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初恋32

「俺、「片桐」の採用試験受けて、内定もらったんだよな」


「え? ほんと?」


「ああ。俺が出た大学のOBもかなりいるし、設計やデザインを仕事にしたい人間は当然のように「片桐」に行くんだ」


「知ってる。翔平君と小椋君、同じ大学だし」


私には絶対に入れないほどのお利口さんの大学だということは、言わなくてもいい周知の事実なので黙っておく。


「水上翔平っていうデザイナーだけでなく有名な建築士もたくさんいるし、勉強するにはもってこいの事務所だとは思ったんだけど」


「けど?」


「あまりにも大きな事務所にびびったのもあったし、ちょうどその前年に誰が設計デザイン大賞を獲ったか知ってるか?」


小椋君の視線が向けられて、自分たちの就職活動の年を思い出す。


ちょうど五年前、翔平君があの事故にあった年だとはすぐに思い出したけれど、設計デザイン大賞を誰が獲ったのかは記憶にない。


大学時代デザインの勉強をしていたとはいっても、目指す道は自動販売機の設計だったから、特に賞を意識したこともなかった。


ただ、その数年前に翔平君がその賞を獲ったことは覚えているけれど。


「うーん、誰だったっけ?」


「白石の仕事への欲のなさはこういうところにも顔を出すよな。設計デザイン大賞を目指してる奴なら過去の受賞者くらい覚えてるはず……別府さんだよ。別府所長。俺らの上司であり、デザインを楽しむ優しいおじさん」


「そうなの? 別府所長が?」


「そう。あの年、別府さんと水上さんが大賞の有力候補だったんだ。下馬評では水上さんが有利だって話だったんだけど、結果は別府さんの初の受賞」


「へえ……知らなかった。別府所長が仕事ができるってのはわかってたけど、賞を獲るほどだとは」


まったく知らなかった。


別府所長の下で働き始めて五年が経つというのに、誰もそんなこと教えてくれなかった。


普段事務所で見せる軽やかな姿からは想像できないし、たとえ受賞したとしても辞退するようなイメージもあるのに。


「俺、就職活動中にその受賞を知ったあと、テレビで別府さんが『このことは授賞式が終わったら忘れてくれ』って真面目な顔で言ってたのを見て卒倒しそうになった」


「は? 忘れてくれ?」


「そう。大きな仕事ばかりはつまらない。身近な人のために仕事がしたいって言って片桐を辞めたのに大きな賞を獲ったらその意味がない。個人事務所で地味に仕事を続けたいから授賞式以降は取材も何もかもお断り。忘れてくれってさ」


「へ、へえ……。らしいといえば、らしいよね」


笑いをこらえきれず、体を震わせている小椋君同様、私もなんだかおかしくなってくる。


地味に仕事を続けたいなんて言葉、別府所長なら言いそうだ。


「もしかして、事務所のみんながそのことを口にしないのは別府所長のせい?」


「ああ、そのことを口にしたら一気に機嫌が悪くなるんだ。授賞式でもらったもの一式、事務所の奥に埋もれてると思うぞ」


「だけど、そんなに嫌なら辞退すれば良かったのに」


ふと思いついて、そうつぶやいた。


歴代の受賞者の中には、事前に打診があった時点で辞退した人もいると聞いたことがある。


だから、別府所長が本当に受賞が嫌だったら辞退するという方法もあったのに。


すると、突然私の背後から聞き慣れた声が聞こえた。


「別府さんの奥さんが、辞退したら離婚だって言ったんだ」


その声にはっとして振り返ると、にやりと笑う翔平君がいた。


ベージュのコートを脱ぎながら、私の側に歩いてくる。


普段と変わらないジーンズとスニーカーは、翔平君の仕事着らしく、今も仕事の最中なのかもしれない。


「別府さんの奥さんは、『道楽で事務所を経営するほど世の中甘くない。賞金をしっかりもらって普段頑張ってる所員たちに還元しろ』って言って辞退することを許さなかったんだ」


「へ、へえ……」


「あの奥さんがいなかったら別府さんの事務所は成り立たないんだろうな」


翔平君は、おかしそうにそう言って、私の頭をくしゃりと撫でた。


「萌も将来そんな嫁さんになるのか?」


「え?」


「いや、旦那の仕事を後押ししてくれる、できた嫁さんってこと。まあ、少しずつ頑張って欲しいけど、俺が萌の仕事の後押しをしていく機会も増えるのかもな」


優しい瞳を私に向けて、翔平君は何度か頷いた。


ふたりの気持ちを寄り添わせて以来、私のすべてを見透かすような、包みこむようなこの甘い空気を何度も感じている。


これまでも翔平君の私への愛情や気遣いは誰にも負けないほど大きかったけれど、そこに加わった特別な関係が、彼をやたら素直にさせているようで。


人目を気にせずの甘さいっぱいの言葉や視線に攻められて、私はいつも即陥落、白旗をあげているのだ。


翔平君に見つめられれば周囲の景色は消え去り、ふたりだけの世界が突如現れる。


なんて、冗談だけど、翔平君の視線に囚われるといつもそこから離れられなくなって、翔平君のことが大好きな自分しか存在しなくなる。


そんな子どものような恋愛どっぷりの日々がいつまで続くのかと不安にもなるけれど、とにかく今も、翔平君から目が離せない。


すると。


「で、どうして、水上さんがここに?」


小椋君の言葉が響き、はっと我に返った。


「わざわざここに来るなんて、何か用事でも?」


首をかしげ、翔平君に尋ねる小椋君の言葉に私も何度か頷いた。


平日の今日、もちろん翔平君も仕事のはずなのに、どうしてここにいるんだろう。


まさに今話題にしていた「片桐デザイン事務所」からここまで電車で30分で来れるとはいっても、これまでこの喫茶店で会ったことはないのに。


「翔平君、このあたりで打ち合わせがあったとか?」


「いや、それを役所に出しに行こうと思って、仕事を抜けてきた。事務所に寄ったら別府さんがいて、萌は気分転換に出てるってここを教えてもらったんだ」


「役所?」


問いかける私に、翔平君は背後から私の肩に手を置き、視線で何かを教えてくれた。


その視線をたどれば、私がテーブルの上に広げていた「婚姻届」。


まだ捺印が終わっていないそれを確認して、翔平君は私の頭上でくすくすと笑っている。


「俺の立場ばかりを考えるのもいいけど、俺はこれからもっと仕事に欲を出すし、大きな仕事もしていくつもりだ。今以上に世間が俺の名前を知るようになるし、忙しくなる」


「あ……うん。翔平君なら、もっと有名になると思うけど」


翔平君を見上げてそう言うと、肩に置かれた手に一瞬力がこもり、翔平君の強い意志を感じた。


そして、翔平君は私の隣りに座り、私の手元にあった印鑑を手に取ると。


「俺の立場や父さんと母さんの仕事への影響を考えているみたいだけど、今結婚しておかないと、もっとややこしくなるぞ。今朝発表されたけど、俺がずっと狙ってた賞を獲ったし」


それって、さっき小椋君がスマートフォンで見せてくれたショッピングモールのロゴだ。


そうか、翔平君はその賞をずっと狙ってたんだ。


狙えば誰もが獲れる賞じゃないのに、やっぱり水上翔平ってすごい。


「それに、去年から売れてる女子中学生向けの文房具も第二弾のデザインを任されたし。きっと、半年後には今以上に忙しいしマスコミに取り上げられる機会も増えてるはずだ。だから、今結婚しておくほうが、萌が心配している根回しやら段取りってやつも簡単なんだ」


「そう、なんだ。でも、私……」


私の隣りの席に、ほとんど横座りのような姿勢で腰掛けている翔平君は、体全体を私に向け、その手を私の椅子の背もたれに置いている。


そして、あまりにも私の顔の近くにその端正な顔が寄せられて。


「うわっ。ファミレス同様水上翔平の甘々な横顔。やっぱり写真撮りたい」


向かいの席で呆然としている小椋君がつぶやいた。


その手がテーブルの上に置かれた彼のスマートフォンにそろりと延びそうになるのを、翔平君の厳しい視線が止めた。


「あ、じょ、冗談です」


翔平君の視線に体を小さくした小椋君は、慌てて両手を横に振り、から笑い。


冗談だなんて言ってごまかしてるけど、きっと本気で写真を撮ろうとしていたはずだ。



椅子の背に体を預けて翔平君との距離をとりながらも、その視線は私に向けられ「なんとかしろよ」と訴えている。


さっきまで翔平君ともっと話したかったと言っていたのに、いざ目の前にすると何も言えないんだなと、小学生の頃のかわいい小椋君を思い出して楽しくなる。


翔平君は、そんな小椋君に苦笑しながらも「そうだな、そんなに写真が撮りたいなら」と。


「この婚姻届を手にして笑ってる俺たちの写真を撮ってくれ」


なんの迷いも照れもなくそう言って私と小椋君を驚かせ、印鑑を私に手渡した。


「これが“白石萌”としての最後の作業で、“水上萌”の始まりだな」


じいちゃんの思い出の印鑑の重みを手の中に感じると、これまで翔平君の背中を追いかけてははぐらかされて、その距離に泣きそうになっていた頃がよみがえる。


小学校の卒業式で、憧れが恋に変わったときの鼓動と足元がふわふわ浮いているように思えた戸惑い。


あの日から二十年近くが経ち、ようやく、初恋が実るのだ。


そのことはたしかに嬉しいけれど、翔平君が私の気持ちを受け止めてからの速すぎる展開に、本当にこれでいいのだろうかと気持ちは重い。


翔平君の生来の頑固さと強気な性格をよく知っている私は、翔平君が本心から私との結婚を望んでいるいうことになんの疑問も持っていない。


両親が芸能人だという特別な家庭環境に生まれて、子どもの頃から注目されることが多かった翔平君は、相手が誤解するような発言を避けるために、敢えて口数を少なくし、必要最低限の言葉しか言うことはなかった。


ほんの少しでも相手が喜ぶことを言えば自分に好意があると誤解され、逆に、当たり前のことをあっさりと言っただけで「傲慢だ」「冷たい」と非難されていた。


だから逆に言えば、翔平君が口にする言葉はすべてが本心で、相手に伝えたいと思うことしか話さない。


そのことを子どもの頃から知っている私は、「結婚しよう」と言われたとき、なんの疑いもなく信じることができた。


けれど、この状況には素直に頷くことはできなくて、手にした印鑑が重く感じられて仕方がない。


すると、私の気持ちを察したのか、翔平君がひとつ息を吐いたあと、優しく話し始めた。



「萌が俺の立場を気遣ってくれる気持ちはよくわかるけど、父さんと母さんはそれぞれの事務所を通じてコメントを出してるんだ」


「コメント?」


「ああ。『大切なひとり息子が素敵な縁を得て、ようやく結婚できることになりました。これを逃せば息子は一生独身です。どうか穏やかに見守っていただき、お嫁さんに逃げられることのないようご配慮願います』ってさ。それぞれの事務所のHPにアップされたから、あとで見ておけよ」


「逃げられるなんて、絶対にそんなことないのに」


「よく言うよ。俺から離れて就職しようとするし、勝手に俺を諦めて見合いに逃げようとしてるし。前科があるんだから、それを心配しても仕方がないだろ?」


「ま、まあ、そうだけど、それは不可抗力というかやむを得なかったというか」


翔平君のいつになく鋭い視線と口調にたじろぎながら、私はどうにか言い訳を試みる。


「もう、絶対に翔平君から逃げないし。ちゃんと側にいるから、安心して。それに、そう決めたから翔平君との結婚を悩んでるの」


前科だと言われればそれもそうだと納得しつつ。


それでも、もう翔平君の側から離れることは絶対にないと心から誓える。


そうでなければ、翔平君やご両親の立場を考えて結婚の時期に悩むことなんてしない。


「だって、私だって本当は今すぐにでも翔平君のお嫁さんになりたいし」


「じゃあ、悩まずここに捺印したらいいだろ? 萌の心ひとつですぐに俺の嫁になれるんだから」


ほらほら、と。


私の手元を見ながら、捺印を促している。


ここまで私との結婚を望まれて、本当に嬉しくてたまらないけれど、翔平君が仕事で実績をあげて有名になり、美乃里さんだって話題の映画への出演が決まり話題になっている。


ただでさえ慌ただしいというのに、翔平君と私の結婚の話題が加われば、その対応だって半端なものではないだろう。


「翔平君にも美乃里さんたちにも、仕事に集中してもらいたいし」


もうしばらく様子を見て、それぞれの仕事が落ち着いた頃の入籍でも構わない。


既に翔平君と同居を始めていて、毎日の生活を共に送っている。


そして何よりふたりの気持ちは同じだと自信を持って言えるのだから、入籍や結婚の時期が遅れても、大丈夫だ。


我慢できる。


その気持ちを表情にのせて翔平君に頷いて見せると、何故かため息を吐き出された。


「俺や父さんと母さんを甘くみるなよ?」


「え?」


「萌が俺たちの仕事に気を遣ってるのはよくわかるけど。まず、父さんと母さんがどうして別々の事務所に所属してるかわかるか? 長い間第一線で活躍しているし、事務所への貢献度だって半端なものじゃない。本人たちが希望すれば円満な独立だって可能だって母さんのマネージャーは言ってるんだ。そうでなくても、せめて同じ事務所に所属すれば何かと融通もきかせてもらえるはずだろ?」


「あ、うん、それはよくわかる」


翔平君は、私がちゃんと納得できるように気を遣っているのか、かなりゆっくりと話してくれる。


私にはなじみのない芸能界の話だけど、今聞いたことはよく理解できた。


何度か頷いた私に、翔平君は更に言葉を続ける。


「父さんと母さんの事務所は、業界ナンバーワンを争う大きな芸能事務所なんだ。ふたりが結婚したときには双方の事務所が相手を引き抜きにかかったらしいけど、父さんも母さんも移籍を考えなかったらしい。どうしてだかわかるか?」


「え……。ううん。わかんないけど、美乃里さんの性格からいって面倒だったとか」


「まあ、それもまたあるだろうけど。父さんと母さんが言うには、大きな事務所にいた方が何かあったときに守ってもらえるし、仕事に集中できるかららしい。ふたりとも、生活できる程度のお給料と仕事に集中できる環境があればそれでいいっていって独立を考えたこともないし、これからもない。それに、それぞれが大きな事務所にいるのなら、自分を支えてくれる力は倍になる。だろ?」


「たしかに」


頷く私に、翔平君はほっと息を吐いた。


私がすんなり理解したことに安心したようだ。


芸能界のことは詳しくないけれど、翔平君が「片桐デザイン事務所」に守られ、私が「別府デザイン事務所」に守られているのと同じことだろう。


とはいえ、別府所長には申しわけないけれど、「片桐」の力と比べればうちの事務所の保護能力は小さいかもしれない。


そう思ったことは、内緒だけど。


「今回、父さんと母さんがそれぞれの事務所を通じてコメントを出したのは、俺と萌の結婚を騒ぎ立てるな。もし面倒なことをしでかしたら事務所がただじゃおかないぞって知らせる意味もあったんだ。いざというときに事務所の力を存分に利用するためにふたりとも移籍なんて考えず、ふたつの大きな事務所の保護下で仕事に集中してきたんだ。


俺と萌の結婚に父さんたちの事務所の名前を使うのもどうかと思うけど、それもまた親孝行だと思って我慢してくれ。それだけあのふたりは萌のことを大切に思ってるし、早く結婚して娘になって欲しいってことだから」


翔平君の手のひらが、私の頭をするすると撫でる。


子どもの頃、私が何かに悩んでいるときにそうしてくれた優しさを思い出した。


私の悩みなんて、たいていはちっぽけなもので、宿題のプリントを破ってしまってどうしようだとか、兄さんに借りた鉛筆を失くしてしまったとか、今思い出せば笑えるものがほとんどだった。


そんなときも、翔平君はこうして手の平の温かさで私を落ち着かせてくれたっけ。


あと、高校生の頃には通学途中にすれ違う男子高校生に告白されたと悩んだときには手の平の動きはかなり乱暴で、温かいどころか熱かった記憶がある。


今それを思い出せば、嫉妬だったのだろうかと、虫のいい考えも浮かぶけれど。


とにかく、こうして翔平君に頭を撫でてもらえばそれだけで気持ちは落ち着き、冷静に判断できるようになる。


今も、美乃里さんたちの事務所の話を聞かされて、さっきまで胸の中を巣くっていた重苦しい感情や心配事がかなり消えたような気がする。


翔平君と私の結婚によって美乃里さんたちの仕事に悪い影響がないのならば。


そしてこの先もっと、翔平君の仕事が充実して忙しくなり、知名度もあがっていくというのなら。


「今、結婚するべき?」


目の前の愛しい瞳に問いかけた。


その答えはもちろんひとつだけ。


「これからすぐに、役所に提出しに行こうな」


大きな笑顔と共に、翔平君は安心したようにそう答えてくれた。


わざわざ仕事を抜けて私の様子を窺いに来るほど私の決断を気にしていたのかと思うと、申しわけなさと愛されている実感がむくむくと体の奥底に生まれてくる。


私は手の中にあった印鑑をしっかりと握り、『白石萌』として最後に違いない大仕事にとりかかる。


そして。


私と翔平君の話を呆然とした表情で聞いていた小椋君に見せびらかすように。


私はゆっくりと、そして力強く捺印した。












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