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初恋4

きっと、この夜の闇のせいだ。


それに、自分の仕事を誉めてもらって、私の感情が昂ぶっているせいだろう。


翔平君がこんなに熱がこもった目で私を見つめるなんて、あるわけない。


私は見つめ合う時間を止めるように視線を逸らすと、明るく口を開いた。


「このマンションだから、もういいよ」


右手に見えるマンションを指さすけれど、深夜の街灯はマンション全体を照らすわけでもなく、ほの暗い向こうにぼんやりと浮かんでいるだけだ。


既に日付が変わっている時刻。


部屋の灯りもほとんど消えているせいか、とても寂しげに見える。


「は? これって……」


「このマンションに住んでるの。コンビニにも駅にも近いから、便利でしょ?」


「便利でしょって、お前、このマンションって分譲じゃないのか?」


翔平君は慌てたようにそう言って、私の腕をぐっと掴んだ。


「翔平君、声が大きいよ。もっと小さな声で話さないと近所迷惑だよ」


翔平君は慌てる私にお構いなしに、私の腕を掴んだまま答えを待っている。


そんなに、このマンションに私が住むのはおかしいかな。


まあ、たしかに、女性のマンション購入が増えたとはいっても、ここは実家からも車で十分程度。


通勤時間が極端に短縮されたわけでもなく、実家を出るはっきりとした理由もないとなれば、翔平君が不思議に思うのも当然かもしれない。


とくに、家族みんなから甘やかされて育ってきた私が家を買ってひとり暮らしをするなんてピンとこないのだろう。


「私が住んでるのは、2LDKだし、お値段もそれほど高くないタイプの部屋だからなんとか買えたの。あ、でもね、やっぱり人気が高い物件だったから、倍率なんて六倍だったのよ。その抽選を見事にクリアしたのはいいけど、しばらくは運もお金も何もないのよね」


ふふっと笑ってそう言うと、私の腕を掴む翔平君の手はさらに強くなった。


ぎゅっと握られた私の腕は、その強さに痛みを感じ、思わず顔をしかめた。


そんな私の様子に気づいているはずなのに、翔平君は不機嫌な声で。


「なんで、わざわざマンションなんて買って、ひとり暮らしを始めたんだ?

恋人と結婚するためか? 2LDKなら新婚にはちょうどいいもんな」


ぐいっと力づくで翔平君に引き寄せられた私の体は、今にもその胸に抱きこまれそうなほどに近い距離に置かれた。


目の前にある翔平君の胸元。


薄いパープルのカッターシャツにグレーの細いストライプが目の前にあって、思わず手を伸ばしそうになる。


そして、シャツのボタンが目に入り、それをこの手で外してみたくなる。


翔平君の体温を直接感じたい。


……だめだ、重症だ。


翔平君の背中に腕を回したい衝動をどうにか抑えて小さく首を振った。


気持ちを切り替えるようにまばたきを繰り返し、思い切るように顔を上げた。


すると、見慣れているはずの翔平君の整った顔が、まるで翔平君ではなくて、初めて会う男性のような表情で私を見下ろしていた。


「あ……えっとね。私、恋人とはもう別れていて会うこともなくて。それに、家を買ったこととそれは関係ないし……」


翔平君から向けられた不機嫌な表情に耐えきれなくて、視線を逸らしてそう言った。


深夜の曲がり角で向かい合いながら、翔平君の怒りをまともに受けている理由もわからない。


「翔平君? えっと……。もう遅いしさっさと帰りたいんだけど」


恐る恐る見上げながらつぶやいたけれど、腕の痛みは相変わらずで、翔平君の固い表情も消えていない。


「樹はこのマンションに萌が住んでることを、知ってるのか?」


じっと私の瞳を見ながら、探るような視線を向けてくる翔平君。


そんな翔平君の様子に違和感を感じる。


「知ってるも何も。兄さんもこのマンションを気に入っていて、昨日も遊びに来てくれたばかり」


ぼそぼそと話す私の言葉を、翔平君はまるで信じられないとでもいうような顔をして再び舌打ちをした。


「樹の奴、俺には何も言ってないぞ。先週飲んだときもそんなことひと言も言わずにご機嫌に酔っぱらって俺に家まで送らせたくせに」


「翔平君……? どうしたの? えっと、そんなに私がこのマンションに住むって変かな。あ、変だよね。小さなデザイン事務所で働いてるOLがマンションを買うなんておかしいよね」


自分で言いながらも自分をみじめにしてしまう言葉に傷ついて、思わず俯いてしまった。


とはいっても、今働いている事務所は最終的には自分でお世話になると決めた事務所だから、かわいそうなんて本気で思ってるわけではないんだけど。


翔平君が働いている会社があまりにも大きすぎて、その劣等感を失くすことは難しい。


おまけに規模の差はあれ同業だとなれば、それは仕方がないと思う。


翔平君は世間にその名前を知られている人気デザイナーであり、一方の私はといえば、まだまだ成長途中のひよっこデザイナー。


「翔平君の稼ぎに比べたら、私のお給料なんて、自慢できるような額じゃないんだけどね。でも、私にとっては一生懸命働いて貯めたお金で買った大切な場所だから」


私の言葉にも、翔平君は相変わらず不機嫌な顔で私を睨んでくる。


私、何か翔平君の気に障ることでも言ったかな。


そりゃ翔平君にしてみれば、私のような頼りない女の子がマンションを買うだなんていい気分じゃないのかもしれないけど。


悩みに悩んだ私の決断が間違っていたとは思わない。


兄さんは、いずれは結婚して実家で両親と同居するって言ってるし、そうなったら私がそこに居座るわけにはいかないし。


翔平君への気持ちを吹っ切りたいという気持ちとともに、私の居場所を確保しておきたかったというのも理由のひとつだし。


義姉となる予定の園子さんとの仲は良好だけれど、だからといって私が実家にいればお互いに気を遣うだろうし、実際に部屋数だって足りない。


そして、もしもこのまま一生独身でいるとしても、十分生活ができる。


セキュリティが充実している点も私には重要ポイントで、賃貸にはない安心感とともに即決。


これから長く続くローンの支払いは大変だけど、後悔はしていない。


「じゃ、もう遅いから帰るね。翔平君も気を付けて帰って」


その後も私への尋問を続けようとする翔平君を振り切るようにその場を離れた私は、背後から私の名前を呼ぶ声に振り向くことなくマンションに入った。


私がマンションに入るまで、帰ることなく私を見ていた翔平君の視線には気づいていた。


きっと、部屋の中も確認したかったに違いないけれど、こんな深夜に押し掛けるほどの強引さはなかったようだ。


部屋に入り、ベランダからそっと下を覗くと、こちらを見上げる翔平君の姿があった。


薄暗い街灯に照らされ、はっきりと確認できたわけではないけれど、翔平君が、寂しげな表情で私を見上げているような気がした。


けだるそうに立つその姿を何度見つめただろう。


遠くからでも後姿を見るだけですぐにわかる大好きな人。


兄さんが隣りに立っていても、誰よりも一番に目に入るのが翔平君だった。


私の気持ちに気づいていただろうけれど、もちろん受け入れてもらえることはなく、彼の隣りにはいつも綺麗な大人の女性が立っていた。


モデルさんと並んで街を歩いているのも何度か見たことがあるし。


小学校から翔平君の側にいれば、そんな女性を見かける機会は何度もあって苦しかった。


私がどれだけ翔平君を好きでも、きっと私を好きになってもらえることはないと、わかっていてもどうしようもなかった。


けれど、それで良かったのかもしれない。


たとえ小さな頃からの長いつきあいだとしても、翔平君のような有名人と、才能のなさを努力だけで補い、どうにか同じ業界で仕事をしている私が特別な関係になれるわけがない。


同じ業界で働いていれば、嫌でも彼の仕事ぶりを耳にする。


国内屈指の高級ホテルである『アマザンホテル』のロビーが改装されることになり、デザイナーとして指名されたのが翔平君だった。


それまで幾つもの大きな仕事を手がけていたけれど、アマザンホテルの仕事は彼の評判をさらに上げた。


サーモンピンクをテーマカラーとしたロビーは大きな窓から光がたくさん降り注ぎ、毛足の短いカーペットの模様や天井に描かれた絵、そして館内で使用される備品のすべて。


翔平君がトータルでデザインした。


そのデザインの中でもホテルに入っている有名なフレンチレストランで使用されているテーブルクロスはかなり人気がある。


宿泊客限定で販売されているということで、テーブルクロスが欲しくて泊まるお客様は多いと聞く。


そのお店には、私の誕生日に兄さんが連れて行ってくれたけれど、とにかく夜景が綺麗な店内に圧倒されてしまった。


お料理も申し分なく、もちろんテーブルクロスもしっかりと確認してきた。


サーモンピンクとオフホワイトが重なり合うテーブルクロスは優しい雰囲気を作り出していて、それだけでほっとできる空間だった。


いつかアマザンホテルに宿泊して、このテーブルクロスを手に入れようと誓ったけれど、あれから二年が経った今もまだ叶えられずにいる。


マンションを買って、通帳の残高も財布のなかみも厳しいというのが一番の理由だけど、ひとりでアマザンに泊まるのは寂しくて、その機会を作れないままだ。


これまで、恋人がいなかったわけじゃない。


ただ、本気になれるかもしれないと期待してつき合い始めた恋人とは長続きしなかった。


友達の紹介で知り合った同い年の銀行マンの彼とは穏やかに付き合いを続け、誕生日やクリスマスのイベントもとりあえず二人で楽しんだけれど。


恋愛特有の高まる感情を実感することもなく、会えなくても寂しいと思えない自分を責める日々が続いた。


恋人に申し訳ないと感じ始めると、そこから別れまではあっという間で、私から口にするまでもなく振られてしまった。


『俺のこと、好きじゃなかっただろ?』


責めるでもない、穏やかな口調でそう言い残した彼の真意はわからなかったけれど、きっと傷ついていた。


付き合っていた半年の間、体を求められても応じることができなかったことも、恋人が傷ついた大きな理由だと思う。


何度も彼の誘いに頷こうとしたけれど、そのたび頭に浮かぶ翔平君の顔が、それを押しとどめていた。


いつか本気で好きになれるよう、祈りにも似た思いで付き合っていたけれど、やはりそれは私の身勝手な感情だった。


銀行マンの宿命ともいえる転勤が決まり、いい機会だからさようならしようと言ってくれたけれど、翔平君の存在が私の中から消えないことに気づいていたに違いない。


これ以上一緒にいても、私の気持ちは変わらないと思ったのかもしれないし、彼自身、私に熱烈な愛情を持っていなかったのだろうとも思う。


私が彼に強い気持ちを持つことができたのならば状況は違ったのかもしれない。


けれど、どうしようもなかった。


初めての恋人との別れを経験したあと、翔平君への恋心が消えない限り、誰とも付き合わないと決めた。


それが半年前のこと。


それ以来、恋人ができたこともないし、今もその影はまるでない。


恋人とふたりで過ごすアマザンホテルのスイートなんて、夢のまた夢だ。


たとえスイートでなくても、夢だけど。


今は、延々と続くローンの返済に立ち向かうため、仕事に精を出さなければならない。


せっかく縁をもらって就いた仕事だし、長く続けていきたい。


ペットボトルのラベルの仕事は私の意識を大きく変え、この先自信を無くすことがあったときには自分を取り戻すためのよりどころになると思う。


翔平君のように世間を賑わせるような大きな仕事ばかりはできないけれど、私なりに頑張っていきたい。


……と思いつつ。


翔平君の仕事ぶりを考えると、私とのレベルの違いを実感してため息も出ない。


翔平君が働くデザイン事務所のHPを見れば、もちろん翔平君の顔がある。


アマザンホテルでの仕事は高く評価されて、そのことは翔平君のプロフィールのトップに記載されている。


そして、翔平くんは『設計デザイン大賞』も受賞している。


建築や広告など、設計やデザインに関係する仕事をしている人ならば誰もが欲しいと願う賞を、翔平君はさらりと手に入れ、その地位を盤石のものとした。


「翔平君、すごすぎるんだよ」


同じ業界にいるからこそわかる、翔平君の偉大さ。


いっそ知らなければ、子どもの頃と同じように恋心を育て、翔平君の背中を追うこともできただろうけれど。


その背中はあまりにも遠く、大きすぎるということに気がついてしまった。










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