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初恋31

その後、久和さんの会社から正式にプロジェクトへの参加をオファーされた私は、「萌桃」のための自動販売機のデザインを描き始めている。


大企業の一大プロジェクトのラストを飾るだけでなく、他の復刻版とは一線を画す扱いの商品に関わることへの不安が完全に消えたわけではない。


デザインの評判が悪ければ商品の売れ行きにも直結するだろうし、せっかく私を指名してくれた久和さんの顔を潰すことにもなる。


まだまだキャリアの浅い私には荷が重すぎると、辞退しようとも考えたけれど。


『商品が売れなきゃ商品の質が悪いせい、売れたらデザインが良かったからだ』


あっけらかんとそう言った別府所長の笑顔に後押しされて、引き受けることにした。


この軽やかな思考ゆえに「片桐デザイン事務所」という大きな事務所を辞めることも出来たんだろうと思えば、細かいことに悩んでは過去を振り返る自分が小さな人間に思えてくる。


誰もが手にすることができるわけではないチャンスを与えられたのだから、精一杯頑張って、いい結果を出そう。


そう自分に言い聞かせながらプレッシャーと闘っている私を、翔平君は「気楽に考えればいいんだ」と言って、生ぬるい目で見守ってくれている。


それが、私よりも八年長いキャリアを積んでいるということなのだろう。


考えてみれば、キャリアもなにもかも、翔平君の足元にも及ばない私が翔平君と同じ仕事に向き合うことになった。


おまけに違う事務所で働いている翔平君と私が一緒に仕事をする機会なんてこの先ないかもしれない。


だから、翔平君との思い出づくりと言えば久和さんに申しわけないけれど、特別な意味を持つこの仕事を、他の誰かに譲るなんてできないのだ。


ペットボトルのラベルと自動販売機のデザインは同じものにしなければならず、当然翔平君と私が打ち合わせをすることも多いだろう。


それを楽しみにしている気持ちを抑えながら、私は日々精進、なのだ。


そして、最近の翔平君の言動を考えると、「萌桃」の打ち合わせが本格化するまでには私が「水上萌」となっている可能性が高いと思っている。


翔平君は、とにかく入籍だけは早く済ませたいと言って、お互いの事務所への連絡を既に終えているのだ。


最近ようやく大きな仕事を手がけられるようになった私の結婚なんて、なんの話題にもならないし、とくに気にすることもないけれど、かたや翔平君は「片桐デザイン事務所」という大きな事務所のエースであり、俳優としてその名を知られている夫婦のひとり息子なのだ。


翔平君の立場を考えれば、結婚すればかなりの話題となるに違いない。


おまけに見た目もよろしく女性からの人気も高い翔平君が結婚するとなれば、事前の根回しは必須だろう。


結婚すればきっと、事務所への問い合わせも多いだろうし、美乃里さんたちも取材されるに違いない。


芸能生活の長さを考えれば、翔平君のご両親の対応にそれほどの不安はないけれど、仕事に影響が出るのは必至だ。


そんな周囲の状況を考えれば、「とにかく、入籍する」と言い張る翔平君の願いをすぐに叶えてあげることは難しい。


もちろん、私も早く翔平君と結婚して、幸せな毎日を送りたいと思っているけれど、社会人として段取りを踏まなければならないことが次々と頭に浮かんで踏み切れない。


「そこで悩むところが白石のいいところでもあるけど、やっかいな欠点でもあるよな」


「な、なに、突然」


不意に聞こえた声に視線を上げると、小椋君がにやにやしながら立っていた。


「びっくりさせないでよ。それに、どうしたのよ。さっきまでパソコンの前でうなってたのに」


「まあな。いいデザインが浮かばないから休憩しようと思ってこの辺を歩いてたら、小難しい顔でひとりごとを言ってる見慣れた顔があったから、からかってやろうかと」


突然やって来たかと思えば私の向かいの席にさっさと腰掛けた小椋君は、カウンターの向こう側にいるマスターにコーヒーを注文した。


「で? どうするんだ?」


「え?」


「先週、水上さんがうちの事務所にきて白石との結婚を所長と相談してただろ?」


「うーん」


「え? もしかして、結婚したくないとか? 天下の水上翔平との結婚を断るなんて大それたこと、考えてるのか?」


「ま、まさかっ。子どもの頃から大好きな翔平君と結婚できなかったら、私は生きていけないし、そんなこと考えたくもない。ばかなこと言わないでよ」


からかわれているとわかっていても、私は小椋君の言葉に大きく反応してしまった。


翔平君との結婚を断るなんてあり得ない。


この週末に、翔平君は私の家に引っ越してくるし、その受入れ準備も完璧だ。


といっても、ほとんどの段取りは翔平君が整えてくれて、私は自分の物を地味に片づけた程度だけど。


翔平君の商売道具ともいえるパソコン関係は早々に運び込まれていて、セッティングも完了している。


毎日私の家に帰ってきては夜遅くまで仕事をしている翔平君の背中を見ながらベッドに潜るのにも慣れた。


そのまま朝まで何事もなく眠れるかといえばそうでもなくて、翔平君の熱のこもったあれやこれやに起こされるのにも……慣れた。


慣れたというよりも、待ちわびるようになったと自覚して恥ずかしくもあるけれど……。


とにかく、翔平君との暮らしは甘くて優しくて、とても幸せなのだ。


そして、翔平君が今まで住んでいた部屋から、引っ越し業者さんが荷物をすべて運んでくれれば完全に私と翔平君の同居が始まるわけだけれど。


今すぐにでも入籍だけはしたいと言い張っている翔平君をどう説得しようかと、悩んでいる。


やっぱり、翔平君の立場を考えれば、一定の婚約期間を経て結婚したほうが周囲の混乱を避けられると思うのだ。


「強引なのは、昔からだけど……」


私は目の前に置いてあるものを見ながら、肩を落とした。


強気で頑固な翔平君を、結婚は来年の春あたりでと、説得する自信もないし、私だって翔平君と早く結婚したい気持ちはもちろんあるから、このまま押し切られてしまいそうで揺れているし。


向かいの小椋君の存在を無視したまま、何度目かのため息を吐いた。


するとそのとき、私の目の前にコーヒーがふたつ並んで置かれた。


「このおかわりは、サービスしておくよ」


視線を上げると、マスターが大きな笑顔を私に向けていた。


仕事の合間に気分転換によく来る喫茶店。


二十席程度のこじんまりとした店内にはマスターが好きだというジャズが静かに流れていて心地いい。


デザインに煮詰まったときにはしょっちゅうここに来て、リフレッシュしている。


今日も、午後からの打ち合わせを終えたあとここに来て散々悩んでいるけれど、なかなか解決の糸口が見えなくて。


「マスター、ごめんなさい。コーヒー一杯で1時間以上居座ってるね」


私は時計を見ながら焦った。


「別にいいよ。それに、人生の重大な決断を俺の店でしてくれるなんて、わくわくするし。ゆっくり悩んでいいぞ」


「そ、そんな、ゆっくり悩むなんて、とんでもない」


「俺のコーヒーもマスターのおごり?」


小椋君がテーブルに置かれたコーヒーをひとつ手元に寄せながら口を開いた。


「まさか。今日は白石さんの記念日になりそうだから、そのお祝い。小椋君もこの店でこれと同じものを広げる日がきたら、コーヒーくらいもちろんおごってやる」


「あー。俺はまだまだですね……。それどころか彼女とはかなり前に……」


「ん? 小椋君、どうしたの? そんな暗い声出して珍しい。あ、さてはこれを見て小椋君も彼女と結婚したくなったとか? 綺麗な彼女だったもんね、早く結婚したいよね」


いつになく元気のない小椋君が気になって私は明るく声をかけたけれど、何故かその場には沈黙が広がった。


「え? どうかした? 私、何かまずいことでも言ったかな」


「いや、白石さんは恋人のことだけを考えて、白石さんの幸せを掴めばいいんだよ。ようやく実を結んだ初恋ならその幸せにべったりと浸らなきゃ。で、小椋君は諦めるべきものはさっさと諦めて、明るい未来のために前進あるのみ。手に入れられないものにこだわっていたら幸せにはなれない」


「え、どういう……」


マスターの言っていることが理解できず、私はマスターと小椋君を交互に見る。


苦笑いしながら小椋君の頭をくしゃりとしたマスターと、何かを吹っ切るように大きく息を吐いた小椋君。


そこに重苦しい雰囲気を感じるけれど、その理由がまったくわからない。


小椋君とは、大学は別だったとはいえ、小学生の頃からの長い付き合いだ。


仕事での苦労も共に分け合い切磋琢磨してきたというのに、悩み事を抱えていても相談すらしてもらえないのかと思うと少し寂しい。


「私って頼りないけど、相談にはのるよ」


窺うようにそう言った私に、小椋君は力なく視線を向けたかと思うと、がっくり肩を落とした。


「相談したら白石はかなり困ると思うからやめておく。マスターが言うように、諦めるものは諦めて、幸せな未来をこの手に」


小椋君は何故か握りこぶしを両手で作り、力強い声をあげた。


「な、何言って……?」


相変わらずとんちんかんなことばかりを言っている小椋君だけど、彼の言葉の意味を、マスターはちゃんとわかっているようで、肩を揺らして笑っている。


男同士ならわかるものなのだろうか。


「小椋君、あの、私、ちっともわかんないんだけど」


「あ? 世の中には知らないほうが相手のためだってこともあるんだ、それ以上は聞くな」


小椋くんはそう言ってコーヒーを口にし、この話はこれで終わりとばかりに視線を店内に向けた。


気付けばマスターはカウンターの向こうに戻っていて、他のお客さんの相手をしている。


小椋君とふたり、慣れない気まずさにどうしようかと思いつつテーブルに視線を落とすと、今私を悩ませている、そして大切なものが再び目に入った。


「水上さん、達筆だな」


「あ……そうだね。昔から字がきれいだったから、兄さんは比べられて文句ばっかり言ってた」


目の前に広げられている薄い紙一枚。


手持ちの文庫本で端を押さえ、店内の空調で飛んで行かないようにするほどの軽い紙だ。


だけどその薄さや軽さに反して、それが持つ意味はとても大きい。


これからの人生を誰と歩んでいくのかを決意する、大切なものだ。


紙切れ一枚とよく言われ、そんなもので人生を縛るのはおかしいだとか、それよりもお互いの気持ちのほうが大切だとも聞くけれど。


その紙切れ一枚に書かれた名前を見れば、嬉しさで震えるほどだ。


「婚姻届って、初めて見た」


「うん、私も」


私と小椋君は、テーブルに広げた婚姻届に視線を落とし、じっと見つめた。


翔平君が書くべき「夫になる人」の欄は既に記入が終わり、「同居を始めたとき」の欄にも翔平君が私の家に初めて泊まった日付がひときわ力強く書かれている。


それを最初に見たとき、同居することがよっぽど嬉しいんだろうと思い、その子供っぽさに思わず吹き出しそうになった。


翔平君の書いた文字が達筆なのは誰が見ても明らかで小椋くんも感心しているほどだけど、普段以上にその文字が生き生きしていると感じるのは私だけかもしれない。


その文字の大きさと筆圧の高さから、翔平君がどんな気持ちでこれを書き上げたのかがわかる。


結婚が嬉しくて嬉しくてたまらないと、紙切れ一枚の向こう側から叫んでいるようだ。


それと同時に、婚姻届を薄い紙切れ一枚と言って軽く受け止めるひとも多い中で、翔平君が結婚への心構えと喜びを隠すことなく見せてくれることに、私は愛されていると実感できて胸がいっぱいになる。


喜びに満ちた思いが溢れているのは両家の父親の署名が済んでいる証人の欄も同様で、ひと文字ひと文字丁寧に書かれた名前を見れば、私と翔平君のことを愛しく思う親の愛情が感じられ、これもまた私の胸をいっぱいにした。


「白石も、『妻になる人』の欄にちゃんと書いたんだな。水上さんに負けないくらい綺麗な字で、羨ましいよ」


「ありがとう。これも翔平君の影響なんだよね。翔平君の字があまりにも綺麗だから、私も真似したくて小学生の頃から書道教室に通ってたの。……厳しいおばあちゃん先生だったから、礼儀や挨拶にも厳しくて大変だったけど」


私はそう言いながら、正座が苦しくて思わず足を崩した瞬間叱られたことを思いだして、肩をすくめた。


「そうか。白石が生きていくためのすべての指針は水上さんなんだな。小学校からの長い付き合いだからって、俺が勝てるわけないよな」


「ん? 声が小さくてよく聞こえなかったんだけど、どうしたの?」


「いや。俺も、将来の婚姻届の記入に備えてペン文字のおけいこでも始めようかなって言っただけ」


「ふーん。小椋君の字だって、読めないほど汚いわけじゃないよ」


「それ、誉めてないだろ」


「ふふっ。ばれた? でも、字が綺麗なのは財産だから、頑張る価値はあると思うよ。婚姻届に記入する機会なんて一生に一度……のはずだし、綺麗に書けたら幸先いいから気持ちもあがるんじゃない?」


「……そんなに嬉しそうに話すくせに、どうして婚姻届を見ながら悩んでるんだ?」


「え?」


「ここに来てからずっと、浮かない顔でにらんでないか? 初恋が実ってようやく結婚することになったっていうのに、その顔はないだろ」


「睨むなんて、そんな人聞きの悪いこと言わないで」


呆れたように小椋君に言われて、焦ってしまう。


その自覚があるだけに、強く反論できない。


たしかにこの席に座って一時間、翔平君から手渡された婚姻届を前にして、悩みに悩んでいる。


正確に言えば、夕べ翔平君から大きな笑顔とともに渡されて以来くよくよ悩んでいるのだ。


翔平君に急かされて、必要事項はベッドに入る前に記入させられたけど、昔からここぞという時に使う印鑑を会社に忘れていたせいで、捺印だけはできなかった。


その印鑑は何年も前に亡くなったじいちゃんが用意してくれたもので、「萌」という名前をつけてくれたじいちゃんの形見ともなっている。


結婚して苗字が変わる前の最後のお役目。


そんな大仕事を、じいちゃんの印鑑は待っているはずなのだ。


そして今、私の手元にその印鑑があり、あとは婚姻届に捺印するだけとなっている。


たったそれだけなのに、私は婚姻届を前に、何もできずにいる。


意識していなかったけれど、小椋君が「睨んでいる」というのなら、きっとそうなんだろう。


「そういえば、水上さんがデザインしたショッピングモールのロゴ、賞を獲ったよな」


ふと思い出したように、小椋くんがそう言った。


そして、手元に置いていたスマートフォンを操作し、私に向けた。


「水上翔平といえば、インパクトで攻めるというよりも、飽きのこないデザインと記憶に残る温かさ、だよな。賞を獲ったこのロゴだって色遣いは派手じゃないし子どもでも画用紙に書ける単純な線だけど、見れば行ってみたいと思うよな」


「そうだね。どんな色味のポスターの片隅にでもすんなりと収まっちゃうし、違和感ないし。今、子どもでもって言ってたけど、幼稚園のお絵かきの時間に子どもたちが描く絵の中で、何故か今このロゴが一番多いらしいよ」


「まじ? 凄いよな、水上翔平。あー、こないだファミレスで会ったとき、もっと色々話しておけばよかったよ。あのときは水上翔平が恋人に甘々な姿に驚いて、言葉失ったもんなあ」


小椋君はちっと舌打ちすると、スマートフォンの画面に見入りながら何度も頷いている。




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