初恋29
膝の間に顔を埋め、何度かため息を吐いていると、翔平君の手が私の頬に触れた。
そして、その手が私の顎の下に差し入れられ、くいっと上に持ち上げた。
「酒のせいでピンクに染まった萌の顔、まるで桃のようだな」
すぐ目の前にある翔平君の顔は、いかにも嬉しそうで目じりも下がっている。
「兄さんと一緒ですぐに顔に出ちゃうんだもん」
「樹もすぐに顔に出るから、学生時代はよくからかわれてたな。だけど、あいつの飲みっぷりは半端じゃない。萌もそうだろ」
「うん。顔が赤くなるわりに、お酒は強いかも。だけど、赤くなるせいで周りからは強く勧められないし助かるんだけどね」
そう言ってから笑いする私に、翔平君は複雑な顔を見せる。
「他人にこの赤くてかわいい顔を見せないで欲しいけど、仕事しているとそれは無理だな」
「ん?」
「いや、この赤くて桃のような萌の顔を見ていたら、あの仕事はやっぱり萌にぴったりだと思ったんだよ」
翔平君は首をかしげる私の隣りに腰をおろし、優しく抱き寄せてくれた。
「アマザンホテルのテーマカラーのピンクは、俺が発案して、ホテル側と話し合って決まったんだ」
「え、あ、そうなんだ」
なんの脈絡もなく出たアマザンホテルの話題に、どう答えていいのかわからない。
翔平君の鎖骨あたりに顔をのせ戸惑っていると、翔平君の口元がほころんでいた。
うれしそうに上がる口角に見惚れていると、秘密を打ち明けるようなもったいぶった声が聞こえた。
「ピンクっていうのは、萌を連想させる色なんだ。萌が小学生の頃、ピンクの服をよく着ていたし、何か買ってやるって言うと、いつもピンクを選んでいただろ?」
「そうだったかな……。ごめん、よく覚えてない」
小学生の頃のことは、覚えているようで覚えていない。
友達と楽しく遊んでいたことや、逆に喧嘩しちゃったことなんかはよく覚えているけれど、当時の私が何を好んでいたのか、よく覚えていない。
唯一、翔平君のことが大好きだったのはよく覚えているけれど、他に強く印象に残っているものはないような気がする。
どこまで私は翔平君のことが大好きだったんだろうかと照れくさくなった。
「あ、でも、ランドセルはピンクだった。おじいちゃんが買ってくれたお気に入り」
「そうだったな。ランドセルもピンクだったし、ピアノのレッスンバッグもピンクだったぞ」
「私も忘れていたのに、よく覚えてるね。でも、それがどうかしたの?」
急にアマザンホテルのことや、私がピンク好きだったということを口にしたのには何か理由があるのだろうか。
そっと翔平君の胸元から体を離し、視線を上げた。
すると、私の疑問を察したのか、翔平君はゆっくりと口を開いた。
「今回の復刻版の最後を飾る商品が桃のジュースだって知らされたとき、萌がピンクのランドセルを背負っていた姿を思い出したんだ。おまけピンクがイメージカラーであるアマザンホテル限定の商品だって聞いて、これはもう、久和さんの思惑通り、絶対萌に参加させたいって思ったんだ」
「ん? どうして? ピンクが好きなベテランの同業者は他にもたくさんいると思うけど?」
たとえ私が昔からずっとピンクにこだわりを持っていたにしても、私より経験豊富なデザイナーは他にたくさんいると思う。
それなのにどうして翔平君が私にこだわるのか理解できない。
私は首をかしげ、翔平君を見つめた。
すると、翔平君はあたりを見回し、近くにあったテーブルの上にあったペンと紙を手にした。
「復刻版の桃のジュースだけど、味は以前のものとは多少変わるけど、名前は昔のまま使うって言っただろ?」
「うん、聞いた」
私が頷くと、翔平君は手にしていたペンで何かを書き始めた。
さらりと書かれたその文字を見た私は。
「あ。私の名前が」
小さく声をあげて驚いた。
テーブルの上の紙と翔平君の顔を交互に見ながら、「も、もも……もも」と何度も口にする私に、翔平君はくすくすと笑う。
「落ち着けよ。覚えてるか? 萌の名前と桃という漢字を並べて『もも』と読むんだ。10年以上前に販売終了して以降も復活を求める声は根強くて、今回のプロジェクトも、その声に応えるためのものだと言ってもおかしくないらしい」
私はテーブルの上にある紙を手に取り、じっと見る。
そこには「萌桃」と書かれていて、その文字の上には「もも」とひらがなで読み方も書いてあった。
「思い出した……。小さな頃、じいちゃんに「萌の桃ジュースだぞ」って教えてもらって、よく飲んでた」
「俺が萌の家に行くようになってしばらくは販売されていたから、白石家の冷蔵庫によく並んでいたな」
「うーん。そうだったっけ」
微かな記憶を手繰り寄せる。
「萌桃」と書いて「もも」と読む、名前通りの桃のジュースはどろりとした桃の濃厚さがたまらなくおいしい飲み物だった。
たまたま私の名前が付けられたそのジュースは、子供のころの特別だった。
とくにじいちゃんは「じじばか」全開で、「桃のように愛らしい萌のために作られたジュースだな」と口にしてはよく買ってきてくれた。
缶を一本飲み干すと、たちまち満腹になり、ご飯が食べられなくなっては母さんによく怒られていた。
たしかによく飲んでいたけれど、翔平君が我が家にくる機会が増え、冷蔵庫に翔平君が好きなオレンジジュースが並ぶにつれて気持ちは桃からオレンジへとシフトしていった。
翔平君と同じものが飲みたいという、単純な恋心を露わに見せながら、私の中から「萌桃」の存在は薄れていき、そして販売中止となった。
その後、私の記憶の中から「萌桃」はゆっくりと消えていったのだ。
「『萌桃』が復刻版のラストを飾り、おまけに俺と萌にデザインの仕事が舞い込んだなんて、運命のようだろ?」
「運命……」
「ああ。萌のための桃のジュースに、俺たちが関わる事ができるって知って、もう、俺の我慢も限界に近かった」
「……限界?」
その言葉の意味がわからなくて、じっと翔平君を見返すと、途端に私が手にしていた紙が取り上げられ、テーブルに戻された。
「どうしたの?」
驚いてその紙に視線を向ける私を、翔平君があっという間に抱き寄せた。
ソファに背を預け、膝の上に私を抱きかかえた翔平君は、大きく息を吐くと。
「今回の自動販売機の製造を請け負ったのは、萌が採用試験を諦めた会社だ」
「え?」
「久和さんからプロジェクトの参加を打診されたときに、自販機の製造を請け負う会社も聞いて、もしもあのとき萌が採用されていれば、今回のこのプロジェクトに設計者として参加していたのかもしれないなって思って、改めて落ち込んだ」
私の耳元にそう呟くと、翔平君の手は私の後頭部を柔らかい仕草で撫でた。
「だけど、萌が希望していた仕事を諦めて、求めていた未来とは違う今を送っていても。こうして同じプロジェクトに参加できるのなら、それはそれでいいんじゃないかとも思ったんだよな」
「……どういう、意味?」
「立ち位置は違うとはいっても、自販機に関わる仕事ができるんだから、萌の人生を変えてしまった俺の我慢にもエンドマークを置いてもいいんじゃないかなと思ったんだよ」
私の顔を覗き込み、優しい声音でそう言った翔平君は、何度か私に頷いてみせた。
普段よりも軽やかな口ぶりと楽しそうな表情につられて、私も頬が緩むのを感じた。
だけど、さっきも「我慢」という言葉を口にしていたけれど、翔平君は何を我慢しているのだろうかと、ふと思う。
すると、私の戸惑いを察したかのように、翔平君の笑顔が大きくなった。
「前も言ったけど、萌の人生を変えてしまったことに責任を感じていたから、たとえ今同じ業界にいても口は出さず見守るだけにしようと思ってたんだ。別府さんの事務所にいればそれだけで勉強になるし、俺が口をはさむよりもいい経験をさせてもらえるってわかってたし。これ以上萌の人生に立ち入ることを我慢していたんだ」
「は? なにそれ」
翔平君が口にした「責任」という言葉に、ぴくりと反応した。
「まだそんなこと思ってたの? 私があのとき、採用試験よりも翔平君を選んだのは私自身だし後悔してないって何度も言ってるのに」
翔平君の両肩を掴み、強い口調で言った。
これまで何度も「気にしないで」と言っていたのに、翔平君には私の気持ちは伝わっていないどころか不要な気遣いまでされていた。
「言ったでしょ? 翔平君があのとき無事で良かったって。こうして一緒にいられることほど幸せなことはないって、あれほど言ったのに、結局私の言葉は無視されたってこと?」
「そうじゃない。違うんだ」
「違わない。私の人生に立ち入らないようにして、気にしていたんじゃない」
「だから、違うって言ってるだろ、黙って聞け。萌の人生に立ち入るのはやめようって、あの事故のときには思った。だけど、それは過去形だ。萌が仕事でヒット商品を出すほどの成長をして、久和さんのような仕事がデキるひとからオファーがあるなら、もう俺が何をどう言おうが自分の実力で生きていけるって、そう思ったんだよ」
「……どういう、こと?」
翔平君の大きく激しい声に、私はうろたえた。
「実力で生きていけるって、言われても」
かすれた声でそうつぶやいて、深く息をついた。
自動販売機のデザインのことや、翔平君が抱えていたらしい思いを聞かされて、かなり混乱している。
おまけに普段とはまったく違う翔平君の激しい口調に驚いて、何をどう答えていいのかもわからない。
翔平君は、私の両手を自分の肩からそっとおろし、そのまま私の体を抱きしめた。
お互いの体が触れ合うぎりぎり、そして私がいつでも離れることができるような優しい力で私をその胸に包み込む。
「もちろん今でも、あの事故がなければ萌は自分が求めていた仕事に就いて幸せに過ごしていたんだろうって思ってる。だけど、この五年、萌がデザインの世界で地に足をつけて努力していたのもよく知ってるんだ。俺のことを出来の悪い息子だって笑い飛ばす別府さんに、俺が萌を大切に思っていることを見抜かれて以来、しょっちゅう萌の仕事ぶりは聞かされていたからな」
「別府所長? あ、美乃里さんと友達だから……」
「そう。俺のことなら母さんのお腹にいるときから知っているんだ。母さんと父さんの仕事が忙しくなったのと同じころ、別府さんもその名前が知られるようになった。だけど、大きな仕事ばかり舞い込んでくるのがわずらわしくて、「片桐」を辞めて独立したんだよ」
「うそっ。「片桐」をやめたって、あんな大きな事務所なのに……。でも、なんだかわかる気もする」
世間からの注目が高い仕事ばかりでなく、事務所の周囲一キロ圏内の小さな仕事も喜んで引き受ける別府所長を、ずっと見てきた。
大きな仕事がしたいのではなく、楽しい仕事がしたい。
別府所長の仕事へのテーマは単純だ。
けれど、自分がしたい仕事だけをして成り立つほど、事務所経営は甘くない。
もともと頭のいい人だから、そのことを一番わかっているのも別府所長だ。
「別府所長がときどき思い出したように大きな仕事をとってくるのは、私たちの生活のためだし。ほんと、奥が深いというか、つかみどころのない人」
思わずつぶやいた私に、翔平君も笑って頷いた。
「俺が萌を気にかけているからって、別府さんが萌を特別扱いしていたわけじゃないぞ。ただ、真面目に仕事に取り組んで、少しずつ大きな案件に関わる機会が増えていく様子をたまに教えてくれていただけだ。まあ、教えるというより、俺が知らない萌を知っていることを自慢していただけだったけど」
「そんなの、全然気づかなかった」
「だろうな。俺との深いつながりを萌が知れば仕事に集中しづらくなるって思ったんじゃないか? ま、それがわかっていたから、俺も別府さんは上司の知り合いだってごまかしてたけど」
軽やかな笑い声をあげる翔平君に包まれて、体がじわじわと興奮していくのを感じる。
この短い時間に知ることとなった重要かつ腹立たしいいくつかのこと。
そのせいで、体温も上がっているに違いない。
思わず両手を翔平君の背中に回して何度か叩いた。
「いてっ」
私が叩くたび翔平君はうめき声をあげるけれど、私の手から逃げる素振りもみせず、素直にその痛みを受け入れている。
まるで私がそうすることをわかっていたかのようだ。
私の体を緩く抱きしめているのも、私が動きやすいように、そうしているのかもしれない。
私の行動ならお見通しだというようなそんな翔平君のできすぎなところ、普段は気にならないのに今はむかついてばかりだ。
「そりゃ、あの頃やりたかったのは自動販売機の設計だし、今でも未練がないわけじゃない。今日、久和さんから自分の好きな仕事をしなさいって言われたときにもちらりとそのことが浮かんだし、いつかその世界を見てみたいとも思うけど。今はデザインの世界で一旗揚げるって決めてるから、へたに気を遣ったり過去の自分を悔やまないで」
「……ああ」
私を好きだと言い、結婚しようと約束したというのに、翔平君は、いつまで過去にこだわっているのだろうかと、悲しくなる。
翔平君が私を大切にしすぎることには慣れているけれど、私の気持ちを読み違えての気遣いならいらないのだ。
私は翔平君の背中に回していた手を外すと、そっと体を離した。
「翔平君が私の未来を変えたのは事実だけど、それは、幸せな未来に変えてくれたってことだから。結局、私は翔平君から離れることなんてできなかったに違いないし、どんな道を歩んでも、たどりつくのは今のこの場所だと思う。翔平君の側で仕事をしてるに違いないんだから」
どう言っていいのかよくわからないまま、とにかく自分の想いを口にした。
あのときの事故がなくて、私が順調に採用試験を受けて内定をもらい、入社したとしても。
私は翔平君のもとに帰りたくて仕事なんて手につかず、早々に退職して実家に戻っていたに違いない。
そして、今の事務所ではないにしても、翔平君の近くにいられるようにデザインの仕事ができる場所を探して働いていると思う。
それに。
私が翔平君から離れられないことを、あのときもわかっていたはずなのに、自分を守ることしか考えられなかった私の弱さのせいで、翔平君の未来も変えてしまったのかもしれない。
「翔平君が事故にあったのは、私のせいかもしれないし……だって、翔平君から逃げようとしてたんだもん」
「萌、それ以上はいいんだぞ」
翔平君の気遣うような声が聞こえたけれど、一旦口にした言葉が呼び水となって、私の心の奥底に置いていた感情があふれ出る。
「私……逃げようとしていたから」
そう口にした途端、きりりと胸が痛んだ。
逃げるという言葉に、心が敏感に反応する。
本当はあの日、採用試験を受けようとしていた以前からそれに気付いていたのかもしれない。




