に渡した写真とは別人になっちゃいます」
「ふふっ。写真よりも綺麗な姿を見せれば、お見合いは成功したも同然ですよ」
「そんなもんですか……」
美容師さんと鏡越しに話しながら笑っていると、お見合いが少し楽しみになってくる。
翔平君を忘れるためのお見合いだけど、おいしい料理も食べられるし、どうせなら楽しもうと、小さく息をついた。
「お綺麗ですよ。お見合いでいいご縁が見つかるといいですね」
「はい。そうですね……頑張ります」
肩にかけられていたピンクのタオルがそっと外され、すべてが終わったと気づいた。
「遅くなりまして、すみませんでした。お帰り、お気を付けくださいね」
美容師さんの言葉に頷きながらその手を見ると、彼女が手にしているタオルには見覚えがあった。
「あ、これですか? アマザンホテルからの指定で使っているタオルなんですよ。水上翔平さんのデザインで、客室と同じものなんです。肌触りが良くてお客様にも好評なんです」
やっぱり。
翔平君がデザインしたタオルだったんだ。
アマザンホテルのイメージカラーであるサーモンピンクはいたるところで使われているけれど、まさかホテル内のサロンでまでお目にかかるなんて。
翔平君は、デザイナーとして欲しい仕事を次から次へと手にしているんだな。
比べるまでもなく、自分との違いに改めて気づかされる。
「フレンチレストランのテーブルクロスも有名ですけど、このタオルも実はファンが多くて、今後宿泊されれば買えるようになるみたいです」
「そうなんですか」
翔平君への恋心に踏ん切りをつけるためにアマザンホテルでのお見合いを決めて、エステも同時にお願いしたけれど。
翔平君の影を何度も感じて、そのたび切なくなる。
気持ちを変えたくて短くカットしてもらった髪形は、我ながら似合っていると思うけれど。
鏡に映る自分の姿を見ながら思うのは、翔平君はどう思うだろう、似合ってるって言ってくれるかなってことだ。
そんなことを思う時点で、私の中の翔平君の存在はまだまだ小さくなっていないのだ。
エステの最中につい眠ってしまったせいか、体が楽になり気持ちも明るくなった。
おまけにプロにほどこされたメイクは魔法をかけたように私を綺麗に見せてくれ、夜の街を歩く表情はきっと軽やかなはずだ。
時計を見れば二十時を過ぎたばかりで、普段ならまだ会社で仕事をしている時刻。
事務所で残業する同僚たちのことを考えると申し訳ないけれど、こんな機会は滅多にない。
買い物でもして帰ろうと駅に向かっていると、突然、私を呼ぶ声が聞こえた。
立ち止まり、周囲を見回すと。
「え、翔平君?」
翔平君が、大通りの向こう側にいて、私に向かって叫んでいる。
「そこで待ってろ」
通りを挟んで聞こえてくる声はどこか焦っているようだ。
「そういえば、翔平君の事務所ってこのあたりだったっけ」
ふと思い出して見回せば、少し離れた場所に翔平君が働いている事務所が見えた。
いつも遅くまで仕事をしていると聞くけれど、翔平君も今日は早く終わったのかもしれない。
それにしても、アマザンホテルから徒歩十分程度のオフィス街に事務所があるなんて羨ましい。
雑誌で紹介されるお店は多いし、おいしいものなら事欠かない。
仕事のあとも何かと楽しそうだし。
なんてことを考えながら待っていると、信号が青に変わり、翔平君が私に向かって歩いてきた。
細身のスーツをきっちりと着こなす姿は格好良くて、普段のカジュアルな雰囲気と違いどきりとした。
翔平君は事務所でデザインに集中することが多く、重要な打ち合わせでもない限り外出もしないらしい。
そのせいか、普段からそれほど堅苦しい服装はしないのに、何故か今はスーツ姿。
翔平君を見てドキドキするのには慣れているけれど、ネクタイ姿を見るのは久しぶりで、いつも以上に緊張する。
すれ違う女性たちが振り返り、翔平君を見つめているのも見慣れた光景だ。
私もこれまで何度、こうして翔平君に見惚れただろう。
街中で会う機会は滅多になかったけれど、その数少ない中で、恋人と寄り添い歩いている姿を何度か見たことがある。
私と違って長身で華やかな見た目の女性が多かったし、どの女性も翔平君が大好きだという視線を惜しげもなく送っていた。
誰に対してもクールな翔平君は、そんな彼女たちに対しても冷静な様子を崩すことはなかったけれど、彼女たちが腕を組んだり必要以上に近い距離で話すのを拒む様子もなかった。
きっと、翔平君も彼女たちのことが大切だったんだろう。
時折荒くなる口調は誤解されやすいけれど、翔平君の言葉には相手を思いやる温かさがある。
たとえ短い付き合いを繰り返していたとしても、付き合う恋人には愛情を注いでいたはずだ。
それでも翔平君が結婚を決めたのは三崎紗和さんなのだ。
彼女のことは、誰よりも大切にしているに違いない。
「……やだな」
翔平君の姿を目にした途端、後ろ向きな言葉が口を突いて出る。
翔平君を諦めようと努力しているのに、一気に振り出しに戻された気分だ。
お見合いのためのエステもその効果が半減した気がするし、気持ちは相変わらずくすんだままだ。
「どうした?」
いつの間にか目の前に立っていた翔平くんは、私の背中に手を置くと、そのまま歩き出した。
人の流れの邪魔にならないように歩きながら、その端正な顔が私を覗き込む。
「そんなに驚くか? 俺の事務所がこの近くだって知ってるだろ?」
「も、もちろん知ってるけど」
「だよな。就活中に説明会に来たもんな。あのまま採用試験を受けるんだと思っていたけど、結局別の事務所に縁があったな」
「あ、うん。あんな大きな事務所、私には向いてないと思ったし……それにあのときは」
あのとき。
普段はまったく思い出さないのに、ふとあのときのことを思い出した。
それは翔平君の事務所の説明会から数日後のことだ。
私は歩みを緩め、翔平君を見上げた。
そして、顎の下から鎖骨にかけて残っている傷跡を探す。
あの事故から五年以上が経ち、白くなった傷跡はじっと見ない限りよくわからないけれど、今でもはっきりと覚えている。
あの日、仕事を終えた翔平君は、帰宅途中の駅で階段から落ちて大怪我をした。
雨が降って足元が滑りやすかったのか、翔平君の後ろの人が足を滑らせて階段を転げ落ち、その巻き添えとなったのだ。
翔平君は、階段から落ちる途中で近くにいた人の傘の先端によって顎から鎖骨にかけて傷を負った。
出血量が多く、救急車で病院に運ばれたときの翔平君の服は真っ赤だったと聞いている。
芸能界で仕事をしている両親へ連絡することに抵抗を感じた翔平君は、兄さんに連絡をした。
ちょうどそのとき兄さんの側にいた私も事故のことを知り、慌てて病院に駆けつけたけれど。
出血のひどさに比べれば軽傷だったとはいえ、何針も縫い、高熱が出たせいで二日ほど入院することとなり、その間のお世話を私が引き受けた。
当時噂になっていた三崎紗和さんにお願いすればいいのにと思ったけれど、何故か翔平君は私に世話をしろと言い張り、二日間甘えたい放題だった。
傷口が痛むのか体を動かすのも大変そうで、翔平君に言われるまま食事のお世話はもちろん着替えさえ手伝わされた。
翔平君の素肌を見るのは本当に恥ずかしかったけれど、翔平君に色目を使う看護師さんにその仕事を譲るのが嫌で、照れながらもパジャマを脱がせたり、着せたり。
今思い出しても恥ずかしいけれど、二度と経験することのないいい思い出だ。
けれど、私がそばにいないと途端に不機嫌になり拗ねてしまう翔平君の幼さに驚き、自分が翔平君に必要とされているのではないかと心は弾んだ。
そのときの翔平君の気持ちを聞いたことはないけれど、思うように体を動かせないことへのストレスのせいでわがまま王子様になったんだろうと思う。
『萌の作ったおにぎりが食べたい』
『今日発売の雑誌を買ってきて』
『暇だから何か話せ』
いくつもの要求に「人使いの荒い病人は嫌われるよ」と文句を言いつつも、いそいそと翔平君のために動いていた時間はとても楽しかった。
怪我をしている翔平君の姿を見れば痛々しくて切なかったけれど、こうしてそばにいられるのなら入院が長引いてもいいな、と密かに思っていた。
まるで翔平君の一番近くにいるのが当然のような錯覚。
恋人にでもなった気分でいた。
入院中、三崎紗和さんが一度もお見舞いに来なかったことも私の気持ちを揺らし、翔平君への想いはさらに強いものになった。
それにしても、今振り返って考えてみても、どうしてあのとき恋人がこなかったのかわからない。
翔平君に聞いても曖昧に笑っているだけで、要領を得ないし。
けれど、なんとなくわかるのは、翔平君は自分が弱っている姿を恋人に見せたくなくて病室に一度も呼ばなかったんだろうってことだ。
小さな頃から翔平君のあらゆる面を見てきた私になら、どんなに甘えてもわがままを言っても平気で、それだけの理由で私をそばに置いてくれたのだろうけれど。
それはよくわかっているけれど、その二日間を経た翔平君と私の関係に少なからずの変化があった。
それは、翔平君がそれまで以上に私に厳しくなったこと。
まるで父親のように身なりや言葉遣いにうるさく言うようになり、交友関係や帰宅時間にまで細かく口を出すようになった。
そう。
私は翔平君のものだと誤解してしまうほどの強い束縛を与えながら。
そして。
その二日間がもたらした私の人生の変化は少なからずというものではなく、大きなものだった。
翔平君が事故に遭った日の翌日に控えていた、私が第一希望として考えていた企業の採用試験を辞退したのだ。
私が大学でデザインと並行して勉強をしていたのが自動販売機の設計だ。
いくつかのメーカーが設計をしているけれど、その中でも最大手の電機メーカーの採用試験に臨む予定だった。
翔平君が事故に遭ったという連絡を兄さんが受けたとき、私と兄さんは新幹線の改札を抜けようとしていた。
新幹線で二時間ほどの場所にあるその会社に向かおうとしていた私は、見送りにきてくれた兄さんがスマートフォンを片手に慌てる様子を隣りで見ながら。
『翔平君って言った? どうしたの? 翔平君に何があったの』
と大きな声をあげた。
そして、兄さんから状況を聞いたあと迷うことなく翔平君のもとへ向かうことを決めた。
同時にそれは、自分が手に入れようとしていた未来を自ら手放すということだった。
採用試験を受けるはずだった会社に電話をいれて辞退する旨を伝えたとき、迷いや後悔がなかったわけじゃない。
自動販売機の設計に携わりたいという夢は翔平君が与えてくれたといってもおかしくない夢でもあったし。
兄さんにも「試験を受けてこい」と何度も説得された。
けれど、私は怪我をした翔平君をどうしても放っておけなかった。
どれほどの怪我を負ったのか自分の目で確かめたかったし、そばについていたいと思う気持ちは何よりも強かった。
そして、私は本命だった企業の採用試験を諦めたのだ。




