初恋5
翔平君が怪我をしたあの事故以来、ふたりのことが話題になることはなかったけれど、最近よりを戻したのだろうか。
この五年でデザイナーとしての評価が高まった翔平君に負けないくらい、三崎紗和さんも演技派女優として確固たるポジションを確立した。
モデルから女優に転身する人は多いけれど、成功する人は一握り。
三崎紗和さんは、その一握りの中に自分の居場所を見つけ、初めての主演映画の撮影がもうすぐ始まると聞いている。
ドラマや映画で彼女を見る機会は多く、翔平君の恋人だったという特別な思いを抱きつつも、彼女の演技力や存在感は認めるしかなかった。
そして、美男美女でありそれぞれの世界で実力を発揮しているふたりが並べば、私は遠くから眺めることしかできない。
近寄ることも、声をかけることもできない。
そんなときの翔平君の表情は穏やかで、三崎紗和さんを大切に思う気持ちが溢れている。
本当、つらいな。
翔平君から本気で離れようとしたあの五年前も、そのきっかけは三崎紗和さんだった。
そして今もまた……。
「だめだめ。とにかく仕事を頑張って、ローンの返済を頑張らなきゃ」
たとえ私を愛してくれなくても、翔平君が笑っていてくれればそれでいいのだからと、何度も自分に言い聞かせた言葉をまた、繰り返す。
そして、落ち込む気持ちを明るい声で無理矢理隠して、私は何度も深呼吸を繰り返した。
お風呂からあがり、さっきコンビニで翔平君が買ってくれたチョコレートをソファの上に並べてみると。
そのひとつには、私が大好きなリボンのモチーフが四隅に描かれている。
小学生の頃、私は背中の真ん中あたりまで髪を伸ばし、ポニーテールにしていた。
その日の洋服に合わせてリボンの色を選び、母さんにつけてもらっていたけれど、私が選ぶリボンはいつも翔平君にプレゼントされたものだった。
お誕生日やクリスマス、そして、「かわいいリボンを見つけたから」と言ってはいくつもリボンを買ってくれた。
高校生の男の子がリボンを買うなんて恥ずかしくなかったのかと思うけれど、当時の翔平君はリボンを買ってきては「萌はリボンがよく似合うな」と嬉しそうに笑っていた。
中学生になると、校則でリボンが禁止されていたこともあり翔平君からリボンをもらうことはなくなったけれど、今でももらったリボンは大切にしまってある。
この家に引っ越すときにもちゃんと持ってきた。
「あの頃のことを、覚えてるのかな」
ソファに並べたたくさんのチョコの中から、リボンの絵が描かれているチョコを手に取り、そっと撫でた。
ピンク地に白い水玉のリボンは、私が一番気に入っていたリボンで、男の子にいたずらされて汚れても、身に着けていた。
事情を知らない同級生に「汚れたリボンしか持ってないの?」とからかわれても、そのリボンを身に着けては翔平君を身近に感じていた。
意地になっていたのもたしかだけど、当時の私にはそのリボンはとても大切なものだったのだ。
それに似たリボンの絵を見ていると、次第に目の奥が熱くなる。
翔平君を好きだという気持ちだけに素直になれて、追いかけることも、会いに行くこともためらうことなくできた子どもの頃に戻りたい。
『運動会のかけっこで一等賞獲ったら遊園地に連れて行って』
『苺がいっぱいのパフェを一緒に食べたい』
今なら決して言えないことをなんでも言えたあの頃が、懐かしい。
ソファに並んでいるチョコをひとつずつ手に取り見る。
おいしそうだな、と思いながらも食べる気にはなれなくて、ひたすらパッケージを見ているだけ。
「こんなにたくさんデザインしちゃって……」
胸がぐっと痛くなる。
菓子メーカー最大手が投入したチョコレートの新商品のほとんどのパッケージデザインを翔平君が引き受けたというのは業界では有名な話。
去年までは別のデザイン会社が請け負っていたけれど、今年は翔平君が単独指名された。
私がそれを知ったのはかなり前で、聞いたときから発売を楽しみにしていた。
けれど、いざこうして買ってみると、翔平君の偉大さを改めて感じて食べる気になれない。
コンビニの一番目立つ場所に積まれていたチョコレート。
翔平君はさっき、気づいただろうか。
翔平君が手がけたチョコレートのすべてを私が買っていたことを。
チョコレートを見ていると、小学生の頃から今まで、たったひとりを思い続けていた私の気持ちはそう簡単には切り替えられないと改めて気づく。
翔平君が高校生だった頃の、やんちゃだった日々も知っているし、大学生になって恋人と街中を歩いている後姿に立ち尽くしたことだって一度や二度じゃない。
けれど、次々と彼女が変わっていくのを見るたび私の気持ちは麻痺し、いつかは私の順番がくるはずだと思うようになった。
もしかしたら、私が大人になったときには私を選んでくれて、そして。
「愛してるよ」
そう言ってもらえるんじゃないかという錯覚に似た思いを抱くようになった。
翔平君の恋人が何度も変わるのなら、いつかは私だって。
冷静に考えればありえないとわかる望みを捨てきれないまま、私は未来は明るいと信じて生きてきた。
大学在学中も、少しでも彼に近づこうと努力した。
さすがに国内最高学府の大学を卒業して、デザイン事務所としては最大手の事務所に就職した翔平君の人生をそのまま踏襲することはできなかったけれど。
就職した今の事務所では人間関係にも仕事にも恵まれて、かなり楽しく仕事に励んでいる。
ここまでの私の人生のほとんどは翔平君に導かれたものだけれど、それは私が勝手に追いかけてきたにすぎなくて、翔平君が私を誘ってくれたわけでも、待っていてくれたわけでもない。
単純に私の思いのみ。
私が翔平君を好きなのも、私の勝手な思い。
だから、翔平君が私を選んでくれないからと言って泣くなんて、それは身勝手極まりないわがままだ。
本当に翔平君が好きなら、彼の幸せを祈らなければいけないのに、そんな気持ち、今の私にはまったくない。
長い間ずっと好きだった翔平君が、いつかは誰かのものになるという覚悟はしていたけれど、そんなもの、現実の前ではちっぽけだ。
「翔平君……」
そのままうずくまるように体を小さくした私は、誰にも聞かれないことをいいことに、声をあげて泣いた。
何年もの間翔平君だけを見つめてきた自分の気持ちを吐き出すように、体を抱きしめながら、泣き続けた。
ソファに体を沈め、しゃくりあげながら何度も何度も『好き』とつぶやいては頬を濡らした。
「翔平君のお嫁さんになりたかったな……」
翔平君が結婚すると聞いたのは一週間前。
兄さんが酔っぱらって実家に帰ってきたとき、ぽろりとそのことを口にした。
両親の結婚記念日が近く、私もプレゼントを持って実家に帰っていた。
『とうとう翔平も決めたみたいだ。ずっと好きだった女と結婚するって言ってたぞ。
あの様子じゃ結婚式の招待状が届くのも時間の問題だな』
うわごとのような言葉は、そろそろ寝ようと思っていた私の眠気を一気に吹き飛ばすほどの衝撃を与え、その晩は悲しくて眠れなかった。
“ずっと好きだった女”
それは三崎紗和さんに違いない。
翔平君の整った見た目とデザイナーとしての才能に惹きつけられる女性は多く、兄さんから話を聞いたり、偶然見かけたりしてその何人かの姿は記憶にある。
けれど、三崎紗和さん以外の女性と長く付き合っていたことはないと思う。
学生時代を含め、いつも短い付き合いに終始し、翔平君の気持ちを本気にさせる人に出会う機会がなかったのか、見かけるたびに違う女性に腕を組ませていた。
だから、“ずっと”という言葉を口にするということは、結婚しようと考える人はひとりだけ。
三崎紗和さん以外考えられない。
とっくに覚悟しわかっていたことだとはいえ、いざ翔平君が結婚を決めたと聞くと、想像していた以上に胸は痛む。
体全部が重く感じ、堅いフローリングの上にいるというのに沈み込んでいくような感覚を覚える。
吐き気すら感じる自分を奮い立たせるように何度か浅い呼吸を繰り返し、廊下に寝転がる兄さんを見た。
人当たりがよく、どちらかと言えば軽い印象の兄さんと、冷たい印象でいつも落ち着いている翔平君は完全に逆のタイプだけれど、今でも変わらず仲が良い。
『俺も、結婚しようかな。園ちゃんと結婚して、幸せになろうかな』
遠距離恋愛を続けている恋人の園子さんとの結婚は、兄さんにとっては決断できずにいる難しい問題だ。
教師として頑張っている園子さんが、その職を辞してまで兄さんと結婚するのかどうかは微妙だけど、愛し合っている二人のことだから、別れるという選択肢はないだろうし、前向きな結論を出すだろう。
普段は「教師になるのは園子の夢だったんだ。結婚はもう少しあとでいい」と言って園子さんのことを気遣っている兄さんだけど。
本当はすぐにでも結婚したいはずだ。
酔っぱらったときにしか口にできない本音を聞いてあげることしかできないけれど、兄さんには幸せになってもらいたい。
「私も応援するよ」
届いているのかどうかわからないけれど、へらへら笑っていた兄さんにそう告げた。
そして。
その日を境に翔平君への気持ちを完全に凍結する努力をしていた私に突然舞い込んだお見合いの話。
両親のあまりにも切実な表情からは、私の幸せを願う切羽詰まった思いも感じられた。
もしかしたら翔平君の結婚を知った私を気にしてのことなのかもしれないと思った。
私が翔平君を好きだということは察していただろうし、報われない想いに何度か見せた涙が周囲のため息を誘っていたのも知っている。
『どうせなら、おいしいランチが食べられるお店でセッティングしてね』
明るくつぶやいた私に、ほっと息をついた両親の気持ち。
よっぽど私を心配していたと気づいて、後戻りできなくなった。
翔平君との未来が閉ざされてしまったのなら、お見合いでもなんでもしようと投げやりになったことは否定できない。
お見合いも出会いのきっかけのひとつだから、相手の男性が私を愛してくれて一生を添い遂げられる運命の人かもしれないと、強気で考えてみたり。
翔平君が結婚して幸せになる姿を見て傷つくことはわかっていたから、その前に私を救い上げてくれる誰かに出会いたいと、逃げの気持ちがあったのも否定はできない。
ようやくお見合いをする気になった私の本心に両親は気づいていたのか、私の気持ちが変わらないうちにといそいそとお見合い話を進めた。
そして次の日曜日に、両親が用意してくれたワンピースを着て、私がリクエストしたアマザンホテルでのランチを食べながらのお見合いがセッティングされた。
もちろん、翔平君への想いに区切りをつけるために、あえて選んだアマザンホテルだ。
『お相手は萌と同い年のサラリーマンの方』
釣書を見れば、先方の勤務先は誰もが知っていると言っても過言ではない大企業で、彼は営業をしているらしい。
『出世は確実って言われていて、社内の女性からの人気も高いそうよ』
母さんが通っている書道教室の先生の知り合いらしい彼は、写真で見る限りお見合いとは縁遠い人のようだ。
そんなに素敵な人ならお見合いしなくても女性には不自由しなさそうなのに。
他人事のように聞き流しながら、せめてその男性を好きになれればいいな、と小さくため息をついた。
女性の方から声をかけてきそうな見た目の良さ。
きっと、彼も無理矢理お見合いをすすめられて断れなかったんだろうと不憫に思いながら、それは私も同じなんだけど、と苦笑いをして。
お見合いを前向きに考え、ひたすら翔平君を忘れられるように、気持ちを保っていた。
そんな中で、翔平君と家の近所で出会い、仕事を誉められて。
あんな風に見つめられてしまったら、私の気持ちは再び翔平君へと傾いてしまう。
小さな頃のように、抱きついて、「しょーへいくん」と言ってみたくなる。
けれど、私以外の女性との結婚を決めた翔平君に、これ以上まとわりつくことはできないことも、知っている。