初恋27
夕方、翔平君の車で家に帰ってきた。
師走の日暮れは早く、とっくに辺りは暗くなっていた。
家に入り、リビングの電気をつけた途端、部屋の真ん中にどんと置かれている物に気付いた。
「わー、届いたんだ」
心待ちにしていたライトが、そこにあったのだ。
「予想していたよりも大きかったな」
すらりとした細身のフォルムに手で触れながら、その姿を確認していると、翔平君が隣に立った。
「これ、俺の部屋にあるのと似てないか? あ、同じメーカーのライトだな」
「うん。翔平君の家にあるのを見てからずっと、いいなあって思ってたの。美乃里さんがプレゼントしてくれたソファと同じくらい、ずっと欲しかったんだ」
私の背よりも高く、凛とした雰囲気をまとうライトに目を細める。
ポール部分の直線がなんともいえずクールで、何度も指先で触れてみる。
「だけど、俺がここに越してくるときには俺のライトも持ってくるからいらなかったのに」
「……あ、そうか。でも、あのライトは翔平君のものだから」
「関係ないだろ。一緒にここで暮らすようになったら、というより結婚したらふたりの物だろ、なんでも」
そう言って、翔平君の手が伸び、アーム部分を動かしている。
「ソファの横に置くのか?」
「うん。ソファで翔平君が読書するときにライトをつけるのを見て、格好いいって思ってたんだ」
なんだそれ、と苦笑しつつも翔平君はライトを慎重に持ち上げ、ソファの横に置いてくれた。
そして、ライトの位置を調整してくれる。
映画でも使われるほどのセンスのいいソファとこのライトが並べば、それだけでこの部屋が上等なものに見え、わくわくしてくる。
おまけに、決して安くはないライトの代金も、両親が「引っ越し祝い」と言って出してくれた。
昨夜、母さんたちが我が家に来たあと、仕事で家を空けるからライトの配達日を変えてもらわなくてはと注文伝票を探していたとき、母さんが家に来て受け取ってくれると言ってくれた。
我が家は実家から歩いて十分程度だ。
買い物にでかけるついでに寄ってあげるという母さんに甘えてお願いした。
梱包も解かれ、ダンボールなども片づけてくれたようで、ライトと保証書らしきものが残されているだけになっていた。
いつも手際よく家事をこなす母さんの気遣いがありがたい。
ソファに腰掛け、ライトと点けたり消したりしていると、翔平君も私の隣に腰掛けた。
コートを脱ぎ、オフホワイトのセーターとジーンズというあっさりとした服を着ていても見惚れてしまい、そっと視線を逸らした。
恋人となって日が浅いせいで、翔平君の隣にいることにも慣れないし直視するのも照れてしまう。
恋心を隠していた頃のほうが、ちゃんと翔平君の顔を見れたかもしれない。
それって、かなり幸せな悩みだなと口元を緩めていると。
翔平君は、座ったまま体を私に向け、口を開いた。
「『白石萌』から『水上萌』に変わる前に、プレゼントがあるんだけど」
「プレゼント?」
「ああ。さっき、久和さんが口を割らなかった秘密のプレゼント」
「な、なに?」
なにか躊躇しているような翔平君の言葉に違和感を覚えた。
私の反応を探るような瞳から、不安が見えている。
いつもの飄々としていて自分の想いには忠実な翔平君とは違うその様子に、とくん、と胸が鳴った。
私の頬をするりと撫でる指先もいつもより神経質に思えて気になるけれど、その指先に触れられるたび私の体が喜んでいるのがわかる。
どこまで私は翔平君に惚れているのかと思いふふっと笑い声を上げた。
おまけに、何度か唇を引き締め、話すタイミングを図っている表情もまた素敵で。
何をしても何を言われても、私は翔平君が大好きなんだと、改めて実感していると。
翔平君は私の頬から手を離して、ソファの足元に置いてあった鞄の中から何かを取り出した。
「……これ、覚えてるよな?」
「え、これって」
私は、翔平君の手にあるものを見て、慌てて手を伸ばした。
「うそっ。これ、今頃どうして翔平君が持ってるの?」
思わず両手で抱えるように持ち、じっと見ながら翔平君に大声で尋ねた。
今私の手にあるもの、それは翔平君が大好きだったオレンジジュースだ。
熱を出した翔平君のために自動販売機まで買いに行ったのに、当時の私の身長ではひとりで買うことができなかったオレンジジュース。
あの日、美乃里さんに抱っこしてもらってようやく手に入れた懐かしい物だけど、どうして翔平君が持っているんだろう。
「よく見てみろ。ちょっと違うだろ? というより、昔は缶ジュースだったけど、ペットボトルになってるんだ」
「あ、そういえば」
言われたとおり、当時翔平君がよく飲んでいたのは缶ジュースで、今私が手にしているのはペットボトルだ。
それも、飲みきるのにちょうどいい三百五十ミリリットルの小さなもの。
「ラベルのデザインが当時の缶のデザインと同じなんだね、きっと」
「ああ。あの頃のデザインを基本的にはそのままラベルに使ってるんだ。少し手が加わってるけどな」
翔平君の言葉に私は頷き、再びオレンジジュースに視線を戻した。
たとえペットボトルに形を変えていても、目にした瞬間、翔平君が大好きだったオレンジジュースだと気づいたのは、ラベルに描かれているデザインが当時のままだったからだ。
黄色とオレンジ色が映える太陽の絵は、当時活躍していたイラストレーターさんにお願いして描いてもらったと聞いたことがある。
どこかいびつな形の太陽には人のよさそうな笑顔が描かれていて、何故か太陽から伸びた手がうちわを持っているという楽しい絵だ。
「昔のままの絵だね。でも、太陽がこんなにとぼけた笑顔だったなんて忘れてた」
ペットボトルのラベルを指先でなぞり、あの頃を思い出す。
「翔平君、いつもこのオレンジジュースを飲んでたよね。兄さんが炭酸飲料を飲んでる横で、こればっかりだったよね」
「そうだな。樹は炭酸以外は欲しくないって言ってこのオレンジジュースには見向きもしなかったから、白石家の冷蔵庫を開けて取り合いになったことはなかったな」
当時を思い出したのか、懐かしそうにそう言って、翔平君は肩を揺らした。
そういえば、我が家の冷蔵庫にはいつもこのオレンジジュースが並んでいた。
そうだ、翔平君が熱を出したあの日は、たまたま切れていたから私が買いに行ったんだ。
それに、普段から兄さんが大好きな炭酸飲料よりも冷蔵庫に多く入っていた記憶もある。
兄さんと翔平君が高校生だった頃、ほぼ毎日我が家に来ていた翔平君のために母さんが用意していたのはオレンジジュースだけじゃなかった。
普段食事をするときに使う食器は翔平君のものが食器棚に揃えられていたし、夜中まで勉強するときの夜食用にと兄さんと翔平君それぞれが好きなインスタントラーメンが戸棚に備蓄されていた。
兄さんと翔平君が夜中に台所でラーメンを食べながら英単語を覚えていたのを何度か見て、無理矢理仲間に入れてもらったこともあった。
翔平君にわけてもらったラーメンのおいしさは、格別だった。
そして、着替えや歯ぶらしはもちろん、美乃里さんが用意したという布団もちゃんと我が家の二階にあったし。
翔平君が我が家で過ごすことは当然だという雰囲気を、まずは物質面からかためた母さんの作戦。
年頃の男の子だから、たとえ親友の家だとしても世話になることに照れくささもあっただろうし、抵抗ももちろんあったに違いない。
けれど、元来が世話好きで困っているひとを放っておけない母さんはそんなことお構いなしに翔平君を我が家に呼び面倒をみていた。
最初は遠慮していた美乃里さんも、母さんの性格に逆らうことはできず、恐縮しながらも母さんに翔平君をお願いしていた。
そのお礼というわけではなかっただろうけれど、翔平君のご両親のコネで手に入りにくいコンサートのチケットをもらったり、時には撮影現場にお邪魔させてもらったりもした。
母さんの図々しさに驚くこともあったけれど、今振り返れば、そうやって美乃里さんから何かと融通してもらうことで彼女の遠慮や申しわけなさを少しでも軽くしようとしていたとわかる。
翔平君が大学生になって独り立ちして以降、時々我が家に泊まりにくることはあっても美乃里さんからは何ももらうことはないことからもわかる。
その頃の思い出の象徴でもあるこのオレンジジュースは、翔平君にとっても私にとっても忘れることができない宝物だ。
私が自動販売機の設計をしたいと思ったのも、このオレンジジュースがきっかけともなれば、再びこうして手にすることができて、次第に強くなる興奮を抑えることはできない。
「だけど、どうして翔平君がこのジュースを持ってるの?」
私の隣りで黙ったままオレンジジュースを見ていた翔平君に尋ねた。
たしか何年も前に販売中止になった商品だし、缶からペットボトルに変化している理由もわからない。
すると、翔平君は私の手からオレンジジュースを取り、太陽の絵を見て小さく笑った。
「いつ見てもおかしいよな。俺、このふざけた太陽の笑顔を初めて見たとき、怒っていたのに思わず笑ったんだよな」
「たしかに笑うよね。癒されるっていうか、悩むのもばかばかしいっていうか」
「だろ? 今思えば母さんがそれを狙って俺に渡したんじゃないかと思うんだよな。まだ小学生だったし、単純だったな」
「美乃里さんが?」
「ああ。白石家の冷蔵庫に並んでいたこのオレンジジュースは全部母さんが送っていたんだ」
「そんなこと、全然知らなかった」
「俺が好きなオレンジジュースを冷蔵庫にいつも入れておいてくれって、おばさんにお願いしたらしい。特殊な仕事をしていても、母親としての愛情はかなり強い人だから」
「かなりどころか、びっくりするくらい翔平君を愛してるよね。だけどなかなか会えないから悲しそうな顔をよくしてた……それは今もだけど」
昨夜、美乃里さんが見せた切なげな表情を思い出した。
テレビや映画で見る美乃里さんよりも綺麗に見えたのは、彼女の本来の姿を知っているせいだろう。
大人になった今でも、翔平君を愛してやまないお母さんなのだ。
「今ならそれもわかるけどさ、ガキの頃の俺はそんなことわかるわけないし母さんと父さんが仕事で家にいないことに慣れてはいても、やっぱ寂しくて、母さんによくあたっていたんだ。で、運動会のときくらい弁当作って来いって爆発した俺に、母さんがくれたのがこのオレンジジュース。太陽の笑顔を見てふたりで笑って、でも母さんはそのうち泣きだしたんだ。俺にごめんって謝りながら。だけど、運動会の日は撮影でフランスに行かなきゃいけないって言って、大声で泣き続けて」
翔平君はそこでひと息いれるように黙ると、ふっと視線を天井に向けた。
昔を思い出しながら話す翔平君の隣りで、私は「ガキの頃の翔平君」に会いたかったなと思う。
見た目麗しい翔平君がランドセルを背負っていたり、駄々をこねている姿を想像するだけでわくわくしてくる。
その頃の写真が残ってないかな。
翔平君の引っ越しのどさくさに紛れてこっそり探してみようと考えていると、翔平君が私の頭をポンとひとたたき。
「写真なら恐ろしいほどあるぞ」
「え」
「ガキの頃の俺、見たいんだろ?」
「どうして、それが……」
「どれだけ長い間、萌の側にいると思ってるんだ。……父さんと母さんはたまに俺に会うとずっとカメラを手にして俺を撮ってたんだ。会えない間にそれを見て泣いてたってのも最近聞いたけど、本当に俺のことが好きなんだなって、もう、気持ち悪いだろ」
「ふふっ。そう言いながら、翔平君嬉しそうだけどね」
「……うるさい」
私を抱き寄せてその胸に押し付ける翔平君の体温はかなり高い。
照れて真っ赤になっているに違いない顔を見せたくなくて、私の頭をぐりぐりとその胸に押し付けているに違いない。
私は、顔をどうにか動かして、視線だけを上に向けた。
やっぱり、翔平君の顔は赤かった。
ふたりでひとしきりくすくす笑い、翔平君の気持ちが落ちついたとき。
「あの日、運動会に行けない、フランスに行きたくないけど行かなきゃだめだって子どもみたいに大声あげて泣く母さんを見てたらさ、なんか拗ねるのがばかばかしくなったんだ。滅多に会えなくても、運動会や参観日に来れなくても、こうして俺を想って泣いてくれるならそれでいいやって」
「うん……」
「中学を卒業するまでは、お手伝いさんが来て俺の世話をしてくれたし、その頃はまだ元気だったじいさんばあさんが田舎から出てきては昔ながらの叱り方で俺をしつけてくれたし。それって別に不幸ではないし。で、しょっちゅうこのオレンジジュースを飲んでた」
「長い付き合いだね」
そう言って、翔平君の手にあるオレンジジュースのラベルをふたりで見ると、やっぱりその絵を見て笑ってしまう。
「この太陽のすっとぼけた笑顔を見ると、母さんが泣きながら俺と一緒にいたいって言った日を思い出すんだ。それがあるからぐれることなく育ったんだけど……このことは、日付が変わったら忘れろ。いい年したオトコがこんな女々しい思い出を語るなんて恥ずかしすぎるだろ」
早口でそう言った翔平君は、続けて「あー、忘れろ忘れろ」と何度か繰り返したあと、その場の空気を変えるように、ソファに深く腰掛けた。
そして、私の肩を抱き寄せていた手をそっと離し、そのまま体を遠ざける。
離れた体温が恋しくて、翔平君の胸を追いたくなったけれど、翔平君の表情が硬いものに変わっていることに気付き、動きを止めた。
照れて赤くなったり、ラベルを見てくすくす笑っていたはずなのに、問いかけるようにその瞳を私に向けている。
「翔平君? どうかしたの?」
目の前にある表情につられるように、私は問いかけた。
かなり小さな私の声が、翔平君の耳に届いたのかどうかわからなかったけれど、聞き返すことなく、翔平君は再び口を開いた。
「今回のペットボトルのラベルだけど、最初にこのラベルを描いた人の許可を得て、俺が手直ししたんだ」
「翔平君が手直し? えっと、手直しした意味って一体何? それに、あの、さっきも聞いたけど、どうしてここにあるの?」
さっきから気になっているけれど、もう販売されていないこのオレンジジュース、それも以前は缶だったのにペットボトルに形を変えて。
「久しぶりに手にして嬉しいけど、どうして?」
すっとぼけた太陽の笑顔は昔と変わらないけれど、翔平君が手直ししたというように、以前よりも輪郭がはっきりとしているような気がした。
子どもの頃の絵は、どこか曖昧な色使いで、輪郭もはっきりとしないものだった。
素朴な雰囲気が大好きで、ジュースそのものよりも缶に描かれた絵に魅かれていたといっても言い過ぎではない。
けれど今目にしているものは、笑顔にメリハリがあり、背景にも以前はなかった細かい水玉模様が施されている。
これも翔平君が描いたのかな。




